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七不思議と七人のタイムリーパー  作者: 小鳥遊
第1章「未来を映す鏡」

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第7話 選ばれなかった人


 俺たちはまだ、一番大事な相手を見つけていなかった。


『どうして、私じゃないの』


 渡り廊下のガラスに映った旧校舎の階段。


 その中で聞こえた声は、二階堂真琴のものではなかった。


 相川莉子でもない。


 一ノ瀬澪でもない。


 もちろん、雨宮紬でもない。


 だったら、誰だ。


 ガラスの中の顔の見えない影は、一ノ瀬の背中に手を伸ばしたところで消えた。


 廊下には、普通の夕方の光が戻っている。


 美術準備室の扉の前。


 一ノ瀬は封筒を握ったまま、動けずにいた。


 封筒の中には、三人分の申込書が入っている。


 一ノ瀬澪。


 相川莉子。


 二階堂真琴。


 その三人の名前が、今は妙に重く見えた。


「今の声」


 相川がぽつりと言った。


「真琴じゃないの?」


 二階堂は小さく首を横に振る。


「違うと思います」


「でも、真琴さんも同じ言葉を思ってたんだよね」


「はい」


 二階堂は封筒を見る。


「でも、あの声は私じゃない。私の中にあった気持ちと似ているけど、私の声じゃありませんでした」


「じゃあ、他の誰かか」


 俺は渡り廊下のガラスを見る。


 もう階段は映っていない。


 ただ、夕方の校庭と、少し疲れた顔の俺たちが映っているだけだった。


 また俺の姿は、ちゃんと映っている。


 それが逆に気味悪かった。


 映らなかったり、映ったり。


 俺自身が何なのか、分からなくなる。


「仮入部生の中にいる」


 一ノ瀬が言った。


 声は震えていた。


 けれど、逃げる声ではなかった。


「たぶん、私たち以外の誰か。コンクールに出たいと思ってる子」


「でも、どうやって探すの?」


 相川が聞く。


「仮入部名簿には十人以上いたよ。全員に『あなた、澪を階段から突き落とす未来ありますか』って聞いて回る?」


「言い方」


「だって、聞き方ないじゃん」


 それはその通りだった。


 未来で一ノ瀬を押すかもしれない人物を探しています。


 そんなことを言われて、正直に答える人間はいない。


 そもそも、本人にその自覚があるかも分からない。


 もしかしたら、未来のその人は本当に押すつもりなんてないのかもしれない。


 たまたま手が触れた。


 言い合いの末、勢いで突き飛ばした。


 あるいは、鏡が見せているのは最悪の可能性にすぎない。


 可能性。


 その言葉が、頭の中で引っかかった。


「雨宮」


「うん」


「鏡が見せる未来って、確定じゃないんだよな」


「うん。たぶん、確定じゃない」


「だったら、押す相手もまだ確定してない可能性がある」


 雨宮は少し考えて、頷いた。


「あると思う」


「じゃあ、犯人探しっていうより」


 俺は言葉を探す。


「その未来に一番近い気持ちを持ってる人を探す、ってことか」


「一番近い気持ち」


 二階堂が繰り返した。


 相川が腕を組む。


「どうして、私じゃないの、って思ってる人」


「それなら、美術部に限らないんじゃない?」


 一ノ瀬が言った。


「コンクールに出したい人なら、仮入部生じゃなくてもいるかもしれない」


「美術部の顧問に聞くしかないか」


 俺が言うと、一ノ瀬が少しだけ顔を強張らせた。


 顧問に直接渡す。


 作戦の三つ目。


 そのために、ここまで来た。


 なのに、扉を開ける直前で未来がまた映った。


 まるで、その行動すらもまだ危ないと言われたみたいに。


「どうする?」


 雨宮が聞いた。


 一ノ瀬は封筒を見下ろす。


 そして、ゆっくり顔を上げた。


「渡す」


「澪」


 相川が不安そうに呼ぶ。


「逃げるのは、もう嫌だから」


 一ノ瀬はそう言った。


「でも、ひとりでは渡さない。みんなと一緒に行く。それで、顧問の先生にも相談する。誰かが無理に申込書を出そうとしてるなら、ちゃんと確認してもらう」


 昨日の一ノ瀬なら、たぶん言えなかった言葉だ。


 未来を恐れて、一人で辞退しようとしていた彼女が、今は誰かに相談しようとしている。


 それだけでも、変わっている。


 チリ。


 音が鳴った。


 でも、さっきほど強くない。


