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七不思議と七人のタイムリーパー  作者: 小鳥遊
第1章「未来を映す鏡」

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第5話 コンクールに出さないでください


『一ノ瀬澪さんを、コンクールに出さないでください』


 そのメッセージを三回読み返しても、意味は分からない。


 けれど、嫌な予感だけはあった。


 スマホの画面には、知らない番号から届いた文字が並んでいる。


『佐倉悠真くん?』


『二階堂真琴です。雨宮さんから番号を聞きました』


『お願いがあります』


『一ノ瀬澪さんを、コンクールに出さないでください』


 最後の一文だけが、やけに強く目に残る。


 画面に映った薄い赤色は、もう消えていた。


 絵の具だったのか。


 血だったのか。


 ただの見間違いだったのか。


 分からない。


 分からないことだらけだ。


 それでも、耳の奥ではまだ小さく音が鳴っている。


 チリ。


 チリ。


 いい加減休ませてくれ。


 そう思ったところで、音が止まるわけでもない。


 俺はしばらくスマホを見つめたあと、返信を打った。


『どういう意味ですか』


 送信。


 既読はすぐについた。


 けれど、返事は来なかった。


 一分。


 二分。


 三分。


 その間、画面上には「入力中」の表示すら出ない。


 俺はベッドに腰を下ろし、スマホを握ったまま天井を見上げた。


 二階堂真琴。


 一年四組。

 美術部の仮入部名簿にあった名前。

 鏡の中で滲んで見えた名前。

 一ノ瀬や相川と同じコンクールに出たいと言っていたらしい女子。


 彼女はなぜ、一ノ瀬をコンクールに出さないでほしいなんて言うのか。


 一ノ瀬に負けるのが嫌だから。

 一ノ瀬が出ると、自分が選ばれないと思っているから。

 そんな単純な話なら、まだ分かる。


 でも、それだけなら七不思議とは関係ない。


 俺の耳に、あの音は鳴らないはずだ。


 チリ。


 また鳴った。


 まるで、早くしろと急かすみたいに。


 俺はスマホを見下ろす。


 画面には、まだ返事がない。


「……雨宮」


 俺は少し迷ってから、雨宮にメッセージを送った。


『二階堂真琴って子から連絡来た』


 今度は、すぐに返信が来た。


『ごめん。番号教えた』


『先に言えよ』


『ごめん。でも、真琴さんがどうしても佐倉くんと話したいって』


『一ノ瀬をコンクールに出すなって言われた』


 そこから少し間が空いた。


 雨宮も、その内容までは知らなかったのだろう。


 数十秒後、返信が届く。


『明日、会おう』


『誰と』


『真琴さんと。私も行く』


『一ノ瀬と相川には?』


『まだ言わない方がいいと思う』


『なんで』


『真琴さんが、たぶん一ノ瀬さんを避けてるから』


 俺はその文面を見て、ため息をついた。


 また、雨宮の「たぶん」だ。


 でも最近は、その「たぶん」を無視できなくなっている。


 雨宮の言う「たぶん」は、ただの推測にしては妙に当たる。


 まるで、似たような失敗を何度も見てきた人間の予感みたいに。


『分かった』


 そう送ると、雨宮からすぐに返事が来た。


『佐倉くん』


『何』


『今日はもう寝て』


『命令?』


『お願い』


 少しだけ笑ってしまった。


 スマホの画面越しなのに、雨宮の困ったような顔が浮かぶ。


『考えとく』


『それ、だいたい寝ない人の返事』


『四谷みたいなこと言うな』


『四谷くんほどしつこくは言わない』


『もう十分しつこい』


『じゃあ最後に一回だけ。無理しないで』


 俺は返信しようとして、やめた。


 代わりに、スマホを机に置く。


 無理しないで。


 雨宮は、よくそう言う。


