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29 琥珀色の静寂と騎士の休息

 魔法学院の狂乱から数日。

 テトラ・アコードには、いつもの穏やかな静寂が戻っていた。開店直後、重い甲冑の音を響かせて現れたのは銀髪の騎士エルザである。しかし今日の彼女はいつになく肩を落とし、剣を置く手にも精細を欠いていた。


「大吾殿。今日は肉も魚も受け付けぬ気がするのだ。胃が重く心に鉛が詰まったような……」


 魔物との連戦、そして騎士団内の派閥争い。白銀の騎士と謳われる彼女も、一人の人間として摩耗していた。陽菜がオーブをかざし、小さく鼻を鳴らし始める。


「お父さん、エルザさんから湿った古紙の匂いがするよ。頑張り過ぎて心が疲れちゃってる」


 大吾は無言で頷きメインのコンロには火を入れなかった。代わりに小さな土鍋と数枚の小皿を用意する。エルザは不思議そうな顔をした。


「飯は戦いじゃねえ。今日はお前の足を止めるための膳だ」

「エルザさん、ちょっと失礼します」


 結衣は魔導具を用いてエルザを分析する。


「交感神経が過緊張状態にあります。主菜はタンパク質ではなく、発酵食品と根菜による内臓の加温を優先しましょう。出汁は昆布を多めに温度は60度でお願いします」


 大吾は異世界の琥珀大根を、向こう側が透けるほどの桂剥きにする。それを繊細な千切りにし、少量の塩を振って10分置く。水分を親の仇のようにぎゅっと絞るのが、シャキシャキ感を出す絶対の条件である。梅干しは種を除いて包丁でペースト状になるまで叩く。ここに少量のハチミツと風味付けの薄口醤油を加える。


 仕上げは千切り大根に梅酢と月晶石の塩を和えて完成だ。紫蘇は和える直前に切り最後にさっと合わせる。香りを殺さないのが大吾流だ。好みによって白煎り胡麻を指で捻りながら振りかければ香りがさらに際立つ。


「派手な盛り付けはいらねえからな」


 陽菜は裏庭で採れたばかりのほうれん草を、沸騰させた湯(塩多め)に根元から入れて一気に茹で上げる。その後すぐに氷水に放つ。これで色が鮮やかな翡翠色に固定される。水分を絞った後、少量の醤油を振りかけて再度絞る。これにより和え衣が水っぽくならず味がぴたりと決まるのだ。あとは理恵が練り上げた胡麻クリームで和えていく。


 胡麻クリームは黒練り胡麻、砂糖、薄口醤油、隠し味に少量の生クリームを混ぜる。練り胡麻の重厚さにクリームの軽やかさが加わり、エルザの疲れた胃にも優しく届くだろう。


「この子はね、土の中でじっと耐えてたから、すごく優しい味がするんだよ」


 盛り付けの際、指先で少しだけ高さを出す。平面ではなく立体的に盛ることで、視覚からも心の余裕を取り戻させる戦術だ。


 大吾はフライパンで厚揚げの表面を油を引かずにカリッとするまで焼く。このバリバリとした表面の食感が、後の餡とのコントラストを生む。餡は昆布出汁をベースに月晶石の塩とみりんで味を調える。ここに通常の三倍量のおろし生姜を加えて片栗粉で強めのとろみをつける。


 焼きたての厚揚げを一口大に切り、その上から煮え立った餡を一気に注ぐ。餡が表面をコーティングすることで、中の熱が逃げず、最後までアツアツのまま楽しめる。ほんの少しだけ胡麻油を垂らすと、油の膜が香りを閉じ込め、運ばれてくる瞬間の期待値を上げるのだ。


 エルザの前に並んだのは、三つの小鉢と、炊きたての玄米粥だった。琥珀大根の梅紫蘇和え、ほうれん草の黒胡麻クリーム和え、厚揚げの生姜餡かけ、エルザは小鉢を見回し物足りなげな顔をしたが、大根を一口含んだ瞬間――その表情が固まった。


(――音がする。雪が解けるような音だ)


 シャキという微かな音が耳の奥で心地よく響く。梅の酸味が澱んでいた唾液を呼び戻し、生姜の餡が、冷え切った内臓をじわりと温めていく。


 まだ騎士見習いだった頃――厳しい修行の末、高熱を出して倒れた彼女の口に亡き母が運んでくれたのは、こうした名もなき惣菜たちだった気がする。


「エルザ、強くなることは強張ることではないのですよ。たまには力を抜きなさい」


 母の優しい声――当時の彼女には理解できなかったその言葉が、今、大吾の打った出汁の深みと共に十数年という時を超えて脳裏に蘇る。派手な手柄や輝かしい功績。それらを守るために必死だった彼女の心が、たった一つの小鉢によって柔らかく解きほぐされていった。


「大吾殿……私は……また大切なことを忘れるところであった」


 エルザの頬に一筋の涙が伝い小鉢の緑を濡らした。完食した顔からは先程までの暗い影が消え、春の陽だまりのような艶が戻っていた。


「明日からはもう少し楽に剣を振れそうだ」

「ふん、疲れたらまた来い。小鉢のネタはいくらでもある」


 大吾は空になった小皿を片付けながら、陽菜が摘んできた新しいハーブの匂いを嗅いだ。特別な日のご馳走もいいが、この店を支えているのは、こうした何気ない一皿に宿る慈しみである。結衣は端末を閉じ、満足げに微笑んだ。


「今日のエルザさんのバイタル――完璧なリカバリーです。やはり最強の料理は主役のいない小鉢の中にこそあるのですね」

「当たり前だ。端っこを疎かにする奴に真ん中は作れねえよ」

「それにしてもエルザさんって、意外とメンタル弱かったりするのかしら?」


 理恵が人差し指を顎に当てて小首を傾げる。


「だーっ! お母さん、それは違うよ。疲れ果てたときにアイアン・ブレッドとか手渡されたら心も歯も折れるのが普通だからね!」

「アイアン・ブレッドってなに?」

「異世界の戦闘糧食だってさ。私も食べたことあるけど拷問だよ」

「ふーん、今度手に入る機会があったら持ち帰ってきてね」

「私の話、ちゃんと聞いてた?」


 料理店テトラ・アコード。そこには世界の英雄たちの心を、たった一口の惣菜で救ってしまう魔法で満ちていた。

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