 まるで、鏡の向こうの未来が少しだけ迷ったような音だった。


「分かった」


 俺は頷いた。


「じゃあ、全員で入ろう」


   *


 美術部の顧問は、思っていたより若い女性の先生だった。


 名前は黒川先生。


 美術準備室の中は、絵の具と紙と木材の匂いが混ざっていた。


 棚には過去の作品らしきキャンバスが立てかけられ、机の上にはコンクールの申込書が何枚も積まれている。


 黒川先生は、突然ぞろぞろ入ってきた俺たちを見て、少しだけ目を丸くした。


「一ノ瀬さん? どうしたの、その人数」


「すみません。コンクールの申込書のことで、相談があって」


 一ノ瀬が封筒を差し出す。


 黒川先生は受け取らず、まず一ノ瀬の顔を見た。


「相談?」


「はい」


 一ノ瀬は一度だけ俺たちを見る。


 相川が頷く。


 二階堂は不安そうにしている。


 雨宮は黙って見守っていた。


「申込書を、提出箱じゃなくて、先生に直接渡したいです」


「それは構わないけど、何かあった?」


 一ノ瀬は少し迷った。


 けれど、逃げなかった。


「仮入部生の間で、コンクールに出すことについて少し不安があって」


「不安?」


「誰が選ばれるかとか、誰が出すべきかとか。そういうことで、誤解が起きそうだと思ったんです」


 黒川先生は少しだけ真面目な顔になった。


「誰かに何か言われた?」


「直接は、まだ」


 まだ。


 その言葉に、黒川先生は少し反応した。


「でも、相談しておきたいと」


「はい」


 黒川先生は封筒を受け取った。


「分かった。まず、申込書は預かる。あなたたち三人分?」


「はい」


 一ノ瀬が答える。


「一ノ瀬澪、相川莉子、二階堂真琴です」


 黒川先生の視線が二階堂へ向いた。


「二階堂さんも出すのね」


「……はい」


「よかった」


 二階堂が顔を上げる。


「え?」


「昨日、少し心配だったから」


「心配?」


「出したいのに迷っているように見えた」


 二階堂は何も言えなくなる。


 黒川先生は、机の上から仮入部名簿を取り出した。


「コンクールに出すかどうか迷っている一年生は多いよ。入学したばかりだし、自信がないのは普通」


「先生」


 俺は思わず口を開いていた。


 全員の視線がこちらに向く。


 美術部員でもない俺が口を挟むのは変だ。


 でも、聞かないわけにはいかなかった。


「他にも、出したいけど迷ってる人っているんですか」


 黒川先生は俺を見る。


「君は?」


「あ、一年二組の佐倉です」


「美術部?」


「違います」


「なのに聞くんだ」


「すみません」


「別に責めてないよ」


 黒川先生は名簿に目を落とした。


「出したいけど迷っている子なら、何人かいる。特に一年生は、周りの実力を見て萎縮するから」


「その中で、強く出たがっていた人は?」


 黒川先生は少し考える。


「強く、というか」


 指が名簿の一点で止まった。


「この子かな」


 その名前を見た瞬間。


 俺の耳の奥で、音が鳴った。


 チリ。


 名簿に書かれていた名前が、ほんの少し滲んで見える。


 相川が覗き込む。


「神崎、菫?」


 かんざき、すみれ。


「知ってます」


 二階堂が小さく言った。


「四組の子です。私と同じクラス」


「どんな子?」


 相川が聞く。


 二階堂は少し考える。


「静かな子です。でも、絵は上手いと思います。中学の頃から描いていたって聞きました」


 黒川先生も頷く。


「神崎さんは、仮入部の時に一ノ瀬さんの絵をかなり気にしていたと思う」


 一ノ瀬が顔を上げる。


「私の?」


「ええ。あなたのスケッチをずっと見ていた」


「話した覚えは、あまりないです」


「たぶん、向こうが話しかけられなかったんだと思う」


 二階堂が小さく俯いた。


 自分と重なったのかもしれない。


 選ばれる人。


 話しかけられない人。


 憧れて、妬んで、勝手に遠ざけてしまう人。


「神崎さんは、申込書を出したんですか?」


 雨宮が聞いた。


 黒川先生は名簿を確認する。


「まだ。提出すると言っていたけど、まだ来ていない」


「今日、学校には?」


「来ているはず。でも放課後は旧校舎の美術室にいるかもしれない。あの子、隅の席でよく描いているから」


 旧校舎。


 美術室。


 その言葉を聞いた瞬間、俺の耳の奥でチリ、と音が鳴った。


「佐倉くん」


 雨宮が小さく言った。