 入学初日から。


 まだ何も知らないはずの俺に向かって。


 まるで、俺がいつか無理をすることを知っているみたいに。


 俺は部屋の電気を消した。


 暗くなった天井を見上げる。


 チリ。


 チリ。


 耳の奥の音は、眠る直前まで消えなかった。


   *


 翌朝。


 教室に入ると、四谷が俺の席には座っていなかった。


 珍しいな、と思った瞬間、背後から声がした。


「おはよう、佐倉」


「うわ」


 振り返ると、四谷蓮がいた。


 手にはいつもの購買袋。

 口にはすでに何かをくわえている。


「朝から背後に立つな」


「背後を取れる男ってかっこよくない?」


「怖いだけだろ」


「で、昨日は眠れた?」


 いきなり核心を突かれて、俺は言葉に詰まった。


「なんで」


「顔」


「顔?」


「寝不足の顔してる。あと、スマホ見すぎた顔」


「スマホ見すぎた顔って何だよ」


「目がこう、現代社会に疲れてる」


「雑な診断だな」


 四谷は笑った。


 けれど、すぐに少し声を落とす。


「また何かあった?」


「……少し」


「言えること?」


「まだ分からない」


「そっか」


 四谷はそれ以上聞かなかった。


 こういうところが、こいつの不思議なところだ。


 踏み込んでくるくせに、本当に踏み込まれたくなさそうな場所では止まる。


「じゃあ、言えるようになったら言えよ」


「昨日も聞いた」


「大事なことは何度でも言うタイプだから」


「それも聞いた」


「三回目から味が出る」


「出ない」


 四谷は満足そうに笑って、自分の席へ戻っていった。


 入れ替わるように、雨宮がやってくる。


「おはよう」


「おはよう」


「寝た?」


「少し」


「嘘ではないけど、十分ではなさそうな答え」


「よく分かるな」


「顔」


「みんな顔で判断しすぎだろ」


 雨宮は少しだけ笑った。


 でもすぐに表情を引き締める。


「真琴さん、今日来てるみたい」


「会えるのか」


「昼休み、旧校舎の図書準備室に来てほしいって」


「また旧校舎か」


「人が少ないから」


「それ、怪談の舞台として便利すぎないか」


「実際、便利なんだと思う」


 さらっと怖いことを言うな。


 俺はため息をつきかけて、ふと気づいた。


「雨宮、なんで二階堂真琴と知り合いなんだ?」


 雨宮は一瞬だけ目をそらした。


「昨日、探してる時に一年四組で話を聞いたでしょ」


「その時、真琴はいなかった」


「うん。でも連絡先を知ってる子がいて、その子経由で」


「そこまでしたのか」


「気になったから」


「俺の番号を教える前に確認は?」


「ごめん」


「謝るの早いな」


「悪いと思ってるから」


 雨宮は素直に頭を下げた。


 怒るつもりだったのに、そうされると怒りづらい。


「次からは先に聞いてくれ」


「うん。そうする」


「絶対だぞ」


「うん」


 雨宮は真面目に頷いた。


 それから、小さく付け加える。


「でも、真琴さんの声が少し変だったから」


「声?」


「電話したの?」


「少しだけ。佐倉くんと話したいって言われた」


「どんな感じだった?」


 雨宮は少し考える。


「怖がってる、というより」


「より?」


「もう決めてる感じ」


「何を」


「何かを諦めること」


 その言葉に、胸の奥が少し冷えた。


 何かを諦めること。


 未来を見た一ノ瀬も、相川と一緒に出ることを諦めようとしていた。


 でも、二階堂真琴は違う。


 彼女は自分のことではなく、一ノ瀬を止めようとしている。


 それが何を意味するのか、まだ分からない。


 チャイムが鳴る。


 ホームルームが始まる。


 白瀬先生が教室に入ってきた。


「おはよう」


「おはようございまーす」


 四谷の声がひときわ大きい。


「四谷」


「はい」


