第6話 どうして、私じゃないの
鏡の中にあったはずの未来が、少しずつ現実にはみ出し始めていた。
図書準備室の窓ガラスに、旧校舎の階段が映っている。
夕方の踊り場。
床に落ちたコンクールの申込書。
赤い染み。
倒れる一ノ瀬澪。
そして、顔の見えない誰かの声。
『どうして、私じゃないの』
その声は、もう俺だけに聞こえているわけではなかった。
雨宮も、一ノ瀬も、相川も、二階堂真琴も。
この部屋にいる全員が、確かにその声を聞いていた。
「……何、今の」
相川莉子がかすれた声で言った。
いつもの明るさは消えている。
無理もない。
ただの窓ガラスに、ありえない未来が映ったのだ。
それを見て普通でいられる方がおかしい。
一ノ瀬は、窓ガラスから目を離せずにいた。
自分が階段から落ちる姿。
自分の申込書が赤く染まっている光景。
それを見た直後の顔なんて、俺には想像もできない。
二階堂真琴は、両手で口元を押さえていた。
真っ青な顔で、何度も首を横に振っている。
「違う……」
彼女は小さく呟いた。
「私、こんなことになるなんて」
「真琴さん」
雨宮が声をかける。
けれど二階堂は聞こえていないみたいだった。
「私、ただ止めたかっただけで。怪我してほしくなくて。でも、でも」
チリ。
また音が鳴った。
今度は窓ガラスではなく、部屋の隅に積まれていた古い額縁が震えた。
ガラス面に、夕方の階段が一瞬だけ映る。
それを見た相川が一歩後ずさった。
「また……!」
「見るな」
俺は反射的に言った。
「見ない方がいい」
「そう言われても、見えるんだけど!」
「だよな」
自分でも無茶なことを言ったと思った。
額縁の映像はすぐに消えた。
でも、部屋の空気は変わらない。
何かが、そこら中に染み出している。
鏡の中に閉じ込められていた未来が、ガラスというガラスを使って、こちら側を覗いているみたいだった。
「雨宮」
俺は聞いた。
「これ、どういう状態なんだ」
雨宮は窓ガラスを見つめたまま、唇を噛んでいた。
彼女の顔にも、はっきりと焦りが浮かんでいる。
いつもみたいに「たぶん」と言う余裕すらなさそうだった。
「未来が強くなりすぎてる」
「未来が?」
「うん。起こるかもしれないだけだった未来が、みんなに意識されたことで、現実に近づいてる」
「意味分からない」
「私も、全部分かってるわけじゃない。でも」
雨宮は一ノ瀬を見る。
「怖がって避けようとする人が増えるほど、その未来の輪郭が濃くなるんだと思う」
「避けようとすると、逆に起きやすくなるってことか?」
「たぶん」
また、たぶん。
でも今は、その言葉にすがるしかなかった。
一ノ瀬がゆっくり口を開く。
「じゃあ、私が出るって言ったから?」
「違う」
相川が即座に言った。
「澪のせいじゃない」
「でも、私が出るって言ったから、未来が」
「違うってば」
相川は一ノ瀬の手を掴んだ。
「また一人で背負おうとしてる」
「……」
「昨日、それやめるって言ったばっかでしょ」
一ノ瀬は言葉を失う。
相川の手も震えていた。
怖くないわけがない。
それでも彼女は、一ノ瀬の手を離さなかった。
二階堂がその様子を見て、苦しそうに目を伏せる。
「私のせいです」
「真琴さん」
「私が見たから。私が止めようとしたから。私が、一ノ瀬さんに出ないでって言ったから」
「それも違う」
今度は俺が言った。
二階堂がこちらを見る。
「悪いけど、誰のせいかを決めるのは後でいい」
「でも」
「今それを始めたら、たぶん全員が自分のせいにする」
雨宮が少しだけ俺を見る。
俺は続けた。
「一ノ瀬は、自分が出るから悪いって言う。二階堂さんは、自分が見たから悪いって言う。相川さんは、自分が澪を引き止めたから悪いって言う。雨宮は……たぶん、もっと前から自分のせいにする」