「聞こえた?」


「ああ」


「たぶん、神崎さんだと思う」


「まだ決めつけるな」


 俺は自分に言い聞かせるように言った。


 未来は確定じゃない。


 押す人も、まだ確定じゃない。


 ただ、神崎菫の後悔が、その未来に近い場所にある。


 それだけだ。


 黒川先生は俺たちを見る。


「神崎さんに何か用?」


 一ノ瀬が口を開く。


「少し、話したいです」


「そう。揉め事じゃないならいいけど、もし何かあるなら、ちゃんと先生にも言ってね」


「はい」


「あと」


 黒川先生は封筒を机の引き出しにしまった。


「申込書は預かった。だから、もう提出箱に行く必要はない。旧校舎の階段も、今日は使わないこと」


 一ノ瀬がはっと顔を上げる。


「え?」


「なんとなく。あなたたち、階段を気にしている顔をしてたから」


 黒川先生は軽く笑った。


「美術教師は、わりと人の顔を見る仕事だから」


「ありがとうございます」


 一ノ瀬は頭を下げた。


 これで、申込書の条件はひとつ消えた。


 提出箱に行く必要もない。


 旧校舎の階段を通る必要もない。


 それなのに。


 チリ。


 音はまだ、消えなかった。


   *


 神崎菫は、旧校舎の美術室にいた。


 放課後の旧校舎は、相変わらず人の気配が少ない。


 廊下の窓から差し込む夕日が、床に長く伸びている。


 あの古い美術室へ近づくにつれて、耳の奥の音が少しずつ強くなった。


 チリ。


 チリ。


 まるで、細いガラスにひびが入っていくような音。


 美術室の扉は、少しだけ開いていた。


 中を覗くと、一人の女子生徒が窓際の席に座っていた。


 肩まで伸びた髪を、低い位置でひとつに結んでいる。


 背中は小さく丸まっていて、机の上にはスケッチブックが開かれていた。


 彼女は何かを描いている。


 でも、その手は止まっていた。


 視線は、スケッチブックではなく、窓際に置かれた古い姿見に向いている。


 第一の七不思議。


 未来を映す鏡。


「神崎さん」


 一ノ瀬が声をかける。


 女子生徒の肩が跳ねた。


 ゆっくりとこちらを振り返る。


 顔立ちは大人しそうだった。


 けれど目の下には薄い隈があり、唇は強く結ばれている。


「……一ノ瀬さん」


 その声を聞いた瞬間。


 俺の耳の奥で、音が強くなった。


 チリ。


 この声だ。


 まだ確信ではない。


 でも、ガラス越しに聞いた声と、どこかが重なった。


 どうして、私じゃないの。


 あの言葉の輪郭が、彼女の声に似ていた。


「少し、話せる?」


 一ノ瀬が聞く。


 神崎菫は、俺たちを順番に見た。


 一ノ瀬。


 相川。


 二階堂。


 雨宮。


 最後に、俺。


「何の話?」


「コンクールのこと」


 その瞬間、神崎の表情が硬くなった。


「私は、出さないから」


 一ノ瀬が目を見開く。


「出さない?」


「うん」


 神崎はスケッチブックを閉じた。


「だから、話すことはない」


「でも、黒川先生は出すって」


「やめた」


「どうして」


 神崎は笑った。


 でも、その笑顔には少しも楽しさがなかった。


「どうしてって」


 彼女は一ノ瀬を見る。


「一ノ瀬さんが出るなら、どうせ選ばれないから」


 美術室の空気が、少し冷えた。


 二階堂が小さく身を強張らせる。


 その言葉は、彼女自身が何度も思っていた言葉に近かったのだろう。


 一ノ瀬は何も言えない。


 神崎は続けた。


「いいよね。選ばれる人は。悩んでるふりをしてても、最後にはちゃんと周りが背中を押してくれる。友達もいて、心配してくれる人もいて」


「神崎さん」


「私は、そういうのないから」


 机の上には、くしゃくしゃになった申込書が置かれていた。


 まだ破れてはいない。


 けれど、何度も握りしめられた跡がある。


「それ」


 俺は思わず言った。


 神崎が俺を見る。


「何?」


「その申込書、出すつもりだったんだろ」


「あなた誰?」


「佐倉悠真。一年二組」


「美術部でもないのに?」


「違う」


「じゃあ関係ない」


「関係ないかもしれないけど」


 俺は一度言葉を切る。


 何を言えばいいのか分からない。


 でも、ここで黙るのも違う。


「出すつもりだったなら、まだ出せばいいだろ」


 神崎の目が細くなる。


「簡単に言うね」


「簡単じゃないのは分かってる」