「朝から元気なのは悪いことではないが、周囲の眠気を攻撃するな」


「すみません、眠気への配慮が足りませんでした」


「反省文みたいに言うな」


 教室に笑いが起きる。


 その笑い声の中で、白瀬先生は出席簿を開いた。


   *


 昼休み。


 俺と雨宮は、旧校舎の図書準備室へ向かった。


 図書準備室は、旧校舎の一階の奥にあった。


 今はほとんど使われていないらしく、扉の窓には薄く埃が積もっている。

 廊下にも人の気配はない。


「ここ、入っていいのか?」


「鍵は開いてるって聞いた」


「誰に」


「真琴さん」


 雨宮が扉に手をかける。


 たしかに鍵は開いていた。


 扉を開けると、古い紙の匂いがした。


 中には、本棚と段ボールがいくつも積まれている。

 窓際には小さな机があり、その横に一人の女子生徒が立っていた。


 細い子だった。


 肩にかかるくらいの髪。

 前髪が少し長く、目元に影を落としている。

 制服はきちんと着ているのに、どこか所在なさげに見える。


 同じ一年生。


 彼女はこちらを見ると、小さく頭を下げた。


「二階堂真琴です」


 声は、思っていたよりずっと小さかった。


「佐倉悠真です」


「雨宮紬です。昨日は急に連絡してごめんね」


 二階堂は首を横に振る。


「私がお願いしたので」


 彼女はそう言って、俺を見る。


 その目は、ひどく疲れていた。


 体調不良で早退したという話を思い出す。


 本当に体調が悪いのかもしれない。


 でも、それだけではない気がした。


「メッセージのことだけど」


 俺が切り出すと、二階堂はびくりと肩を揺らした。


「一ノ瀬をコンクールに出すなって、どういう意味?」


 二階堂は、すぐには答えなかった。


 両手で鞄の持ち手を握りしめる。


「そのままの意味です」


「理由は?」


「一ノ瀬さんが出たら、他の人が傷つくから」


「他の人って、二階堂さんのこと?」


「私だけじゃありません」


「じゃあ誰」


 二階堂は唇を噛んだ。


 雨宮が少し柔らかい声で言う。


「真琴さん。話せるところだけでいいよ」


「……一ノ瀬さんは、選ばれる人です」


 二階堂はぽつりと言った。


「最初から、そういう人なんです」


「選ばれる人?」


「絵も上手いし、目立つし、先生にもすぐ名前を覚えられる。あの人が出たら、たぶん一ノ瀬さんが選ばれる」


「それが嫌なの?」


 俺が聞くと、二階堂は一瞬だけ俺を見た。


 その目には、怒りではなく諦めがあった。


「嫌です」


 彼女は正直に言った。


「でも、嫌だから止めてほしいって言ってるわけじゃありません」


「じゃあ何で」


「見たから」


 雨宮の表情が変わる。


 俺も背筋が少し冷える。


「何を?」


 二階堂はゆっくり顔を上げた。


「一ノ瀬さんが、誰かに突き落とされるところ」


 図書準備室が静まり返った。


 外の廊下からも、何の音も聞こえない。


 まるで、部屋ごと時間から切り離されたみたいだった。


「突き落とされる?」


 俺は聞き返す。


「どこから」


「旧校舎の階段です」


「誰に」


「分かりません」


「鏡で見たのか?」


 二階堂は頷いた。


「昨日、美術室に行きました。一ノ瀬さんたちが帰ったあと。あの鏡を見たら、映ったんです」


「一ノ瀬が突き落とされる未来が?」


「はい」


 二階堂の声が震え始める。


「階段の上で、一ノ瀬さんが誰かと言い合いをしていて、それで、その人が一ノ瀬さんを押して」


「顔は?」


「見えませんでした」


「声は?」


「聞こえませんでした。でも」


 二階堂は鞄を握る手に力を込める。


「床に落ちていた申込書が見えました。コンクールの申込書です」


 俺は息を呑んだ。


 昨日、鏡で見た映像と繋がる。


 旧校舎の廊下。

 床に落ちた申込書。

 赤い何か。

 知らない女子の声。