雨宮の肩が、ほんの少し揺れた。
「そういうの、今やっても進まないだろ」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
俺はこんなに、はっきりものを言うタイプだっただろうか。
少なくとも入学式の日の俺は、こんな状況に首を突っ込むつもりなんてなかった。
でも、もう見てしまった。
見なかったことにはできない。
「じゃあ、どうするの」
相川が聞いた。
俺は窓ガラスを見る。
もう階段は映っていない。
ただ、薄暗い図書準備室と、そこに立つ俺たちが映っているだけだ。
今度は、俺の姿もちゃんと映っていた。
「未来を避けるんじゃなくて」
俺は言った。
「未来が起きる条件を探す」
「条件?」
「二階堂さんが見た未来は、階段で起きる。申込書が落ちてる。赤い何かがある。一ノ瀬と誰かが言い合ってる。それから、誰かが一ノ瀬を押す」
言葉にすると、嫌になるほど具体的だった。
でも、具体的なら潰せる。
「だったら、その条件を一個ずつ消せばいい」
一ノ瀬が俺を見る。
「でも、未来を変えようとすると、また別の未来が」
「だから、一人で勝手に変えない」
俺は言った。
「全員で共有する。誰かが隠して、勝手に動いて、勝手に諦めるから変な方向に行くんだろ」
二階堂が目を伏せる。
一ノ瀬も少し気まずそうにした。
相川が小さく頷く。
「それは、まあ、そうかも」
「だから、まず全部話す。二階堂さんが見たもの。俺が見たもの。一ノ瀬が鏡で見たもの。相川さんが不安に思ってること。雨宮が知ってることも、言える範囲で」
最後だけ、雨宮を見る。
雨宮は少しだけ困った顔をした。
「全部は、まだ無理」
「知ってる」
「怒らないの?」
「怒ってるけど、今は後でいい」
「後で怒るんだ」
「少しは」
雨宮は、こんな時なのに少しだけ笑った。
その笑顔を見て、部屋の空気がほんの少し緩む。
チリ。
また音が鳴った。
けれど、さっきよりは弱い。
もしかしたら、俺たちが未来から目を逸らすのをやめたからかもしれない。
*
俺たちは図書準備室の小さな机に、分かっていることを書き出した。
紙は古いメモ用紙。
ペンは相川が持っていた油性ペン。
こういう場面で一番手が早かったのは、意外にも相川だった。
「はい、まず未来の発生日。申込書の提出日。明後日の放課後」
相川がメモに大きく書く。
「場所は旧校舎の階段。たぶん二階から一階のところ?」
二階堂が小さく頷く。
「はい。踊り場が見えました」
「時間は?」
「夕方。窓が赤かったので、たぶん放課後です」
「提出期限は何時?」
一ノ瀬が答える。
「明後日の十七時まで。美術準備室前の箱に入れることになってる」
「つまり、申込書を出しに行く時間帯が危ないってことか」
俺が言うと、相川がメモに丸をつけた。
「じゃあ、明後日は澪を一人にしなければいい」
「それだけでいいのかな」
一ノ瀬が不安そうに言う。
「分からない。でも、一人で階段を通らないだけでも変わる」
雨宮が言った。
二階堂が控えめに手を上げる。
「あの」
「何?」
相川が顔を向ける。
「未来では、一ノ瀬さんが誰かと言い合いをしていました」
「誰かって、私じゃないよね」
「声は聞こえなかったので分かりません。でも、背格好は女子でした」
「じゃあ候補は美術部の一年?」
「たぶん」
俺は第4話で見た名簿を思い出す。
仮入部名簿には十数人の名前があった。
一ノ瀬、相川、二階堂以外にも、コンクールに出たい生徒がいる。
その中の誰かが、一ノ瀬を押す未来。
考えたくはない。
でも、無視もできない。
「その声」
一ノ瀬が言った。
「どうして、私じゃないの、って声」
「うん」
