44 漆黒の宇宙と放課後の静岡おでん
ある日の夕方。
テトラ・アコードの厨房では、陽菜と結衣の二人が、いつもとは少し違う真っ黒なスープが並々と注がれた四角いおでん鍋を囲んでいた。
大吾が仕込みのために市場へ出払っている、二人だけの秘密の試食会だ。今回は陽菜がどうしても結衣と一緒に食べたかったという、日本のB級グルメの傑作――静岡おでんである。
通常のおでんと静岡おでんには異なる点がある。濃口醤油と牛すじの出汁をベースに何日も継ぎ足して煮込んだ真っ黒なスープ。見た目の濃さに反して牛の旨味とまろやかな甘みが特徴だ。
黒はんぺん、大根、牛すじ、卵など、すべての具材を一本ずつ竹串に刺してスープに沈める。これが駄菓子屋スタイルの伝統だ。食べる直前にイワシやサバの削り節――だし粉と青のりをこれでもかと山盛りにふりかける。これが醤油スープと合わさり爆発的な旨味を生む。
「じゃじゃーん! 結衣お姉ちゃん見て見て! これが私の先輩の故郷の味『静岡おでん』だよ! うちでも食べたいって相談したらスープ分けてくれたんだ」
陽菜は嬉しそうに湯気が立ち上る鍋から一本の串を引き上げた。その先についているのは見慣れない灰色をした三角形の練り物である。
「スープの透過率は著しく低いわね。でも醤油の尖った塩気ではなくて、動物性の濃厚なアミノ酸の香りがする。陽菜、その灰色の物体はなんなの?」
「これはね、黒はんぺんって言うんだよ。普通のはんぺんと違って、魚の骨も皮も全部まるごとすり潰して作ってるの。だから魚の栄養がいっぱい詰まってるんだ」
陽菜は手際よく小皿に取った黒はんぺんの上から特製のだし粉と青のりをたっぷりと振りかけて結衣の前に差し出した。
「はい、お姉ちゃん! 熱いからふーふーしてから食べてね」
「はいはい、いただきます」
結衣は不器用そうに串を持ち、ふー、ふー、と小さな唇で息を吹きかけてから黒はんぺんを齧った。イワシの骨由来の微かなカルシウムの心地よい苦味と凝縮された海の旨味。それを覆う牛すじスープの甘み。さらに後乗せされただし粉の乾いた香ばしさが、口の中でスープの水分を吸って第二の旨味ウェーブを形成する。
「美味しいわ、陽菜。この出汁を吸って少ししなしなになった青のりとだし粉が、練り物の表面にピタッと張り付いて噛む度に香りが鼻から抜けていく」
「でしょでしょ! 汁を飲むおでんじゃなくて具材に絡みついた出汁を食べるおでんなんだよね!」
陽菜は大好物である大根の串を頬張り、はふはふと声を漏らした。真っ黒なスープを芯まで吸い尽くした大根は、箸で簡単に崩れるほど柔らかい。
「んーっ、大根最高! だし粉のザラザラした食感がさ、じゅわっとした大根の柔らかさと合わさって何個でも食べられる」
いつもの冷静な無表情のまま結衣はどこか嬉しそうに2本目の串――じっくり煮込まれてとろとろになった牛すじ――を手に取った。
「陽菜。この料理は駄菓子屋……つまり子供たちが集まる場所で発展したのよね?」
「そうそう! お小遣いを握り締めて、おばちゃんのお店で『これとこれ頂戴!』って言って食べるんだよ。最後に串の数を数えてお金を払うの」
「素敵な文化ね。この串刺しスタイルは歩きながらでも食べられる効率的なフォーマット。それになにより――」
結衣は空いた串と陽菜の空いた串が小皿の上で重なっているのを見つめた。
「こうして食べた本数が目に見えて積み重なっていくのはなんだか楽しいわね」
「あはは! お姉ちゃん、もう3本目だもんね! どっちがたくさん食べられるか勝負だよ!」