 どうして、私じゃないの。


「それで、一ノ瀬を出すなって?」


「はい」


「でも、それって」


 言いかけて、俺は止まった。


 昨日の一ノ瀬と同じだ。


 未来を見たから、未来を避けようとしている。


 そのために、本人の意思を無視しようとしている。


「一ノ瀬に直接言えばいいだろ」


「言えません」


「なんで」


「信じてもらえるわけないから」


「俺には言ったのに?」


「佐倉くんは、見える人だって聞いたから」


 雨宮を見る。


 雨宮は少し気まずそうに目を伏せた。


「雨宮さんから聞きました。佐倉くんなら、鏡に映ったものを分かってくれるって」


「それで俺に止めさせようとしたのか」


 二階堂は何も言わなかった。


 沈黙が答えだった。


 少しだけ、腹が立った。


 自分でも意外だった。


 まだ知り合ったばかりの一ノ瀬のことなのに。


 でも、昨日の一ノ瀬を見ているからだと思う。


 彼女は怖がりながらも、相川と向き合った。


 自分が未来を勝手に決めていたことを認めた。


 それなのに、今度は別の誰かが一ノ瀬の未来を勝手に決めようとしている。


「二階堂さん」


 俺は言った。


「一ノ瀬は、昨日ちゃんと相川さんと話した」


「知ってます」


「知ってる?」


「美術室の外で、少し聞こえました」


 盗み聞きしていたのか。


 俺も人のことは言えないが。


「だったら、分かるだろ。あいつは勝手に決めるのをやめたんだよ」


「でも、未来は変わってない」


「変わってないって、なんで分かる」


「今朝、もう一度見たから」


 二階堂はそう言った。


 俺は言葉を失う。


「一ノ瀬さんが階段から落ちる未来は、まだ消えてませんでした」


 雨宮が小さく息を呑む。


 俺の耳の奥で、音が鳴った。


 チリ。


「だからお願いです」


 二階堂は俺を見る。


 その目は、ほとんど泣きそうだった。


「一ノ瀬さんを止めてください」


「……」


「コンクールに出なければ、申込書も出さない。申込書がなければ、あの未来は起きないかもしれない」


「それは」


 昨日の一ノ瀬と同じ理屈だ。


 怖い未来を避けるために、先に逃げる。


 誰かを傷つけないために、誰かの選択肢を奪う。


 たぶん、悪意ではない。


 二階堂は一ノ瀬を嫌っているのではない。

 むしろ、助けようとしている。


 でも。


「それ、一ノ瀬の気持ちはどこにあるんだよ」


 二階堂の肩が揺れた。


「本人が出たいって言ってるなら、まず本人に話すべきだろ」


「話して、信じてもらえなかったら?」


「それでも」


「信じてもらえなかったら、どうするんですか」


 二階堂の声が、初めて強くなった。


「私、見たんです。あの人が落ちるところを。申込書が赤くなるところを。誰かが泣いてるところを。なのに、誰も信じてくれなかったら、どうすればいいんですか」


 その言葉に、俺は何も言えなくなった。


 信じてもらえなかったことって、残るんだよ。


 昨日の雨宮の言葉がよみがえる。


 未来を見た人間は、たぶん一人じゃ正しく動けないんだよ。


 でも、未来を見た人間に「勝手に決めるな」とだけ言うのも、たぶん簡単すぎる。


 二階堂は本当に怖かったのだ。


 一ノ瀬が落ちる未来を見て。


 それを誰にも信じてもらえないかもしれないと思って。


 だから、一番雑で、一番確実そうに見える方法を選んだ。


 一ノ瀬を出さなければいい。


 コンクールをなくせばいい。


 未来の原因を消せばいい。


「真琴さん」


 雨宮が静かに言った。


「怖かったんだね」


 二階堂の目が揺れた。


「……怖いです」


 彼女は小さく答えた。


「だって、知らない人が落ちるのを見るだけでも怖いのに」


 そこで一度、言葉が止まる。


「一ノ瀬さん、私のこと覚えてないかもしれないけど」


「え?」


 一ノ瀬が覚えていない?