「それ、真琴さんの声なの?」
室内が静かになった。
二階堂の顔がこわばる。
相川が一ノ瀬を見る。
「澪」
「責めてるわけじゃない」
一ノ瀬はすぐに言った。
それから、二階堂に向き直る。
「でも、ちゃんと聞かないといけないと思う」
二階堂は、しばらく何も言わなかった。
両手を膝の上で握りしめる。
「……分かりません」
「分からない?」
「私の声に、似ている気もします」
二階堂は消え入りそうな声で言う。
「でも、違う気もします」
「どういう意味?」
相川が聞く。
二階堂は少し苦しそうに笑った。
「私が、言いそうな言葉ではあります」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
「どうして、私じゃないの」
二階堂は自分でその言葉を繰り返す。
「ずっと思ってました。中学の時も、昨日も、たぶん今も」
「……」
「どうして一ノ瀬さんなんだろう。どうして私は選ばれないんだろう。どうして、私じゃないんだろうって」
図書準備室の空気が重くなる。
でもそれは、さっきまでの怪異の重さとは少し違った。
人の気持ちの重さだった。
「でも」
二階堂は顔を上げる。
「私は、一ノ瀬さんを押したくなんかない」
「分かってる」
一ノ瀬が言った。
「分かってるよ」
「本当に?」
「うん」
「でも、未来では誰かが押していたんです」
「だから、それを止める」
一ノ瀬の声は静かだった。
「私も怖い。でも、真琴さんが怖かったことも分かった」
二階堂の目が揺れる。
「だから、一緒に止めよう」
「……一緒に?」
「うん」
一ノ瀬は頷いた。
「私をコンクールに出さないでって言うんじゃなくて、私が落ちないように手伝って」
二階堂は言葉を失った。
その表情は、泣きそうにも見えたし、少しだけ救われたようにも見えた。
相川が小さく笑う。
「そうそう。澪、たまに人に頼るの下手だから。今なら役に立てるよ」
「莉子」
「何?」
「言い方」
「だって本当じゃん」
二人のやり取りに、二階堂が少しだけ目を丸くする。
そして、ほんのわずかに笑った。
本当に小さな笑みだった。
でも、初めて見る表情だった。
「……私で、いいんですか」
「真琴さんが見た未来なんだから、真琴さんが一番詳しいでしょ」
相川が言う。
「だったら必要」
二階堂は俯いた。
「必要」
その言葉を、確かめるみたいに小さく繰り返した。
チリ。
音が鳴る。
けれど今度の音は、さっきよりもずっと細かった。
*
作戦と呼ぶには、あまりに頼りないものだった。
けれど、何もしないよりはましだ。
一つ目。
明後日の申込書提出日は、一ノ瀬一人で行動しない。
二つ目。
旧校舎の階段は、提出時間帯には使わない。どうしても通る必要がある場合は、複数人で通る。
三つ目。
申込書は当日ではなく、明日の放課後に顧問へ直接渡す。提出箱には入れない。
四つ目。
美術部の仮入部生に、コンクールの選考方法を確認する。誰かが誤解しているなら、早めに話す。
五つ目。
真琴が見た未来に似た状況が起きそうになったら、全員に連絡する。
「高校生がやる危機管理としては、だいぶちゃんとしてる気がする」
相川がメモを見ながら言った。
「普通の高校生は、未来の階段事故を防ぐ危機管理をしない」
俺が返すと、相川は「それはそう」と頷く。
一ノ瀬はメモを見つめながら、小さく息を吐いた。
「顧問に直接渡す、か」
「嫌?」
雨宮が聞く。
「ううん。ただ、ちゃんと話さないといけないんだなって」
「話せる範囲でいいと思う」
「七不思議のことは?」
「言わなくていい」
俺が言うと、一ノ瀬がこちらを見る。
「コンクールの件で不安がある。提出方法を相談したい。誰かとトラブルになりたくない。それくらいでいいんじゃないか」
