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七不思議と七人のタイムリーパー  作者: 小鳥遊
第1章「未来を映す鏡」

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第8話 鏡に映らない答え



 チリ。


 鏡に、一本のひびが入った。


 細く、白い線だった。


 古い姿見の中央から、右下へ向かって斜めに走っている。


 そのひびの向こうで、旧校舎の階段が揺れていた。


 夕方の踊り場。


 床に落ちた申込書。


 赤い染み。


 倒れる一ノ瀬。


 そして、背後に立つ顔のない影。


 さっきまで、その影は神崎菫に似ていた。


 でも、今は違う。


 輪郭が揺れている。


 二階堂真琴に見えた。


 相川莉子に見えた。


 一ノ瀬澪に見えた。


 そして、誰でもない何かに見えた。


『どうして、私じゃないの』


 その声は、もう一人のものではなかった。


 神崎の声でもない。


 二階堂の声でもない。


 相川の声でも、一ノ瀬の声でもない。


 選ばれなかった誰か。


 選ばれないかもしれない誰か。


 選ばれる人を見上げて、自分の中の黒い感情に気づいてしまった誰か。


 その全部を混ぜたような声だった。


「……何、これ」


 神崎が震える声で言った。


「私の声じゃない」


「うん」


 二階堂が小さく頷く。


「でも、私の声でもある気がする」


 その言葉に、神崎は息を呑んだ。


 二階堂は、鏡を見つめたまま続ける。


「私も、思ってた。どうして一ノ瀬さんなんだろうって。どうして私は選ばれないんだろうって」


「真琴さん」


「でも、一ノ瀬さんを押したいわけじゃなかった」


 二階堂の声は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「たぶん、この鏡は、そういう気持ちを拾ってるんだと思う」