大吾が帰ってくるまでの短い時間、厨房にはだし粉の香ばしい匂いと、姉妹二人の賑やかな笑い声が、いつまでも優しく満ちていた。
「お姉ちゃん、もう4本目!」
「大根と牛すじの組み合わせが美味しくて胃の許容量が減らないのよね」
真っ黒な静岡おでんの鍋を囲んで小さな火花を散らしていると――
――カラン、カラン。
「ただいま戻ったぞ! ふう、今日の護衛任務は一段と――ん? なんだこの香ばしくも力強い、どこか海の野生を感じる匂いは!」
白銀の甲冑を鳴らしながら入ってきたのは、冷え切った身体を震わせるエルザと、その後ろで眼鏡を曇らせているシラス、そしてなぜか涼しげな顔のシオンだった。
「お帰りなさい! ちょうどいいところに!」
陽菜は笑顔で大きな鍋の蓋を完全に開け放つ。立ち上る漆黒の湯気と、だし粉の圧倒的な香りが、飢えた大人たちの鼻腔を直撃した。
「おやおや、これは珍しいね。スープがまるで夜の帳のように真っ黒だ。それにすべての具材が串に刺さっているのかい?」
シオンは細い目を輝かせ鍋の中を覗き込む。
「これは静岡おでんっていうの! 汁を飲むんじゃなくて、このだし粉と青のりをたっぷりかけて食べるんだよ。みんなも食べて食べて!」
陽菜に勧められるまま、エルザはまず、黒く染まった厚切りの大根を手に取った。だし粉をこれでもかと振りかけ豪快に口へ運ぶ。
――――っ!
「なんという熱量だ」
エルザの背筋がピンと伸びる。
「見た目の黒さに反して味は決して塩辛くない。むしろ牛すじの濃厚な脂の甘みと、この魚の粉末の乾いた旨味が合わさり、口の中で凄まじい衝撃となって暴れる。身体の芯から熱い魔力が湧き上がってくるようだ!」
「どれどれ……おおっ! この灰色の三角形、噛む度に魚の骨の心地よい歯ごたえと、がつんとした海の滋味が押し寄せてきます! 味が染み込んでしなしなになった青のりが、また良い仕事をしていますね!」
シラスも眼鏡を震わせながら、2本、3本と一気に串の数を増やしていく。
「なるほど、これは面白い。でもちょっと癖が強過ぎるかな? 僕ならこの真っ黒な宇宙に少しだけ調和をもたらしたいね」
シオンは優雅に袖を捲くり、懐から琥珀色の小瓶を取り出した。
「待ってください」
すかさず結衣が蒼い眼鏡のブリッジを押し上げて遮る。
「この静岡おでんのスープは何日も牛すじと醤油の比率を極限まで高めて煮込んだ完成された黄金比で整えられています。安易にハチミツを投入すれば、スープの粘度が上昇し、大根の吸水率が23%低下――それは計算外の破壊になりますよ」
「ふふふ、大丈夫だよ。スープに直接入れるんじゃないさ」
シオンは微笑みながら小皿に取ったからしに一滴だけハチミツを混ぜ合わせた。
「この特製ハチミツからしを牛すじにつけてごらん。いい味変になるはずだよ」
言われた通りにエルザがそれを口に含むと一瞬で顔が華やいだ。
「ツンとくる辛味の後にハチミツのまろやかな甘みが油分を包み込む。これによって真っ黒なスープのコクがさらに立体的に引き立つわけだな」
「からしの辛味成分アリルイソチオシアネートの角を糖度で中和しつつ旨味をブーストしたんですね」
結衣は悔しそうにしながらも、手元の端末に素早く数値を打ち込んだ。
「エルザさん、もう10本も食べてる!」
「騎士団の訓練に比べれば静岡おでんを10本平らげるなど造作もないことだ。次の黒はんぺんを所望する」
「エルザ殿、その黒はんぺんは私が狙っていたものですよ。何本食べるつもりですか?」