「白瀬先生の受け売り?」
「たぶん」
相川が笑う。
「大人は信用しろじゃなくて使え、だっけ」
「あの先生、変だけどたまにいいこと言うよね」
相川が言うと、雨宮が少しだけ目を伏せた。
その反応が気になったが、今は深掘りしなかった。
二階堂は、ずっとメモを見ていた。
その視線は、三つ目の項目で止まっている。
申込書は当日ではなく、明日の放課後に顧問へ直接渡す。
「二階堂さん」
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らした。
「これでも、不安か?」
「……不安です」
「だよな」
「でも」
二階堂はメモを見たまま言う。
「少しだけ、さっきより息がしやすいです」
その言葉に、一ノ瀬がほっとしたように表情を緩める。
「よかった」
二階堂は一ノ瀬を見る。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「私、たぶんあなたのこと、ずっと勝手に決めてました」
一ノ瀬が少し目を見開く。
「選ばれる人だって。私とは違う人だって。悩まなくても、怖がらなくても、勝手に前に進める人なんだって」
「そんなことないよ」
「はい。昨日から見ていて、分かりました」
二階堂は少しだけ笑った。
「一ノ瀬さんも、結構面倒な人でした」
相川が吹き出した。
「それは本当にそう」
「莉子」
「いや、否定できないでしょ」
一ノ瀬は何か言い返そうとして、結局黙った。
その顔が少し赤い。
図書準備室に、ほんの少しだけ笑いが戻る。
さっきまで未来の映像に凍りついていた部屋とは思えない。
でも、それで全部が解決したわけではない。
窓ガラスの向こうには、普通の廊下が映っている。
けれど俺の耳には、まだかすかに音が残っていた。
チリ。
チリ。
弱くなっている。
でも、消えてはいない。
未来はまだ、こちらを見ている。
*
その日の放課後。
俺たちは、白瀬先生に捕まった。
「お前たち、また固まっているな」
旧校舎から本校舎へ戻る渡り廊下で、白瀬先生が出席簿を片手に立っていた。
この人はいつも、妙なタイミングで現れる。
相川が小さく手を上げる。
「先生。高校生活は大げさなくらいでちょうどいいって聞いたので」
「四谷の言葉を免罪符にするな」
「便利なので」
「便利に使うな」
白瀬先生はそう言って、俺たちを順番に見た。
一ノ瀬。
相川。
二階堂。
雨宮。
そして、俺。
俺のところで、ほんの少しだけ視線が止まる。
「佐倉」
「はい」
「また顔色が悪い」
「もう三回目です」
「記録更新だな」
「嬉しくないです」
「だろうな」
白瀬先生はため息をつく。
「何かあったのか」
俺たちは顔を見合わせた。
七不思議が現実にはみ出してます。
未来の階段事故を防ぐ作戦を立ててました。
そんなことを言えるわけがない。
でも、何も言わないのも違う気がした。
一ノ瀬が一歩前に出る。
「コンクールの申込書のことで、少し相談してました」
「美術部の?」
「はい」
「顧問には話したのか」
「明日、話します」
「そうか」
白瀬先生は短く頷いた。
「ならいい」
「え、それだけですか?」
相川が思わず聞く。
「それだけだ」
「もっと大人っぽく、事情を聞いたりしないんですか」
「聞いてほしいなら聞く」
「聞いてほしくない場合は?」
「聞かない」
「意外と雑ですね」
「距離感を間違えた大人ほど面倒なものはない」
白瀬先生は淡々と言った。
その言葉に、雨宮が少しだけ反応する。
「ただ」
先生は続けた。
「自分たちで抱えて、取り返しがつかなくなる前には言え」
「取り返しがつかなくなる前、ですか」
俺が聞くと、白瀬先生は俺を見た。
