第十四話 あなたに愛されたかった
辺境伯邸に着いた頃には、既に日が傾き始めていた。
案内も待たず、アウグストは、中庭へと足を向けた。そこに、セレフィーナが立っていることを、なぜか確信していた。
(会える――)
その一事だけで、胸の内が浮き立っているのが、自分でも分かった。国王代理として、これほど単純な感情に支配されるのは、褒められたことではない。それでも、抑えることができなかった。
案の定、彼女は、いつか二人で言葉を交わした、あの場所にいた。
「陛下」
振り返ったセレフィーナの表情に、これまでのような硬さはなかった。ただ、静かな緊張だけが、その顔に浮かんでいる。
これから伝えるべきことを、何度も頭の中で組み立て直してきたのだろう。その様子が、微かな強張りとなって、指先に表れていた。
「手紙、受け取った」
「……はい」
沈黙が落ちる。互いに、何から話すべきか、量りかねているようだった。
アウグストの内側にあるのは、ただ会えたことへの高揚だった。だが、セレフィーナの内側にあるものは、それとは違う。伝えなければならないことを、伝え損なわないようにという、静かな覚悟だった。
そのわずかな温度差にすら、アウグストは、まだ気づいていなかった。
先に口を開いたのは、セレフィーナだった。
「あの日、陛下は、私に尋ねてくださいました。何を望んでいるのか、と」
「……ああ」
「ずっと、考えていました。……答えが、なかなか見つからなくて」
セレフィーナは、そこで一度、言葉を切った。手が、微かに震えているのが見えた。
「けれど、一つだけ、分かったことがあります。私が、本当に望んでいたもの――それは、昔から、変わっていなかったのだと思います」
セレフィーナは、真っ直ぐに、アウグストを見つめた。
「王妃になることでは、ありませんでした」
その一言に、アウグストの息が、僅かに止まった。
「私が欲しかったのは、地位でも、安全な未来でもありません。……ただ、あなたに、一人の女性として、愛されることでした」
その言葉は、静かだったが、これまで彼女が口にしたどんな言葉よりも、強くアウグストの胸を貫いた。
思い出す。婚約破棄のあの夜。「もっと相応しい未来がある」と、自分は確かにそう言った。あれは、彼女を救うつもりの言葉だった。だが、実際には、彼女が本当に望んでいたものから、目を逸らし続けてきただけだった。
「……知らなかった」
アウグストは、絞り出すように言った。
「いや――知ろうとしなかった。ずっと、そうだった」
「これまで、私は、君に多くのものを与えてきたつもりだった」
アウグストは、続けた。
「ドレスも、地位も、安全も。すべて、君のためだと信じていた。……だが、それは、君自身が望んだものではなかった」
セレフィーナは、何も言わず、ただ聞いていた。
「今、君に、何かを差し出すことはできない。地位も、約束も、今は言えない。……私が持っているのは、この問いだけだ」
アウグストは、一度、深く息を吸った。
「君が、これからどんな人生を望むのだとしても――その中に、私がいることを、許してほしい」
その言葉は、これまでのアウグストなら、決して口にしなかった類のものだった。与えるのではなく、請う言葉。相手の人生を、自分の意志で決めるのではなく、その一部に加えてもらえるかどうかを、相手に委ねる言葉。
セレフィーナの目に、みるみる涙が浮かんでいく。
「……ずるいです、陛下」
「……何が」
「そんな言い方をされたら……断れないではありませんか」
その声は、震えていた。だが、そこにあったのは、悲しみではなかった。
アウグストは、懐に手をかけたまま、一瞬、動きを止めた。
――これは、渡すべきなのだろうか。
こんな小さな言葉を、何年も後生大事に取っておいたと知られれば、かえって重荷になるのではないか。今更、こんなものを差し出すこと自体が、身勝手なのではないか。
迷いながらも、アウグストは、懐から、小さく折り畳んだ紙を取り出した。
長い間、引き出しの奥に眠らせていた、あの紙切れだった。
「これを、渡しそびれていた」
セレフィーナが、不思議そうに、その紙を受け取る。開いた瞬間、彼女の目が、大きく見開かれた。
――本当は、青い花が好き。
自分の言葉が、そこに書き記されていた。
「……覚えて、いらしたのですか」
「聞き逃してはいけない気がした。……それだけだった。当時は、なぜそう思ったのか、自分でもよく分かっていなかったが」
セレフィーナは、その紙を、両手でそっと包み込んだ。
王都で、誰にも言えなかった、ささやかな本音。それを、こんな形で、こんなにも長い時間を経て、受け止めてもらえるとは、思ってもみなかった。
「……嬉しいです」
その声に、初めて、確かな笑みが滲んだ。
辺境で見せていたような、力の抜けた、けれど今度は、アウグストにだけ向けられた笑顔だった。
夕焼けが、二人を、茜色に染めていた。
セレフィーナは、しばらく、その紙を見つめたあと、静かに顔を上げた。
「私も、まだ、怖いのです」
「……何が」
「誰かを好きになることが。……その先に、また同じことが起きるのではないかと」
アウグストは、黙って、その言葉を聞いていた。
「それでも」
セレフィーナは、続けた。
「その怖さより、あなたに、私自身を見てほしいという気持ちの方が、今は、少しだけ強いのだと思います」
その言葉に、アウグストは、静かに手を差し出した。
これまでのように、何かを与えるためではない。ただ、彼女がその手を取るかどうかを、彼女自身に委ねるためだった。
セレフィーナは、少しの間、その手を見つめ、それから、自分の意志で、そっと手を重ねた。
夕焼けの中庭に、二人分の影が、静かに寄り添っていた。




