30 策略家の武装解除と月下の三連小鉢
「やれやれ……エルザがあれほど清々しい顔で執務に戻るとはね。大吾殿、一体どんな禁呪をかけたのですか?」
深夜、閉店間際の店に現れたのは眼鏡を指で押し上げるカイルであった。いつもの冷徹な微笑を浮かべているが、その指先には微かな疲労の色がある。連日の徹夜作業と膨大な魔導計算による知の疲弊が彼を蝕んでいた。
「禁呪なんざ使っちゃいねえ。ただの飯だ。なんだカイル、お前も小鉢が食いたいのか?」
大吾が包丁を置くとカイルはカウンターに突っ伏しながら呟いた。
「いえ。今の私に必要なのは胃を満たす食事ではなく、この焼け付くような脳を宥めるための至高の一杯と、それに寄り添う毒のある肴ですかね」
大吾は無言で奥から一本の酒瓶を取り出した。山口県の銘酒『獺祭』である。フルーティーな味が海外でも絶賛されており、異世界にも通じるものがあると考えたのだ。カイルは顔を上げて怪訝そうな顔をする。
「なんですかそれは?」
「こっちの世界じゃ銘酒として知られる日本酒だ。異世界の酒ばかりじゃ飽きるだろ?」
「まあ、確かにそうですね」
「陽菜、カイルの渇きを嗅ぎ分けてくれ。結衣、アルコール分解の最適解を頼む」
「カイルさん、頭から焦げたインクと冷えた鉄の混ざった匂いがする。お父さん、これは苦味とコクが必要だよ」
「高濃度のアルコールに対して肝臓を保護するオルニチンとクルクミンを前菜に組み込みます。まずはシジミの出汁をベースにしたジュレなんてどうでしょうか?」
大吾は異世界の燻り岩魚の肝を取り出し、月晶石の塩と少量の味噌で練り上げる。
「酒の肴は酒の味を極限まで引き立てる共犯者だ。まあ、楽しみにしていろ」
やがてカイルの前に酒器と共に三つの小さな器が並べられた。
燻り肝の『なめろう・月晶石の塩仕立て』
魚の肝を丁寧に下処理し、塩、味噌、ネギ、生姜と共に叩く。最後に少量の山椒を振る。これが酒の香りを引き立てる軍事機密級のアクセントだ。
酒盗とクリームチーズの『磯辺巻き』
濃厚なクリームチーズにカツオの酒盗を乗せるだけで本来なら完成だ。しかし今回はこれを炙った海苔で巻く。磯の香りと乳製品のコクの出会いが酒を盗む所以である。
カツオの『土佐造り焦がしニンニク醤油』
カツオの表面を強火で炙り、氷水で締めて分厚く切る。タレは醤油、酢、そして大量の焦がしニンニク。仕上げに茗荷をたっぷり盛る。
カイルはぐいっと酒を煽り、次いで燻り肝を一口運んだ。
(――これはっ! 脳に直接響く)
彼は名門魔導士の家系に生まれ、一秒の無駄も許されぬ英才教育を受けてきた。感情を殺して最適解だけを導き出す機械のような日々。
「お前には友も酒も必要ない。ただ正解であれ」
亡き父の冷たい言葉が、彼を縛る呪縛であった。だが今、この肝の強烈な苦味と月晶石の塩が引き出す野性味溢れる旨味が理性の鎧を内側から粉々に砕いていく。
酒が喉を通り肴が胃を刺激する度に、彼は魔導士でも参謀でもなく、ただ寂しがり屋な一人の男であることを――初めて肯定できた気がした。
「ははは……大吾殿、貴方は残酷だ。こんな味を知ってしまったら、私はもう、冷たい王宮の書庫には戻れませんよ」
眼鏡の奥の瞳が少しだけ潤んでいるのを陽菜は見逃さなかった。カイルは最後の一滴まで酒を飲み干して深い溜め息を吐く。
「さて……毒も食らわば皿までだ。明日からの地獄のような予算編成、この肴の記憶だけで乗り切ってみせましょう」
「ふん、倒れる前にまた来い。肴ならまだ冷蔵庫に眠ってる」
大吾が差し出したのは酔い覚ましの冷たい水だった。カイルはそれを一気に飲み干すと、足取りこそ少し千鳥足ながらも、その背中には確かな明日への活力が宿っていた。
陽菜はカウンターを拭きながら小さく笑う。
「お父さん。カイルさん、最後はお日様の匂いがしてたよ。酒の肴って魔法みたいだね」
「馬鹿野郎。魔法じゃねえ、職人の手遊びだ」
料理店テトラ・アコード。
そこは異世界の重責を背負う男たちが、たった三つの小さな器で人間に戻れる唯一の場所であった。