「そうだ」
「どこからが、取り返しがつかないんですか」
「人による」
「答えになってません」
「答えを他人に決めてもらおうとするな」
入学三日目の担任に言われるには、少し重い言葉だった。
でも、たぶん今の俺たちには必要な言葉だった。
「ただ、目安はある」
「何ですか」
「誰かが怪我をしそうなら、もう大人を呼べ」
俺は何も言えなかった。
怪我。
階段。
一ノ瀬が落ちる未来。
白瀬先生は、もちろんそんなことは知らない。
知らないはずだ。
なのに、その言葉はやけに的確だった。
一ノ瀬が小さく頷く。
「分かりました」
「分かっていない顔だが、まあいい」
「すみません」
「謝らなくていい。行け」
白瀬先生はそう言って、渡り廊下の端へ視線を向けた。
「早く帰れ。旧校舎は夕方になると暗い」
「先生、七不思議とか信じます?」
相川が唐突に聞いた。
俺はぎょっとした。
白瀬先生は表情を変えずに相川を見る。
「信じない」
「即答」
「怪談を信じるには、現実の方が十分面倒だからな」
「夢がないですね」
「夢は授業中に見るなよ」
相川が笑う。
その場の空気が少しだけ緩んだ。
でも俺は、白瀬先生の横顔を見ていた。
やっぱり、何も感じない。
この学校に起きている時間の歪みを、俺は少しずつ認識し始めている。
一ノ瀬の周りには音があった。
二階堂の名前は歪んで見えた。
雨宮の輪郭は、時々ぶれる。
でも白瀬先生だけは、ずっと普通だ。
ただの教師。
ただの大人。
普通に優しくて、普通に変で、普通にそこにいる人。
だからこそ、俺は少し安心していた。
*
翌日。
つまり、申込書提出日の前日。
俺たちは放課後、美術準備室の前に集まった。
一ノ瀬の手には、白い封筒がある。
中には、コンクールの出品申込書。
一ノ瀬澪。
相川莉子。
二階堂真琴。
三人分の申込書が入っている。
「本当に、私のも一緒でいいんですか」
二階堂が小さく聞いた。
相川が呆れたように言う。
「ここまで来てまだ言う?」
「でも」
「真琴さんが出さないなら、私もなんか嫌」
「どうして」
「どうしてって言われても」
相川は少し考えてから、笑った。
「どうして、私じゃないの、って言うくらいなら、まず出せばいいじゃん」
二階堂が目を見開く。
「選ばれないかもしれないけど」
相川は続ける。
「それは私も同じだし。澪だって絶対選ばれるって決まってるわけじゃないし」
「莉子、それは」
「何?」
「いや、ありがとう」
「急に素直」
一ノ瀬が封筒を見つめる。
「じゃあ、行くよ」
その声は少し震えていた。
でも、逃げるための震えではなかった。
怖くても、自分で進むための震えだった。
俺たちは頷く。
美術準備室の扉の前。
一ノ瀬が手を上げる。
その時。
チリ。
音が鳴った。
俺は反射的に振り返る。
廊下の先。
旧校舎へ続く渡り廊下のガラスに、夕方の階段が映っていた。
まだ日没には早い。
現実の窓には、校庭が映っているはずだった。
なのに、そこにはあの階段が映っている。
落ちた申込書。
赤い染み。
そして、階段の上に立つ一ノ瀬の姿。
その背後から、顔の見えない誰かが近づいてくる。
「一ノ瀬」
俺は言った。
「今は、開けるな」
一ノ瀬の手が止まる。
全員が俺を見る。
俺は渡り廊下のガラスを見つめたまま、ゆっくり言った。
「まだ、条件が残ってる」
ガラスの中で、顔の見えない影が一ノ瀬の背中に手を伸ばす。
そしてまた、あの声がした。
『どうして、私じゃないの』
その声は、二階堂真琴のものではなかった。
相川でも、一ノ瀬でもない。
俺はようやく気づいた。
未来で一ノ瀬を押す誰かは、ここにいる誰でもない。
俺たちはまだ、一番大事な相手を見つけていなかった。




