45 深夜の黄金比と極限のじゃがバター
夜も更けたテトラ・アコード。
カウンターの隅で大吾が珍しく包丁を置き、ごつごつとした一つの芋を見つめていた。
「大吾、そんなに険しい顔をしてどうしたんだい?」
酒のグラスを揺らしながらシオンが尋ねる。
「料理ってのは足し算をすればするほど誤魔化しが利く。つまり素材と火加減だけで真っ向勝負する料理ってのが一番怖ろしい。今回はじゃがバターだ。シンプルだからこそ俺のやりかたで火力が芋の芯まで正しく届いているか試したくなった」
「なるほど、原点回帰というわけだね。それなら僕が最高の素材を提供しよう」
シオンが差し出したのは異世界の寒冷地で育つ希少な芋『白雪男爵』だった。
「日本の男爵に酷似しているが、でんぷんの密度が桁違いに高い。加熱すると細胞が爆発するように粉を吹き、究極のほくほく感を生む性質を持っている」
さらにシオンは小さな木箱を開けた。中にはほんのり青みがかった美しい白のバターが収まっている。
「それと世界樹の麓で育つ聖牛のミルクから作った発酵発塩バターだ。微かな酸味と塩気が芋の甘みを限界まで引き上げてくれる」
「お父さん、シオンさん、そのじゃがバター、私の計算なしではねっとりとした失敗に終わりますよ」
蒼い眼鏡を光らせた結衣が厨房に滑り込んでくる。
「芋を極限までほくほくにするには、でんぷんの科学的変化――糊化を完全に制御する必要があります。陽菜、書き出してくれる?」
「はーい!」
陽菜は手持ちのホワイトボードに素早く数値を書き込んでいく。
段階的温度管理。いきなり強火で加熱するのは愚策。まずは60度から70度の温度帯を20分間維持する。これにより芋の内部の酵素アミラーゼが働き、でんぷんがゆっくりと甘みに変わると同時に、細胞壁が適度に引き締まり煮崩れを防ぐ。
水分の突沸。芯まで熱が通ったのを確認した後、一気にコンロの火力を強火に引き上げる。内部の水分を急激に気化させることで、細胞同士に隙間を作り、触れただけで崩れる粉吹き状態を作り出せる。
「じゃがバターについて随分詳しいね。なにか事情でもあるのかい?」
「焼き芋と一緒だよ! 単純なものほど当たり外れがはっきりするからね」
「なるほど、僕も微妙な焼き芋に当たったときは残念な気持ちになったものだよ」
「焼き芋か……理恵も珍しくうるさかったな。じゃがバターもなにか拘りがあるんだろうか?」
「うーん、どうだろう。でもお母さん、スイーツ以外にも拘りあったんだね」
「馬鹿ね陽菜、焼き芋はスイーツよ」
「そうだったの!」
大吾はバルドが叩き上げた炎鉄製の深い厚手鍋を取り出した。芋は水から茹でるのではない。少量の水を敷いて炎鉄の圧倒的な蓄熱性を利用して高圧の蒸し焼きにする。厚い鉄が全方向から均一に熱を伝えるため、芋の全細胞が同時かつ均等に膨らんでいく。
――シュゥゥゥゥゥッ!
タイマーがゼロを示した瞬間、大吾は鍋の蓋を外した。立ち上る純白の湯気。そこにあったのは皮がパツンと弾け表面がまるで新雪のように細かく粉を吹いた白雪男爵だった。
大吾は包丁で、その中央に深く、十字の切れ込みを入れた。サクッという小気味良い音が響く。そこへシオンの発酵バターを贅沢に一塊落とした。熱々の芋の裂け目に滑り込んだ白いバターが、じわじわと黄金色の液体に姿を変え、粉を吹いた芋の繊維の奥深くへと吸い込まれていく。
「これでどうだ?」
大吾が差し出した皿を、シオンと結衣、そして陽菜が覗き込む。エルザとシラスも匂いに釣られて、いつの間にかカウンターに席を詰めていた。エルザがスプーンでバターが染みた部分をごっそりと掬い取り口に放り込んだ。
――――っ!
「なんという素朴にして至高の暴力」
エルザの口から感嘆の吐息が漏れる。
「口に入れた瞬間、芋が雪のようにハラハラと解けて消えていく。それなのに舌の上には圧倒的な大地の甘みが残る。そしてこのバター……塩気が芋の甘みをブーストし、発酵特有の爽やかな酸味が芋の濃厚さをどこまでも上品に仕立て上げている」
「おお……まさにこれです!」
シラスも眼鏡を狂ったように上下させる。
「外側をコーティングするバターの脂膜が、芋の熱を閉じ込めているため、噛む度に口の中で熱狂的な旨味が爆発します。ただの芋と油脂がここまで高め合えるとは――」
「完璧ですね」
結衣は満足げに眼鏡を直した。
「水分含有率、でんぷんの糖化度、脂肪分の浸透速度。すべてが私の計算通り。このじゃがバター、店の定番メニューに登録すべきかもしれない」
「定番にするには手間の割に儲けが少な過ぎるんだよ。うちは慈善事業じゃないからな」
大吾は不器用に呟きながらも、自作のじゃがバターを口にし、その完璧なほくほくに小さく口元を緩めた。じゃがバターという極限のシンプルさえも、素材の愛と職人の熱、そして科学の調和によって誰の心も温める至高の一皿へと変えてしまうのであった。