 雨宮が静かに言った。


「未来そのものじゃなくて、未来になりそうな気持ち」


「未来になりそうな気持ち……」


 一ノ瀬が呟く。


 鏡の中の影が、一ノ瀬の背中に手を伸ばす。


 一ノ瀬はびくりと肩を震わせた。


 相川がその手を掴む。


「澪」


「大丈夫」


 そう言った一ノ瀬の声は、大丈夫には聞こえなかった。


 でも、彼女は逃げなかった。


 鏡から目を逸らさなかった。


「私、怖かった」


 一ノ瀬は言った。


「莉子に嫌われるのも、真琴さんを傷つけるのも、神崎さんに恨まれるのも、自分だけが選ばれるかもしれないのも、全部怖かった」


 鏡の中の影が揺れる。


「だから、最初は逃げようとした。コンクールに出なければいいって思った。自分が消えれば、誰も傷つかないって」


「澪」


「でも、それって結局、莉子の気持ちも、真琴さんの気持ちも、神崎さんの気持ちも、勝手に決めてただけだった」


 一ノ瀬は神崎を見る。


「神崎さんが私を嫌いかどうかも、私が決めることじゃない」


 神崎の目が揺れる。


「私は」


「うん」


 一ノ瀬は頷いた。


「嫌いでもいい」


「……え?」


「嫌いでも、羨ましくても、悔しくてもいい。私も怖いし、逃げたいし、たぶん誰かにひどいことを思う時もある」


 一ノ瀬は、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。


「でも、それを理由に、自分の絵をなかったことにはしない」


 チリ。


 鏡が鳴る。


 けれど、さっきより音が弱い。


 鏡の中の赤い染みが、少しだけ薄くなった。


「私、出る」


 一ノ瀬は言った。


「莉子と出る。真琴さんとも出る。神崎さんとも、出たい」


 神崎は唇を噛んだ。


「そんなの、綺麗ごとだよ」


「そうかも」


「私が出しても、どうせ一ノ瀬さんが選ばれるかもしれない」


「うん」


「その時、私、また思うよ。どうして私じゃないのって」


「うん」


「一ノ瀬さんのこと、嫌いになるかもしれない」


「それは、嫌だ」


 一ノ瀬は正直に言った。


 神崎が少しだけ目を見開く。


「嫌だけど、それでも、神崎さんが出すかどうかまで私が決めたくない」


「……」


「神崎さんも、自分で決めて」


 美術室が静かになる。


 鏡の中の階段だけが、薄く揺れている。


 神崎は手元の申込書を見た。


 くしゃくしゃに歪んだ紙。


 何度も握りしめられ、出すか捨てるか迷った跡が残っている。


「私の絵なんか」


 神崎は言いかけた。


 けれど、その途中で口を閉じた。


 そして、もう一度言い直す。


「私の絵を、見てほしい」


 その言葉は、小さかった。


 でも、はっきりしていた。


「選ばれなくても?」


 相川が聞いた。


 神崎は相川を見る。


 それから、少しだけ笑った。


「選ばれなかったら、たぶん泣く」


「うん」


「一ノ瀬さんのせいにしたくなるかもしれない」


「それはちょっと困るけど、まあ分かる」


 相川がそう言うと、神崎は泣きながら笑った。


「でも、出したい」


 神崎は言った。


「本当は、出したかった」


 チリ。


 鏡の音が、ふっと遠のいた。


 鏡の中で、伸びていた手が薄くなる。


 顔のない影が崩れていく。


 赤い染みが、床に溶けるように消えていく。


 それでも、階段の映像は完全には消えなかった。


 まだ、最後の何かが残っている。


「申込書」


 俺は言った。


 全員がこちらを見る。


「まだ出してない」


 神崎が手元の紙を見る。


「でも、こんなぐしゃぐしゃで」


「書き直せばいい」


 相川が即答した。


「予備あるでしょ。美術準備室に」


「でも」


「でも禁止」


 相川は神崎の前に立った。


「出したいって言ったじゃん」


「言ったけど」


「じゃあ出す」


「相川さん、強引」


「よく言われる」


「それ、雨宮さんも言ってました」


「じゃあ私たち気が合うね」


 雨宮が少しだけ笑った。


 神崎も、ほんの少しだけ笑った。


 それは泣き笑いみたいな顔だったけれど、さっきまでよりずっと人間らしい表情だった。


 一ノ瀬が神崎に手を差し出す。


「一緒に行こう」


「……どこに」


「美術準備室。申込書、書き直して、黒川先生に渡す」


「今から?」


「今から」


「怖い」


「私も怖い」


 一ノ瀬は言った。


「だから、一緒に行こう」


 神崎はその手を見つめた。


 しばらく迷っていた。


 でもやがて、くしゃくしゃの申込書を机に置き、一ノ瀬の手を取った。


 その瞬間。


 鏡の中の階段が、大きく揺れた。


 まるで、未来そのものが息を呑んだみたいに。


   *


 美術室を出る時、俺は一度だけ鏡を振り返った。


 ひびの入った古い姿見。


 そこには、現実と同じ美術室が映っている。


 机。


 椅子。


 スケッチブック。


 窓から差し込む夕方の光。


 そして、俺たちの背中。


 いや。


 俺の姿だけが、少し薄かった。


「……またかよ」


 思わず呟く。


 雨宮が足を止める。


「佐倉くん?」


「何でもない」


「何でもない顔じゃない」


「よく言われる」


「それ、四谷くんみたい」


「やめろ」


 そう返すと、雨宮は少しだけ笑った。


 でも、その笑顔はすぐに消える。


「佐倉くん」