「分かってない」


「そうだな。分かってない」


 神崎が少しだけ驚いた顔をした。


「俺は神崎さんのことを知らない。どんな絵を描くのかも、何を諦めようとしてるのかも知らない」


「……」


「でも、今の言い方は、出したくない人の言い方じゃなかった」


 神崎は黙った。


 その沈黙の奥で、チリ、と音が鳴る。


 窓際の鏡が、わずかに揺れた。


 鏡の中に、旧校舎の階段が映る。


 落ちた申込書。


 赤い染み。


 一ノ瀬の背中に伸びる手。


 そして。


 顔の見えない影の輪郭が、少しだけ神崎菫に似て見えた。


「……何、これ」


 神崎の声が震える。


 彼女にも見えている。


 俺たちだけじゃない。


 神崎自身にも、見えている。


「やめて」


 神崎は小さく言った。


「私じゃない」


「神崎さん」


「私、そんなことしない」


 その言葉で、分かった。


 神崎にも、自覚がある。


 自分がその未来に近い場所にいることを。


 自分の中に、その言葉を言いたくなる感情があることを。


「私じゃない!」


 神崎が叫んだ瞬間。


 鏡の中の階段が大きく揺れた。


 一ノ瀬の背中に伸びる手。


 落ちる申込書。


 赤い染み。


 そして、あの声。


『どうして、私じゃないの』


 神崎は耳を塞いだ。


「言ってない」


 その声は、泣きそうだった。


「そんなこと、言ってない」


 二階堂が一歩前に出る。


「神崎さん」


「来ないで!」


 二階堂の足が止まる。


 神崎は机の上の申込書を掴んだ。


 くしゃくしゃになった紙が、彼女の手の中でさらに歪む。


「私だって、描いてた」


 神崎は言った。


「ずっと描いてた。中学の時から。誰にも見せなくても、ずっと」


 その声は震えていた。


「でも、一ノ瀬さんの絵を見たら、分からなくなった」


 一ノ瀬は何も言わない。


 神崎は、一ノ瀬を見ていた。


 逃げずに。


 怒りと憧れと悔しさが混ざった目で。


「同じ一年なのに。入学したばっかりなのに。どうして、あんな絵が描けるの」


「……」


「私が何年もかけて描きたかったものを、どうしてあなたは最初から持ってるの」


 美術室に、彼女の声だけが響く。


「黒川先生も、相川さんも、二階堂さんも、みんな一ノ瀬さんを見る。すごいねって言う。選ばれるのは、きっとあなたなんだって、みんな分かってる顔をする」


「神崎さん」


 一ノ瀬がようやく口を開いた。


 けれど、神崎は止まらなかった。


「私、思っちゃった」


 彼女は泣いていた。


「一ノ瀬さんがいなければいいのにって」


 チリ。


 鏡が鳴る。


 美術室の空気が、ひび割れるように震えた。


「違う」


 神崎は首を横に振る。


「本当に、そうしてほしいわけじゃない。ただ、思っちゃっただけ。ほんの一瞬だけ。なのに、鏡が」


 鏡の中で、階段の未来が濃くなる。


 顔の見えない影が、一ノ瀬に近づく。


 神崎の手が震えている。


 その手は、一ノ瀬に向けられているわけじゃない。


 でも、未来の中では伸びている。


 感情が、未来の形を取ってしまっている。


「私じゃない」


 神崎はもう一度言った。


「でも、私かもしれない」


 その言葉を聞いた瞬間。


 俺は思った。


 未来は、人を選んでいるわけじゃない。


 人の中にある、一番見たくない感情を拾っている。


 そして、それを最悪の形で映している。


「神崎さん」


 俺は言った。


「押したくないんだろ」


 神崎は俺を見る。


「当たり前でしょ」


「なら、まだそうなってない」


「でも、鏡には」


「鏡に映ったものは、確定じゃない」


 自分に言い聞かせるように言った。


「一ノ瀬も、相川さんも、二階堂さんも、それで間違えかけた。でも、変えられた」


「私も変えられるって?」


「分からない」


 神崎が息を呑む。


 俺は続けた。


「でも、変えたいなら、一人で鏡を見てるよりはましだと思う」


 神崎は何も言えなかった。


 一ノ瀬が一歩前に出る。


 相川が心配そうにその腕を掴もうとしたが、一ノ瀬は首を横に振った。


「神崎さん」


 一ノ瀬の声は震えていた。


「私も、怖いよ」


 神崎の目が揺れる。


「私、選ばれる人なんかじゃない。そう見えるだけで、ずっと怖い。自分の絵が本当にいいのかも、莉子と一緒に出ていいのかも、真琴さんを傷つけないかも、今だって分からない」


