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36 オムライスと職人の静かなる火花

 シオンがテトラ・アコードの厨房に立ってから三日が過ぎた。彼は大吾の無骨な調理場を、まるでお気に入りの書斎のように使いこなし、常に柔和な笑みを絶やさない。


「シオンさん、このソースの隠し味はなんですか?」


 カウンターで身を乗り出す陽菜の問いにシオンは泡立て器を止めることなく優雅かつ的確に回答する。


「陽菜ちゃん、それは異世界の太陽の雫を三日間かけて月光に当てて煮詰めたものだよ。リコピンの波動が安定して角が取れるんだ」


 その丁寧な解説と筋肉質な体格からは想像もつかないしなやかな所作に常連客たちの評判はうなぎのぼりだった。この店になかったピースが現れたのだから当然だろう。


 この日、シオンが披露したのはテトラの定番メニューである『オムライス』だった。誰もが食したことのある料理だからこそ職人の腕が試される。


 大吾が炎鉄で肉を焼き切るのに対し、シオンは火力を撫でるように扱う。まず卵液に冷たいバターの角切りと生クリームを混ぜる。焼く瞬間にバターが溶け出し、内部に細かい気泡を閉じ込めるのがシオン流である。


 チキンライスも独特だ。ケチャップを炒める際、少量のハチミツを加える。これで酸味が消えてご飯一粒一粒に琥珀色の照りとコクが生まれる。強火ではなく中火でフライパンを揺らし続けて卵に直接火を当てない。熱の対流だけで固めるのが特別な滑らかさを生む。仕上げにパセリではなく炙ったハーブの粉末を散らす。これが甘い卵に一瞬の野性味を加えて味を引き締める。


「卵は火を入れるのではなく熱を聴かせるんだよ。とろりとした食感が好きなら試してくれ」


 彼がフライパンを軽く叩くとラグビーボール状の卵がチキンライスの上に静かに着地した。厨房の隅で大吾は腕を組んで不機嫌そうに鼻を鳴らしている。


(あんなに卵をいじくり回して腰が抜けるんじゃねえのか?)


 しかし大吾の鋭い眼光はシオンが卵液に混ぜた冷えたバターと生クリームの絶妙な比率を決して見逃してはいなかった。


(ほう……あえて温度の違う油脂を混ぜて気泡を固定させてやがるのか? 癪だが筋は通ってやがる)


「さあ、召し上がれ。名は『月光のオムライス デミグラスの賛美歌を添えて』だ」


 客の前に置かれたのは完璧な楕円を描く黄色い塊。シオンがナイフの先で中央に一筋の傷を付けると、ドレープを描くように半熟の卵が溢れ出しチキンライスを包み込んだ。


「なにこれ、飲み物みたいに滑らか!」


 陽菜が叫びエルザもその一口に瞳を潤ませる。


「大吾殿の料理が魂を叩き起こす衝撃なら、シオン殿の料理は魂を毛布で包み込む抱擁。どちらも捨てがたいが今日のこの優しさは反則だ」


 シオンは柔和な笑みのまま「光栄です、エルザさん。貴女の騎士道に少しでも彩りを添えられたなら幸いです」と騎士の礼を返す。その姿は大吾が逆立ちしてもできないスマートさに満ちていた。


 閉店後。

 シオンが片付けを終えて帰路に着くと大吾は一人で厨房に残った。シオンが使い残したデミグラスソースを無言で味見する。


「ハチミツの入れ過ぎだってんだよ。甘めえんだよ、あいつのソースは」


 そう言いながらも大吾は冷蔵庫から卵を取り出し、シオンが使っていたのと同じ銅のフライパンを握った。卵料理といえば強火が基本だが、新しい手法を研究しないほど頑なではない。


(おっとっと、こんな感じか?)


「その火加減、シオンさんの真似をしているなら再現率は現在85%ですね。嫉妬によるエネルギーを調理の学習に変換するのは非常に合理的です」


 背後から結衣の冷徹な声が飛ぶ。


「うるせえ! 全然嫉妬してねえし、これはあくまで研究だ!」


 大吾の怒鳴り声が夜のテトラ・アコードに響く。だが手元で焼かれたプレーンオムレツは、これまでの大吾にはなかった、ほんの少しの柔かさを宿していた。

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