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47 緑の衝撃と深夜のわさび擦り円舞曲

「実は知り合いの農家さんから清流で育った生わさびをたくさん頂いたのよ。今夜はこれで最高のわさび丼を作りましょう」


 夕方、テトラ・アコードに理恵は大きな籠を抱えて戻ってきた。中には瑞々しく泥を落とされた立派な深緑色の生わさびがぎっしりと詰まっている。


「おいおい、理恵。わさびって薬味だろ。それを丼にするって――まさか白飯の上にこれだけを乗せて食う気か?」


 大吾は眉を顰めて呆れたように腕を組む。


「お母さん、それ絶対に鼻がつーんってなって涙が止まらなくなっちゃうやつだよ!」


 陽菜も慌てて首を振る。


「非合理的ですね。辛味成分アリルイソチオシアネートの過剰摂取は痛覚の麻痺を招くだけ」


 結衣も蒼い眼鏡の奥で否定的な数値を弾き出していた。


「ふふふ、まあまあ、これを見てよ」


 理恵は悪戯っぽく笑うと木製のおろし器を取り出した。生わさびを極上に仕上げるには手順がある。まず茎を落として頭側から擦る。わさびは先端ではなく茎を落とした頭の側から擦るのがおすすめなのだ。こちらの方が水分が豊富で爽やかな香りと強い甘みが含まれている。


 おろし器に対して直線的に往復させるのは絶対にNG。力を抜いて円を描くように優しく丸く擦ることで、細胞が細かく潰れて粘り気と甘みが引き出される。熱々の白米の上に上質な鰹節を敷き詰め、ほんの少しだけ醤油を回しがける。これがわさびの辛味を受け止める最強のクッションになるのだ。


 擦りたての緑のダイヤを丼の中央にぽんと乗せる。ここで注意なのは絶対に混ぜてはいけないことだ。わさびと鰹節の乗った白飯を少しずつ箸で取って口へ運ぶ。ここに味変用の薬味わさびを投入して楽しむのもありだ。


「さあ、できたわよ。生わさび付わさび丼!」


 理恵の前に並んだのは、つやつやの白米、踊る鰹節、そして中央にこんもりと盛られた鮮やかな翡翠色のわさび。ほかには五種類の味変用わさびが用意されている。


「それじゃあ、僕からいかせてもらおうかな。未知の香りがする」

「相変わらず物好きだな。しかしまあ、想像していたよりも美味そうなのは確かだ」


 シオンは優雅に箸を伸ばし、わさびと鰹節と白飯を少しだけ取り口へ運んだ。大吾、陽菜、結衣が固唾を呑んで見守る。次の瞬間、シオンの細い目がかっと見開かれた。


「なっ……なんだこれは? 鼻に抜ける香りは驚くほど爽やかなのに舌の上に広がるのは甘みだ。清らかな水そのものを食べているような圧倒的な清涼感。鰹節の旨味と醤油の塩気がわさびの爽快さを完璧に引き立てている」

「本当?」

「とにかく陽菜も食べてみなさい」


 理恵は新しく擦り下ろしたわさびを丼に乗せる。陽菜、結衣、そして大吾が恐る恐るわさび丼を口へ運んだ。三人の感想がシンクロする。 これだ、これしかない! 辛い。確かにつーんとくる。しかしその辛さは一瞬で引いて後味には大地の瑞々しい甘みと鰹節のコクだけが残る。箸が止まらない。シンプルだからこそ米の美味さとわさびの香りがダイレクトに脳を殴ってくる。具材はわさびと鰹節だけなのに、この満足感は一体なんなのだろう? おかずはいらない。この緑の塊だけで白飯が無限に進んでいく。


「理恵、おかわりだ」

「私もおかわり!」

「おかわりを要求します」

「僕も、もう一杯もらおうかな」


 気付けば四人とも一杯目を一瞬で平らげて猛烈な勢いでおかわりを求めていた。


「あはは、だから言ったでしょう? でもね、このわさび丼の唯一の欠点は擦り立てじゃないと甘みがすぐ消えちゃうことなんだよ」


 理恵は残念そうに微笑む。


「だったら話は簡単だ」


 大吾は籠から新しい生わさびを掴んで木製のおろし器を構える。10分後。テトラ・アコードのカウンターには、世にも奇妙な、しかし完璧に調和した光景が広がっていた。大吾が無骨な手つきで――シオンが長い指先で優雅に――陽菜が涙を少し目に浮かべながら楽しそうに――結衣が蒼い眼鏡の奥の瞳を極限まで集中させて正確な円運動を行う。四人が一列に並び誰一人として喋らず、ただ無言で「丸く丸く」と生わさびをおろし器に擦りつけている。


 ――シュッシュッ、シュッシュッ! 


 静まり返った店内に、わさびが細かく擦れる心地よい音と、鼻を突き抜ける極上の爽やかな香りが、どこまでも響き渡っていた。


「なるほどな、金属のおろし器ではこうはならない。わさびの細胞が引きちぎられて鋭い辛味が残るだけだ。優しく円を描くように擦ることも粘りと甘みが最大化する」

「すべてが理に叶っているね」

「最も甘みを引き出す摩擦速度は毎分120回転。この速度を維持することで、辛味が揮発し、極上の薬味へと進化します」

「醤油を鰹節に吸わせてからわさびを乗せることも大事だよね。御飯の熱が直接わさびに伝わるのを防いでくれる。このおかげで爽やかな香りが最後の一口まで持続するんだよね」


 にんまりと理恵は微笑む。


「とりあえずさ、味変のわさびも試してもらえる? こっちも評価の対象だからね」


 それからテトラ・アコードの夜にわさび祭りが巻き起こる。最後に食した理恵もご満悦だ。味変のわさびはそれぞれ好みが分かれたが、それが逆に議論を盛り上がる原因ともなった。


「わさびドーン! 味変はわさび味噌が一番!」

「陽菜、勢いだけで押し切るのはやめなさい」

「僕はわさび海苔が好みだね」

「わさびと鰹節と白飯だけでこんなに楽しめるとはな。正直、驚いた」

「わさび丼、記録しておきます」

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