「嘘」


「嘘じゃない」


「だって、一ノ瀬さんは」


「私のことも、勝手に決めないで」


 その言葉に、神崎が息を止めた。


 一ノ瀬は続ける。


「私は神崎さんのことを知らない。どんな絵を描くのかも、何が悔しかったのかも、ちゃんと知らない」


「……」


「でも、私がいるから出さないって言われるのは、嫌だ」


 神崎の手の中で、申込書が揺れる。


「出してよ」


 一ノ瀬は言った。


「私も出す。莉子も出す。真琴さんも出す。神崎さんも出して」


「どうして」


「私が、神崎さんの絵を見たいから」


 その言葉に、神崎の表情が崩れた。


「そんなの」


「うん」


「そんなの、ずるい」


「そうかも」


「私、一ノ瀬さんのこと嫌いかもしれないのに」


「うん」


「羨ましくて、悔しくて、消えてほしいって思ったかもしれないのに」


「うん」


「それでも?」


 一ノ瀬は頷いた。


「それでも、見たい」


 神崎は泣いていた。


 肩を震わせながら、くしゃくしゃの申込書を握っている。


 チリ。


 鏡が鳴る。


 けれど、その音は少しずつ細くなっていった。


 階段の映像が揺らぐ。


 赤い染みが薄くなる。


 伸びていた手が、形を失っていく。


 それでも、完全には消えない。


 まだ何かが残っている。


 未来が最後まで、こちらを見ている。


「佐倉くん」


 雨宮が小さく言った。


「まだ、終わってない」


「ああ」


 分かっていた。


 神崎は泣いた。


 一ノ瀬は逃げなかった。


 それでも、未来は完全には消えない。


 たぶん、最後に残っている条件がある。


 俺は鏡を見る。


 鏡の中の階段には、まだ未来が映っていた。


 夕方。


 踊り場。


 落ちた申込書。


 赤い染み。


 倒れる一ノ瀬。


 そして、背後に立つ誰か。


 さっきまで、その影は神崎に似ていた。


 でも今は違う。


 輪郭が揺れている。


 神崎に見えた。


 二階堂に見えた。


 相川に見えた。


 そして、一瞬だけ、一ノ瀬自身にも見えた。


「……違う」


 俺は思わず呟いた。


 雨宮がこちらを見る。


「佐倉くん?」


「これ、犯人を映してるんじゃない」


 鏡の中で、影の顔がまた変わる。


 誰でもあって、誰でもない顔。


 そこにいる全員の、見たくない感情を貼り合わせたような顔。


「鏡は、未来を映してるんじゃない」


 俺の声が、少し震えた。


「みんなが一番怖がってる未来を、勝手に一つにしてるんだ」


 チリ。


 鏡が鳴った。


 神崎が息を呑む。


 二階堂が震えた。


 一ノ瀬は、鏡の中の自分を見つめたまま動けずにいた。


 そこに映っていたのは、誰かに押される一ノ瀬ではなかった。


 誰かに押されるかもしれないと怯えた一ノ瀬。


 誰かを押してしまうかもしれないと怯えた神崎。


 また選ばれないかもしれないと怯えた二階堂。


 大切な友達を守れないかもしれないと怯えた相川。


 その全部が、鏡の中で一つの未来になっていた。


「じゃあ」


 一ノ瀬がかすれた声で言う。


「私たちが見てた未来って、何だったの」


 雨宮が小さく答えた。


「たぶん、確定した未来じゃない」


 鏡の中で、赤い染みが揺れる。


「みんなが信じたら、本当に起きてしまう未来」


 その言葉を聞いた瞬間。


 鏡の中の影が、ゆっくりとこちらを向いた。


 顔はなかった。


 ただ、ぽっかりと空いた暗い穴のようなものが、そこにあった。


 そして、その口のない顔が言った。


『どうして、私じゃないの』


 その声は、もう誰の声でもなかった。


 神崎でもない。


 二階堂でもない。


 一ノ瀬でもない。


 選ばれなかった全員の声だった。


 チリ。


 鏡に、一本のひびが入った。


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