38 蒼き焦点と数式のほつれ
四和結衣にとって世界は数式と事象の集積である。特に最近は店の魔力濃度の管理、食材の熱伝導率の計算、異世界から得た魔導具の取扱い。やっていることは以前とかなり異なるが、持ち前の適応力を活かして乗り越えている。
魔道具を扱うようになってからは、陽菜と似たような喋り方を改め、意識的に「ですます調」に切り替えた。異世界の道具は現代科学でも解明できない要素が多く、その取扱いを担当するのだから常に冷静は最低条件だ。
結衣の蒼縁眼鏡は各種データを瞬時に処理し、最適解を導き出すためのインターフェースになっている。しかしここ数日、計算に僅か0.01%のノイズが混じり始めていた。
「左目の視度調整がマイナス0.25近視側にずれている。事象の認識速度が0.005秒遅れる。これだと精度を求められる魔導具を使いこなせない」
結衣は眼鏡を外して眉間を指で押さえた。今や視力の低下は単なる不便ではない。魔導具を扱う者としての弱体を意味していた。つまりやるべきことは決まっている。
「眼鏡の新調が必要ね」
週末。
結衣は一人でアイウェアショップへと繰り出した。向かったのは街の片隅にある静かな老舗店である。大吾が真剣に包丁を研ぐように店主が静かにレンズを磨く職人の店だ。結衣は数あるフレームの中から迷いなく一本の蒼いチタンフレームを手に取った。
「チタン合金、重量12.5グラム。弾性率はうちの包丁のしなりに近いかな」
あれこれ呟いていると見知らぬ少年が結衣の背後に立っていた。
「お姉さん、すごいね。入店直後にそのフレームを選ぶなんてさ。まあ、この店の常連っぽいから当然と言えば当然なのかな。ここの店主を知らないようじゃ眼鏡は語れないからね」
「えーっと、あの、すいません、新しい店員さんですか?」
「僕はただの眼鏡愛好家で店員じゃないよ」
結衣は眉を顰める。これはナンパなのか?
「眼鏡という存在は単なる視力矯正の道具を遥かに超えた、人類が生み出した機能美の結晶であり、魂の窓である瞳を飾る聖なる額縁とさえ称される」
「え?」
「眼鏡をかけるという行為は世界をより鮮明に、より正確に捉えようとする意志の表れだ。レンズ越しに投げかけられる眼差しには、霧が晴れたような鋭い知性と冷静沈着な理性が宿る。フレーム一つでその人の内面にある思慮深さを外の世界へと翻訳してくれるのさ。視力が弱いという本来は不便なはずの状態を、これほどまでにファッショナブルで文化的な記号へと昇華させた例がほかにあるだろうか? いや、ない。素顔の無防備さと眼鏡という鎧を纏った時のオンオフの切り替え、その境界線にこそ抗いがたい魅力が宿るんだよね。テンプルの曲線、ブリッジの角度、そして光を透過させるアセテートやチタンの輝き。数ミリの狂いも許されない精密な設計はもはや工芸品だ。顔というキャンバスに置かれる唯一の立体的な構造物として眼鏡は表情に奥行きとドラマを与えてくれるんだよな」
話を制止しようとしても少年の言葉は止まらない。
「僕にとって眼鏡っ娘は魅力を多層的に操る美の策士。レンズの反射がふとした瞬間に光を捉え、瞳にさらなる輝きと神秘性を与えてしまう。眼鏡を指先でくいっと直すその所作一つに、洗練された品格と、どこか凛とした強さを感じずにはいられない。つまり眼鏡をかけた女性には、近寄りがたいほどのクールな知性と、ふとした時に見せる柔和な笑顔という、最高に魅力的な二面性が備わっているんですよ。フレームの奥に隠された素顔を想像させるそのミステリアスな佇まいは見る者の心を惹きつけて離しません」
「いや、あのね?」
「流行に流されるのではなく顔立ちや個性に合った一本を選び抜くそのセンス――しかしそれは一朝一夕で身につく技術じゃない。可愛くいくのか綺麗で攻めるのか、もちろん別の選択肢も無数にある。アイウェア一つでアイデンティティーが問われる。だからこそ眼鏡の似合う女性は自らの知性を武器にし、なおかつそれを美しさに変換できる真に聡明で魅力的な存在なんですよ」
「だから誰?」
「しがない眼鏡愛好家だよ」
少年は一度顔を伏せて持ち上げる。