普段は静かなテトラ・アコードの厨房が、今夜はまるで日本の賑やかな居酒屋か駄菓子屋のような温かい熱気に包まれていた。みんなの小皿の上には食べた証拠である竹串が何十本も綺麗に積み重なっていく。そこへ仕入れを終えた大吾が大きな食材の袋を担いで戻ってきた。
――カラン、カラン。
「おい、なんだこの騒ぎは? 俺の留守中に勝手に店を開け――」
呆気にとられる大吾の口に陽菜が「はい、あーん!」と熱々の牛すじ串を放り込む。
「んぐっ……牛の出汁がよく出てやがる。なんだこれは?」
「静岡おでんの牛すじだよ」
「静岡おでんは詳しくないが純粋に美味いな。仕込みからやったのか?」
「ううん、スープは譲ってもらったものだからね。一から作ってたらこうはいかないよ」
「なるほどな」
「シオンさんの特製ハチミツからしも牛すじや黒はんぺんみたいな動物性の強い具材の旨味を限界まで引き上げるっぽいよ」
「だし粉でいいだろ、なんだよ特製ハチミツからしって」
「大吾殿、らしくないな。食さずに評価をするなんて料理人失格なんじゃないのか?」
「わかってるよ、食わねえとは言ってない」
エルザと大吾の会話を聞いて陽菜は笑う。
「お父さん、エルザさんには甘いよね」
「まあ、異世界からの初来客だからな」
「本当にそれだけ?」
「いやまあ、最近は娘みたいに感じている節はあるかもな」
「ははは、大吾殿、それは助かるな。気兼ねなく店を訪れることができる。物々交換でしか支払いができないことに抵抗は感じていたんだ」
「えーっ、そんなの気にすることないよ。むしろエルザさんが持ち込んでくれるもの重宝してるんだよ。基本的にこっちの世界にはないものだからさ」
陽菜の言葉を結衣が補足する。
「実際、異世界からの贈り物だけで店は大繁盛してますからね。お父さんが好き勝手な料理を提供できるのも異世界からの来訪者のおかげですよ」
「あはは、確かにたこ焼きとか絶対にやらなかったもんね」
「たこ焼き――あれは意外だったな。塩、醤油、特製ソース、各種トッピングも試してみたが無限に美味かった。今度、大量に注文するかもしれないから覚悟しておいてくれ」
大吾は腕を組む。
「カトリーナに頼んだらどうだ? ドワーフの鍛冶職人にたこ焼き用の鉄板を発注するようなこと言ってたからな。そのうちカリッじゅわ系のたこ焼きも作れるんじゃないか?」
「あー、確かに熱々で食べたいならカトリーナさんに頼むのがいいかもね。温度を維持できるハンカチみたいなの持ってるみたいだしさ」
「うーむ、アステリアとアルカディアは敵対こそしていないが友好国というわけでもないのだ」
ぽんぽんと陽菜がエルザの肩を叩く。
「大丈夫だよ、カトリーナさん大量発注なんてされたらむしろ嬉しいんじゃないかな?」
「料理人はそういうものなのか?」
「どうなの、お父さん?」
「エルザが初来店したときはそんな感じだったなあ。今はやさぐれてるけどな。異世界の連中、メニュー見て注文しないだろ?」
「あはは、それに関しては否定できないかな」
「申し訳ない。異世界の料理とは根本的に違うからな。どうしても雰囲気で伝えてしまうんだ」
エルザが軽く頭を下げる。シラスも申し訳なさそうに追加で説明した。
「異世界では料理人が出したものを食べるのが基本なんです。よくても肉料理か魚料理か選択するくらいなんですよ。もちろんメニューがある店がないわけではないんですけどね」
「お父さん、もう『できるものならなんでも作るよ』ってスタンスにしたほうがよくない?」
「すでにそうなってるだろうが!」
店内が爆笑の渦に巻き込まれる。




