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34 翡翠の溜息と命を刻まない精進の調べ

 店の扉が静かに開いた。現れたのは長い金髪を風に靡かせ、森の静寂を纏ったエルフのセシルである。しかし今日の彼女の瞳には、かつての輝きはなく、枯れ葉のような寂しさが宿っていた。


「不躾で申し訳ない。どうか私の故郷の嘆きを止めては頂けないか?」


 セシルが差し出したのは黒く変色し、魔力が枯渇した一房の世界樹の果実だった。異世界の森で異常気象が続き、精霊たちは食を拒み、衰弱しているのだという。


「精霊たちは生命を奪って作られた食事を一切受け付けない。そんな悠長な状況ではないことにも無関心だ。このままでは森が死んでしまう。どんな小さな生命も奪わず、かつ、精霊たちの生きる意欲を呼び起こす食べ物なんて私たちには――」


「殺さなきゃいいんだな。陽菜、奥から万年氷と結衣が保存してた月の雫を持ってこい。セシル、お前の森、俺が救ってやる」


 大吾はいつも使っている肉用の包丁を置いて一本の薄刃包丁を手に取った。


「今日の料理は命を繋ぐための対話だ」

「お父さん、珍しく積極的だね。いつも嫌々引き受ける感じなのにさ」

「エルフは大切にしろって理恵に言われているんだよ」

「お母さんが? なんでだろう?」

「店舗を含めて我が家の水道代は無料に等しくなったらしいからな。温厚な理恵が通帳確認しながらガッツポーズ取る姿なんて初めて見たぞ」

「あはは……家計の恩返しってことなんだね。まあ、お母さん水道光熱費いつも気にしてたから仕方ないよ。でも数字関連ならお姉ちゃんが一番最初に反応しそうだけど?」

「むしろ結衣は嫌そうな顔をしていたぞ。こんな帳簿を馬鹿正直に提出したら絶対に税務調査の対象になるってな。備考欄に『裏庭で水脈を発見した』とでも書いとけって助言したら微笑み返されたぞ」

「あはは……それ本気で機嫌損ねてるね」


 陽菜は顔を引き攣らせながら話を切り上げる。それから部屋で休憩中の結衣を呼びに行った。


「精霊たちの拒食反応は魔力の共鳴不全によるものですね。食材の細胞壁を破壊せず、かつ、香りの成分を最大化させる超微細切りが必要かもしれません。計算上、厚さは0.01ミリメートル以下です」


 大吾は異世界の翡翠豆腐――大豆に似た魔力植物の凝固体――をまな板に乗せた。


 ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、トッ!


 無駄な音は一切ない。大吾の包丁が動く度に豆腐は糸よりも細い龍の髭のような細工へと変わっていく。包丁を水平に細かく動かし、針のような細さに切り分ける。ポイントは切るのではなく解くイメージだ。


「殺さねえってのは素材の呼吸を止めねえってことだ。包丁を入れるんじゃなく、隙間に滑り込ませるんだよ。まあ、俺の一番苦手な分野だから偉そうなことは言えないんだけどな」


 陽菜はセシルが持ってきた世界樹の果実の、まだ生きている芯の部分だけを抽出し、理恵が用意した干し椎茸の出汁と合わせた。出汁は干し椎茸と昆布を一晩かけてゆっくりと水に浸けたものを使う。沸騰直前で火を止め、エグみを出さない。これが精霊たちに拒絶されない純粋な旨味の基盤となる。


「森の匂いがする。お父さん、精霊たちが少しだけ、こっちを向いた気がするよ」


 仕上げに柚子の皮を極薄く削り浮かべる。この一瞬の香りが衰弱した五感を再起動させる。吸い物の椀に一つまみの月晶石の塩を入れるのも忘れてはいけない。これが出汁の輪郭を鮮明にして異世界と現代の味を繋ぐ架け橋となるのだ。


 セシルの前に置かれたのは透き通った出汁の中に翡翠色の龍が泳いでいるかのような一椀『精進翡翠龍の吸い物・世界樹の香りを添えて』である。セシルは優雅な所作で汁を口に含んだ。


(ああ……森が歌っている)


 幼い頃、長老から教わった言葉がある。


「真の美食とは命を食らうことではなく、万物と一つの環になることなのですよ」


 しかし飢えに苦しむ森の現状を前に、セシルはその教えを疑い始めていた。ところが今、大吾の作ったこの一杯。肉も魚も一つの命も殺めていない。ただ植物たちが土の中で奏でていた喜びと、大吾の指先が伝えた慈しみだけが、喉を通って全身の魔力回路を駆け巡る。


「私は忘れていました。食べることはこんなにも優しく力強いものだったんですね」


 セシルの頬を伝う涙は翡翠色の輝きを取り戻し、テーブルに落ちた瞬間に小さな双葉を芽吹かせる。


「持って帰れ、セシル。この出汁の作り方と豆腐の切り方は結衣にまとめさせてある。森の精霊たちに俺からの挨拶だと言っておけ」

「はい、ありがとうございます! これで森は救われる!」


 セシルは陽菜が丁寧に詰めた特製精進出汁の瓶を宝物のように抱えて光の中に消えていく。大吾は使い終わった薄刃包丁を丁寧に研ぎ直しながら、陽菜が摘んできた新しいハーブの香りを嗅いだ。


「お父さん、すごいじゃん! 一つの命も奪わずに世界を救っちゃうなんて?」

「世界じゃなくて森だ。そもそも食材に感謝を忘れなければ殺すも殺さねえもないんだよ。俺は客が求めれば肉も魚も捌くからな。そのときは遠慮なく剛の包丁を振るってやるさ」


 テトラ・アコード。

 そこは世界の終わりを予感させる悲鳴さえも、たった一椀の精進料理で希望へと変えてしまう静寂なる魔法の聖域であった。

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