「これまでの会話の中で僕は十回ほど眼鏡をかけかけた。その中で一番似合っているのは今かけている蒼縁のチタンフレームかもしれない。しかし遊び心で淡い赤縁眼鏡もかけてほしいんだ。説明するまでもないだろう?」
「説明されてもわからない!」
騒ぐ結衣に少年は語を継いだ。
「わかってもらえなくていいんだけどさ、その眼鏡の機能っていうのかな、もし使い続けるつもりなら気をつけてほしい。いろいろと危険を孕んでいるからね」
「――――っ!」
結衣の顔から血の気が引いた。
「なにか……知ってるの?」
「詳しくはわからないんだけどさ、僕の知り合いに世話焼きな奴がいるんだよ。そいつは変わった能力がある奴に鼻が利くんだ」
「それであなたも見つけられたの?」
「まあ、そんなところ」
「あのさ、ちょっと話せないかな?」
「構わないけど情報収集にはならないよ? さっき言った通り鼻が利くのは僕じゃないからね」
「それでもいいよ。あと癖で二つ用意しちゃった弁当を一つ食べてもらえると助かるかな」
結衣はトートバックを軽く掲げた。中には陽菜の分を含めた二つの弁当が入っている。
「焼売弁当?」
眼鏡の新調を終えて、近くの公園に来ていた。長椅子に座り弁当の中身を確認した少年の一言目がこれである。確かにメインに据えてあるのは焼売だった。
「苦手?」
「いや、むしろ好きかな。ただお姉さんみたいな人が焼売弁当って意外だったからさ」
「ああ、具材は店の都合で決まるんだよ。お父さん、ちょっとでも納得できないと絶対に提供しないからね。フードロス一番出しているの誰だよって話だけど味は確かだから成り立っちゃうの。まあ、食材も家族で消化しているからロスにはなっていないのかな」
少年は焼売を箸で摘まみ口へ運んだ。
「美味しい。口の中に溢れる肉の旨味と、生姜の風味が口いっぱいに広がる。皮はもちもちしていて中はジューシーだ。照り焼きチキンは甘辛いタレがよく染み込んでいて御飯が進む。玉子焼きは少し甘めでふんわりとした食感。きゅうりの漬物はさっぱりしていて箸休めにぴったりだね」
「料理、作るの?」
「人並みにはね」
隣で弁当を頬張る少年に悪意はないように感じた。むしろ昔から知っているような安心感さえある。結衣は核心に触れた。
「異世界があるなんて言ったら笑う?」
「笑うどころか笑えないよ。やっぱりそういうところから手に入れた能力を眼鏡に仕込んでいるんだね。僕が先に会っておいてよかったよ」
「鼻が利くって人は怖いの?」
「いや、長身痩躯で美形の紳士だよ」
「そっちがよかったな」
「やかましいわ!」
突っ込み慣れてるなあと結衣は頬を緩めた。
「しかしこの弁当、女性が食べるには量が多くない?」
「量が少ないと妹に怒られるからね。それに食材のバランスは取れてるはずだから意外と食べやすいんじゃないかな?」
「確かにそうかも――ご馳走様でした」
少年は手を合わせて頭を下げる。
「一つ聞いてもいい?」
「もし誰かに狙われるかという心配なら無用かな。あいつ、強いだけじゃなく優しいからさ」
「異世界の不思議な道具を使い続けても危険はないってこと?」
「方針が変わらなければね」
「なんか不安なんだけど?」
「大丈夫大丈夫。なにかあったら僕も駆けつけるからさ」
「それ全然不安の解消になってないんだけど――ご馳走様でした」
結衣も手を合わせて頭を下げる。
「それじゃあ、僕は行くよ。ありがとう、美味しかった」
少年は弁当箱を包み直して手渡してくる。
「いつか店にも足を運んでね」
「ああ、そうするよ」
結衣は空を見上げて瞳を閉じた。
「あーあ、異世界の話とか疑いもしないで信じるんだもんな。こっちのほうが気になるじゃん」
「合格だ、お姉さん」
不意に透き通った声が耳に届く。目を開くと長身痩躯の美男子が立っていた。
「誰?」
「知らなくていい。俺はあいつほど優しくないからな。ただ約束は守るさ」
美貌の少年は折り畳んだマフラーを差し出してくる。時期としては意味がわからない。
「異界の連中に襲われたとき役に立つ」
「ありがとうってことでいいのかな?」
「今のところね」