 二階堂は少しだけ笑った。


 ひどく寂しそうな笑い方だった。


「中学の時、一度だけ同じコンクールに出たことがあるんです」


「一ノ瀬と?」


「はい。私は落ちて、一ノ瀬さんは選ばれました」


「……」


「その時、一ノ瀬さんの絵を見て、すごいと思いました。悔しいとも思ったけど、それ以上に、ああいう絵を描ける人がいるんだって思った」


 二階堂は窓の外を見る。


「だから、この高校に来たんです」


「一ノ瀬がいるから?」


「それだけじゃないです。でも、理由の一つではあります」


 それは、意外だった。


 二階堂真琴は、一ノ瀬を妬んでいるだけではなかった。


 憧れてもいる。


 だからこそ、複雑なのだろう。


「本当は、同じコンクールに出たかった」


 二階堂は言った。


「でも、また負けると思います」


「それはまだ分からない」


「分かります」


「分からないだろ」


「分かるんです」


 彼女は強く言った。


「だって、私の絵はいつも選ばれないから」


 その声に、鏡の中で聞いた言葉が重なる。


 どうして、私じゃないの。


 これは、二階堂の声だったのか。


 いや、鏡で聞いた声とは少し違う。

 でも、感情は同じ場所から来ている気がした。


「一ノ瀬さんには出てほしくない」


 二階堂は言った。


「でも、出てほしいんです」


「どっちだよ」


「分かりません」


 彼女は小さく首を振る。


「一ノ瀬さんが出たら、たぶん選ばれる。私はまた選ばれない。そう思うと苦しい。でも、一ノ瀬さんが出ないコンクールで私が選ばれても、きっと嬉しくない」


 それは、矛盾していた。


 でも、たぶん人の気持ちはそういうものだ。


 勝ちたい。


 でも、相手にいなくなってほしいわけじゃない。


 傷つきたくない。


 でも、逃げて勝ったことにはしたくない。


「だから、分からなくなったんです」


 二階堂は言った。


「一ノ瀬さんを止めたいのが、あの人を助けたいからなのか、自分が傷つきたくないからなのか」


 図書準備室に、沈黙が落ちる。


 俺は何も言えなかった。


 さっきまで少し腹が立っていた。


 でも今は、簡単に責められない。


 二階堂の中にも、ちゃんと後悔がある。


 まだ起きていない未来への後悔。


 これから傷つくかもしれない自分への後悔。


 そして、憧れている相手を妬んでしまう自分への後悔。


「二階堂さん」


 俺はゆっくり言った。


「一ノ瀬を止めるかどうかは、まだ決められない」


 二階堂の顔が曇る。


「でも、話は聞く」


「……」


「一ノ瀬にも、相川さんにも、二階堂さんにも、ちゃんと話を聞く。それから決める」


「時間がありません」


「いつの未来を見たんだ?」


「申込書の提出日です。明後日の放課後」


 明後日。


 思ったより近い。


「じゃあ、明日までに話す」


「そんな簡単に」


「簡単じゃないだろうな」


 俺は息を吐いた。


「でも、出すなって言われてそのまま止めるのは違うと思う」


 二階堂は何も言わなかった。


 雨宮が俺を見ている。


 その目が、少しだけ揺れていた。


「佐倉くん」


「何」


「明日、一ノ瀬さんたちと真琴さんを会わせよう」


 二階堂が顔を上げる。


「無理です」


「無理でも、必要だと思う」


 雨宮の声は柔らかい。


 でも、逃げ道を塞ぐ強さがあった。


「未来を見た人が一人で決めると、たぶん間違えるから」


 二階堂は唇を噛んだ。


 俺はその言葉を聞きながら、昨日の雨宮を思い出す。


 未来を見てしまった人は、一人だとだいたい間違えるから。


 雨宮は、二階堂にも同じことを言っている。


 でもたぶん、一番言いたい相手は自分自身なのだ。


「……考えます」


 二階堂は小さく言った。


「でも、約束はできません」


「それでいいよ」


 雨宮が答える。


 その時だった。


 図書準備室の外で、足音がした。


 俺たちは同時に扉を見る。


 誰かが廊下にいる。


 気のせいかと思ったが、足音は扉の前で止まった。


 次の瞬間、扉が開く。


「ここにいたんだ」


 立っていたのは、一ノ瀬澪だった。


 その後ろには、相川莉子もいる。


「佐倉くん。雨宮さん」


 一ノ瀬は俺たちを見て、それから二階堂真琴を見た。


「探してた」


 二階堂の顔から血の気が引く。


「一ノ瀬、さん」


 相川が一歩前に出た。


「ごめん。雨宮さんに聞いたら、ここかもって」


 雨宮を見る。


 雨宮は気まずそうに視線をそらした。


「言わない方がいいって言ったの、誰だっけ」


「状況が変わったから」