「何」


「鏡に、映らなかった?」


 俺は黙った。


 雨宮の表情が強張る。


「やっぱり」


「何か知ってるのか」


「……今は、第一の七不思議を終わらせる方が先」


「またそれかよ」


「ごめん」


 謝る声が、本当に苦しそうだった。


 俺はそれ以上聞けなかった。


 聞けば、何かが壊れる気がした。


 雨宮が隠しているもの。


 俺にだけ言えない何か。


 その輪郭が、少しずつ近づいてきている。


 でも今は、一ノ瀬たちが先だ。


 俺はそう自分に言い聞かせて、美術室を出た。


   *


 美術準備室へ向かう道は、さっきよりも短く感じた。


 旧校舎の階段は使わない。


 渡り廊下も、全員で通る。


 一ノ瀬と神崎が前を歩き、その少し後ろを相川と二階堂が歩く。


 俺と雨宮は最後尾だった。


 途中、窓ガラスに何度か階段が映った。


 そのたびに、全員の足が止まりかけた。


 けれど、一ノ瀬が止まらなかった。


 神崎も、手を離さなかった。


 それだけで、映像は薄くなっていった。


 未来は、まだこちらを見ている。


 でも、もう俺たちを引きずり込むほど強くはなかった。


 美術準備室の前に着くと、黒川先生はまだ中にいた。


 俺たちを見るなり、少しだけ目を丸くする。


「今度は増えたね」


 神崎が一歩前に出た。


「あの」


「神崎さん?」


「申込書、書き直してもいいですか」


 黒川先生は一瞬だけ驚いた顔をした。


 けれど、すぐに柔らかく笑った。


「もちろん」


 机の引き出しから、白紙の申込書を一枚取り出す。


「ここで書く?」


「はい」


 神崎はペンを受け取った。


 手が震えている。


 最初の一画が、少しだけ歪んだ。


 でも、彼女は書くのをやめなかった。


 氏名。


 学年。


 クラス。


 作品題名。


 その欄で、神崎の手が止まる。


「題名、決まってる?」


 黒川先生が聞く。


 神崎は小さく頷いた。


 そして、ゆっくりと文字を書いた。


『窓際』


 短い題名だった。


 けれど、彼女の何かがそこにある気がした。


 誰にも見られないと思っていた場所。


 誰かを見上げていた場所。


 自分だけが置いていかれたと思っていた場所。


 その全部が、たぶんその二文字に入っていた。


 神崎は申込書を書き終えると、両手で黒川先生に差し出した。


「お願いします」


「預かります」


 黒川先生が受け取る。


 その瞬間。


 チリ。


 耳の奥で、音が鳴った。


 でもそれは、割れる音ではなかった。


 糸がほどけるような、細く静かな音だった。


 廊下の窓ガラスに、旧校舎の階段が映る。


 一瞬だけ。


 夕方の踊り場。


 床に落ちていた申込書は、もうなかった。


 赤い染みもない。


 倒れる一ノ瀬もいない。


 ただ、誰もいない階段だけが映っていた。


 そして、それもすぐに消えた。


「……消えた」


 二階堂が呟いた。


 一ノ瀬が息を吐く。


 相川が神崎の肩を軽く叩いた。


「出せたじゃん」


 神崎は泣きそうな顔で頷いた。


「うん」


「えらい」


「子ども扱いしないで」


「ごめん。でも、えらい」


 神崎は少しだけ笑った。


 その横で、一ノ瀬も笑っていた。


 完全な仲直りでもない。


 すべての劣等感が消えたわけでもない。


 この先、誰かが選ばれて、誰かが選ばれない日は必ず来る。


 その時、また悔しくなるかもしれない。


 誰かを羨ましく思うかもしれない。


 自分が嫌になるかもしれない。


 でも、それでも。


 少なくとも今は、誰かの気持ちを勝手に決めて、誰かの未来を奪うことはしなかった。


 それだけで、たぶん十分だった。


   *


 その日の夕方。


 俺たちは、もう一度だけ旧校舎の美術室へ戻った。


 黒川先生には「忘れ物をした」と言った。


 あながち嘘でもない。


 俺たちは、あの鏡に置いてきたものを確認しに行くのだ。


 美術室には、誰もいなかった。


 窓から差し込む夕日が、古い床を赤く染めている。


 窓際の姿見は、静かにそこにあった。


 ひびの入った鏡。


 その表面には、もう階段は映っていない。


 泣いている相川も。


 立ち尽くす一ノ瀬も。


 申込書を握り潰す誰かも。


 誰も映っていなかった。


 ただ、今の俺たちが映っている。


 一ノ瀬。


 相川。


 二階堂。


 神崎。


 雨宮。


 そして、俺。


 今度は、俺の姿もちゃんと映っていた。


「戻った」


 思わず呟く。


 雨宮が鏡越しに俺を見る。


 少しだけ安心したような顔だった。


 チリ。


 最後に一度だけ、音が鳴った。


 鏡のひびが、淡く光る。


 その光の中で、一瞬だけ、別の景色が映った。


 校内コンクールの日。


 壁に並んだ絵。


 一ノ瀬の絵。


 相川の絵。


 二階堂の絵。


 神崎の絵。


 どの絵が選ばれたのかは分からない。


 誰が笑って、誰が泣いたのかも分からない。


 でも、四人ともそこにいた。


 自分の絵の前に立っていた。


 それだけが見えた。


 そして、映像は消えた。


 古い鏡には、もうただの美術室が映っている。


「終わった、のかな」


 相川が言った。


 雨宮は少し考える。


 いつものように「たぶん」と言うのかと思った。


 けれど、彼女は言わなかった。


