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異郷の風と琥珀色のポークソテー

 腹が、減った。


 仕事を終えて五日市線の小さな駅に降り立つ。都心から少し離れたこの街は空が広く、風がどこか懐かしい匂いを運んでくる。だが今の俺に必要なのはノスタルジーではない。確かな肉だ。


 肉、肉、肉、俺の胃袋が欲しているのは肉だ。地図アプリを頼りに住宅街の細い路地へ入り込む。途中、何度も道に迷った。やがて辿り着いたのは古びた蔦に覆われた一軒の洋食屋である。


「ここか?」

 

 テトラ・アコード。看板の文字は掠れて営業しているのかも定かではない。しかし俺の食に対する直感が――この店から離れるなと告げている。よし、入ろう。


 カラン、カランッ!


 ……ほう。

 店内は外観からは想像もつかないほど琥珀色の静寂に包まれていた。木の温かみを感じるカウンター、奥の厨房からは、リズミカルな包丁の音が響く。やったー、俺好みだ。


 先客は二人。

 一人は眼鏡をかけたインテリ風の男――カイルとか呼ばれている。おそらく常連客なのだろう。小さな小鉢を前に日本酒をちびちびと煽っている。酒のアテにシジミのジュレ? 粋な真似をしてくれる。


 もう一人は小柄だが横幅のある赤茶色の髭の男だった。ん、今バルドとか呼ばれたか? 参ったな、常連だけの店は苦手なんだ。ふと見入っていると彼は分厚いステーキを凄まじい勢いで食らっている。あの肉の厚さ――一体どれくらいあるんだ? 今すぐにでもメジャーで測りたいぞ。


「いらっしゃいませ! お一人様ですか?」

「はい。ただちょっと――」

「あーっ、わかります! この店、常連客しかいないのかよって思ったんじゃありませんか?」


 なんでわかる。


「安心してください。うちは常連客の溜まり場じゃありませんよ。料理の味は保証します!」

「は、はあ」


 聞けないことをさらっと答えてくれる娘さんだ。よし、覚悟を決めよう。テーブル席の一つに座り、メニューと向き合うことにした。定番が並ぶ中、ちょいちょいオリジナルが紛れ込んでいる。頼まれたらなんでも作るよってスタンスでメニューが増えたのだろうか?


 俺はメニューから顔を上げて店内を見回した。これこれ、黒板は見逃せないんだよな。ふむ、こっちはほとんどオリジナルなんだ? というか月晶石の塩ってなに? まあ、以前にもクミン塩を知らなかったことがあるからな。


「すいません」

「はーい、ご注文お決まりですか?」

「あ、いえ、オリジナルが多いのでおすすめの肉料理はありますか?」

「お父さーん、今日のおすすめ肉料理は?」


 店員さんが厨房へ向かって声をかける。

 へえ、家族でやっているのか? いいじゃないかいいじゃないか、これは期待度爆上がりだ。厨房から無骨だが芯の通った声が返ってくる。


「豚なら鮮度抜群の良いのがある」

「らしいですけど、注文どうします?」

「すいません、もうちょっと待ってください」


 豚なら定番メニューから定食を選べば――そうだった。この店はメインを決めて追加していく形式だったな。メインはポークソテーに固定して、まずは汁物を確認しておこう。


「すいません」

「はいはーい!」

「注文お願いします。ポークソテー、味噌汁、このシェフの気まぐれサラダってなんですか?」

「あー、それ本当に気まぐれなので今日はなになにサラダですって説明できないんですよね」

「なるほど、それもお願いします。あと、ご飯」


 復唱を済ませて店員さんは去っていく。料理が出てくるまでは自然と厨房に視線が向いてしまう。店主の手元にある包丁はまるで鏡のように磨き上げられ、ただの調理器具とは思えない凄みを感じさせる。


 店主が冷蔵庫から分厚い豚肉を取り出した。

 ほう、あれは郡山のブランド豚か? いや、脂の輝きが違う。よくわからないが本日のおすすめに豚を指名するだけのことはあるな。


 ――ゴォォォォォッ!


 火を入れた鉄板が、一瞬で赤熱し、周囲の空気が歪んだ。おいおい、あの鉄板はなんだ? 街の洋食屋さんが出していい火力じゃないだろ? いや、なにを言っているんだ俺は――腹が減り過ぎて焦っているのか?


 店主の動きは調理というより剣劇のようだった。肉の表面を一瞬で焼き固め旨味を封じ込める。その傍らで娘の陽菜さんが出てきた脂をペーパーで拭き取り、姉らしい結衣さんが端末でなにやら黙々と計算している。家族経営ならではの阿吽の呼吸――なるほどこれが店名の由来か?


「お待たせしました、ポークソテーです!」


 目の前に琥珀色の光を纏ったポークソテーが運ばれてきた。ほう。表面はカリッと焼かれてハチミツとニンニクのタレが宝石のように輝いている。添えられたシェフの気まぐれサラダは冷製豚しゃぶサラダだった。


 ぐぬぬ、豚が被っちまった。まあいい。それだけ豚推しだと前向きに受け止めよう。


 カラン、カランッ!


 扉が開いて数名の来客が訪れる。四人組の大学生といったところだろうか? 確かに客層は千差万別のようだ。俺はポークソテーにナイフを入れる。柔らかい。抵抗なくスッと刃が通る。頂きます。一口、口に運ぶ。


 な――っ! 美味い。なんだこれ?


 口の中で豚肉の脂が甘く溶け出し、タレのコクと月晶石の塩の鋭さが、どんどん波のように押し寄せてくる。表面のカリカリ感と中のジューシーさのコントラストが完璧だ。


 くーっ、堪らん。ご飯が半端なく進む。このポークソテーは白飯を美味しく食べるための共犯者だ。俺は無心で白飯を掻き込む。カウンターのカイルが小鉢を指差して呟いた。


「大吾殿の料理は理を超えている。私の脳もこの一口で武装解除されましたよ」


 武装解除? 上手いことを言う。俺もこのポークソテーの前では、ただのはらぺこな男だ。


 完食。

 ご馳走様でした。


 胃袋も心も完璧に満たされた。琥珀色の静寂、異次元の火力、そして家族の和だ。


「美味しかったです」

「ありがとよ、また来い」


 店主が無骨にタオルで汗を拭う。

 俺は店を出た。いつの間にか夜の闇に包まれ星が輝き始めている。店を振り返りリピートを誓う。次は酒のつまみ系を攻めるか、あるいはメインをびしっと攻めるか、考え出したら切りがないな。


 ふっ、悪いくせだ。

 よし! 明日も頑張ろう。

 俺は足取りも軽く駅へと向かった。

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