「便利だな、その状況」


「ごめん」


 謝るのが早い。


 でも、今回は俺も責めきれなかった。


 どうせ明日には会わせるつもりだったのだ。


 それが少し早まっただけとも言える。


 ただし、二階堂の準備はまったくできていない。


 一ノ瀬は真琴を見つめる。


「あなたが、二階堂真琴さん?」


「……はい」


「私をコンクールに出さないでって言ったの、あなた?」


 二階堂は何も言わない。


 けれど、その沈黙が答えだった。


 相川が眉をひそめる。


「え、何それ」


 一ノ瀬の声は、思ったより静かだった。


 怒っているというより、傷ついているように聞こえた。


「どうして?」


 二階堂の肩が震える。


 俺は何か言おうとした。


 でも、その前に二階堂が口を開いた。


「あなたが落ちるのを見たからです」


 図書準備室の空気が凍った。


「落ちる?コンクールに?」


 一ノ瀬が聞き返す。


「旧校舎の階段から。誰かに押されて」


 相川が息を呑んだ。


「何、それ」


 二階堂は一ノ瀬を見た。


 さっきまで逃げるように俯いていた彼女が、今度はちゃんと一ノ瀬を見ていた。


「コンクールに出たら、あなたは傷つきます」


「……」


「だから、出ないでください」


 一ノ瀬はしばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「嫌です」


 二階堂の目が揺れる。


「なんで」


「私、出たいから」


「でも」


「怖い未来があるからって、また逃げたら、昨日と同じになる」


 一ノ瀬の声は震えていた。


 それでも、はっきりしていた。


「私はもう、莉子の気持ちを勝手に決めたくない。自分の気持ちも、勝手に諦めたくない」


「怪我をしても?」


「怪我はしたくない」


「だったら」


「でも、出たい」


 一ノ瀬はそう言った。


 その言葉に、二階堂は唇を噛む。


「どうして」


「私が決めることだから」


 それは昨日、相川が言った言葉に似ていた。


 私の気持ちは、私のものだから。


 一ノ瀬は、それをちゃんと受け取っていたのだ。


「二階堂さん」


 一ノ瀬は続けた。


「心配してくれたなら、ありがとう。でも、私の代わりに私の未来を決めないで」


 二階堂の目に、涙が浮かんだ。


「私だって」


 彼女の声が震える。


「私だって、決めたいわけじゃない」


「うん」


「でも、見たんです」


「うん」


「あなたが落ちるところを見たんです!」


 二階堂の声が、準備室に響いた。


 その瞬間。


 チリ、と音が鳴った。


 机の上に置かれていた古いガラスの文鎮が、かすかに震える。


 俺は息を止めた。


 ガラスの表面に、薄く何かが映っている。


 鏡じゃない。


 ただの文鎮だ。


 なのに、その中に旧校舎の階段が見えた。


 夕方。


 踊り場。


 落ちている申込書。


 赤い何か。


 そして、階段の上に立つ二つの影。


 一つは一ノ瀬。


 もう一つは、顔が見えない。


 影が、一ノ瀬に手を伸ばす。


「一ノ瀬!」


 俺は叫んでいた。


 同時に、映像が消える。


 文鎮はただのガラスに戻った。


 全員が俺を見る。


 俺の心臓は、嫌な音を立てていた。


 今のは、鏡じゃない。


 鏡ではないものにも、未来が映った。


「佐倉くん」


 雨宮の声が震えている。


「今、見えた?」


「……見えた」


 俺は文鎮を見つめたまま答える。


「階段。申込書。一ノ瀬。もう一人、誰か」


「顔は?」


「見えなかった」


 二階堂が小さく言う。


「同じです」


 俺は彼女を見る。


「私が見た未来と、同じ」


 チリ。


 また音が鳴る。


 今度は耳の奥ではない。


 部屋全体が、かすかに軋むような音。


 雨宮が顔を強張らせる。


「まずい」


「何が」


「鏡の外に、出始めてる」


 その言葉の意味を理解する前に、図書準備室の窓が、かたりと揺れた。


 風はない。


 なのに、窓ガラスの表面に旧校舎の階段が映る。


 申込書。


 赤い染み。


 一ノ瀬の倒れる姿。


 そして、誰かの声。


『どうして、私じゃないの』


 今度は全員に聞こえた。


 相川が悲鳴を飲み込む。


 一ノ瀬が固まる。


 二階堂は真っ青になっていた。


 俺は窓ガラスを見つめたまま、動けなかった。


 鏡の中にあったはずの未来が、少しずつ現実にはみ出し始めていた。


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