「うん」


 雨宮は静かに頷いた。


「第一の七不思議は、終わったと思う」


 一ノ瀬は鏡を見つめたまま、深く息を吐いた。


「怖かった」


「うん」


 相川が隣で頷く。


「でも、出すんでしょ」


「出す」


「私も出す」


「知ってる」


「真琴さんも」


 二階堂が小さく頷く。


「出します」


「神崎さんも」


 神崎は少しだけ迷ったあと、はっきり言った。


「出します」


 一ノ瀬は笑った。


 その笑顔は、鏡の中で泣いていた彼女とは違った。


 まだ怖さは残っている。


 でも、自分で選んだ人の顔だった。


「佐倉くん」


 一ノ瀬が俺を見る。


「ありがとう」


「俺は別に」


「別にじゃないよ」


 相川が言う。


「盗み聞きして乱入して、鏡見て倒れかけて、なんか変なこと言って、だいぶ役に立ってた」


「褒めてる?」


「半分くらい」


「半分かよ」


 二階堂が小さく笑う。


 神崎も、少しだけ笑った。


 その笑い声を聞いた時。


 やっと、耳の奥の音が消えた。


 完全に。


 何も残らないくらいに。


 チリ、とも鳴らない。


 ただ、放課後の美術室の静けさだけがあった。


   *


 旧校舎を出る頃には、空は赤から藍色に変わり始めていた。


 一ノ瀬たちは、黒川先生にもう一度挨拶をしに行くと言って先に本校舎へ戻っていった。


 神崎は最後まで少し気まずそうだったが、相川に半ば強引に連れていかれた。


 二階堂も、その後ろをついていく。


 気づけば、旧校舎の廊下には俺と雨宮だけが残っていた。


「終わったな」


 俺が言うと、雨宮は頷いた。


「うん」


「第一の七不思議」


「うん」


「じゃあ、そろそろ聞いてもいいか」


 雨宮の足が止まる。


 旧校舎の窓から差し込む夕暮れの光が、彼女の横顔を赤く染めていた。


「雨宮は、なんでこんなに七不思議のことを知ってるんだ」


 雨宮は答えなかった。


 でも、逃げもしなかった。


「一ノ瀬の気持ちも、真琴さんの怖さも、神崎さんの間違え方も、分かりすぎてた」


「……」


「未来を見た人が一人で決めると間違えるって言ったよな」


「うん」


「それ、経験があるからだろ」


 雨宮は、ゆっくりと目を伏せた。


 長い沈黙だった。


 廊下の向こうから、誰かの声が遠く聞こえる。


 でも、ここだけは静かだった。


 まるで、時間が少しだけ足を止めたみたいに。


「佐倉くん」


 雨宮は言った。


 その声は、いつもよりずっと小さかった。


「もし、未来を知ってたらどうする?」


「未来?」


「悪いことが起きるって分かってたら。誰かが傷つくって知ってたら。家族が壊れるって分かってたら」


 家族。


 その言葉だけ、少しだけ重さが違った。


「止めようとすると思う」


 俺は答えた。


「そりゃ、知ってたら」


「うん」


「でも、それだけじゃうまくいかないんだろ」


 雨宮が顔を上げる。


「なんでそう思うの」


「この数日で嫌というほど見たから」


 俺は苦笑した。


「未来を知ってても、相手の気持ちまでは分からない。怖くなって、勝手に決めて、逃げることもある」


「……」


「だから、たぶん話すしかないんだと思う」


 白瀬先生の言葉の受け売りみたいだった。


 でも今は、それしか言えなかった。


 雨宮は少し笑った。


 泣きそうな笑顔だった。


「佐倉くんは、本当に変わらないね」


「またそれか」


「うん。またそれ」


「俺たち、入学してまだ数日だぞ」


「知ってる」


「その言い方、やっぱりおかしいだろ」


 雨宮は否定しなかった。


 ただ、夕暮れの廊下で、まっすぐ俺を見た。


「私ね」


 雨宮は言った。


「この高校生活を、一度経験してるの」


 俺は何も言えなかった。


 言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


「高一の春から、高三の卒業まで。全部、覚えてる」


 雨宮の声は、静かだった。


 でも、その静けさの奥に、どうしようもない疲れが滲んでいた。


「一度目の私は、家族を救えなかった」


「雨宮」


「何度も考えた。あの時、こうしていれば。もっと早く気づいていれば。あの言葉を言わなければ。あの選択をしなければ」


 雨宮は、自分の手を見つめる。


「でも、何も戻せなかった」


「……」


「だから、戻ってきた」


 窓の外で、風が木々を揺らした。


 旧校舎の廊下に、かすかな夕方の匂いが流れ込んでくる。


「今度こそ、間違えないために」


 雨宮はそう言った。


 俺は、ただ彼女を見ていた。


 初対面のはずなのに、俺のことを知っていた少女。


 メロンパンの好みを知っていた少女。


 無理しないで、と何度も言った少女。


 一ノ瀬たちの間違え方を、痛いほど分かっていた少女。


 その理由が、ようやく一つの形になった。


「雨宮は」


 俺はかすれた声で聞く。


「二周目、なのか」


 雨宮は小さく頷いた。


「うん」


 その時、俺は初めて知った。


 この学校の七不思議は、怪談なんかじゃない。


 誰かがやり直した時間の、傷跡なのだと。


 そして。


 俺の隣にいる雨宮紬もまた、その傷跡の中を歩いてきた人なのだと。


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