第4話 映らない未来
第一の七不思議は、まだ終わっていない。
そのことに気づいたのは、翌朝のことだった。
教室に入ると、昨日と同じように四谷蓮が俺の席に座っていた。
「おはよう、佐倉」
「おはよう。で、なんで俺の席に座ってるんだ」
「友情を深めるため」
「自分の席で深めろ」
「冷たいなー」
四谷は笑いながら席を立つ。
その手には、すでに購買の袋があった。
「朝から焼きそばパン?」
「朝の焼きそばパンは一日の始まりに必要な儀式だから」
「重い儀式だな」
「まあ今日は二個だけにした」
「十分多い」
いつも通りの軽口。
教室の窓から入る朝の光。
まだ慣れない制服の感覚。
その全部が、普通の高校生活みたいだった。
けれど俺の耳の奥では、昨日からずっと、かすかな音が鳴っていた。
チリ。
チリ。
昨日よりは弱い。
でも、消えてはいない。
「佐倉?」
四谷が顔を覗き込んでくる。
「何か顔色悪くない?」
「寝不足」
「秘密イベントの後遺症?」
「違う」
「違わない返事だな」
四谷は俺の顔をじっと見たあと、ふっと笑みを消した。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫」
「大丈夫って言うやつはだいたい大丈夫じゃない説あるけど」
「お前、意外としつこいな」
「友達だからな」
四谷はまた当然みたいに言った。
昨日も同じようなことを言われた気がする。
友達。
まだ出会って三日目だ。
普通なら少し重い言葉のはずなのに、四谷が言うと妙に軽くて、妙に断りづらい。
「何かあったら言えよ」
「考えとく」
「それ、だいたい言わないやつの返事」
「昨日も聞いた」
「大事なことは何度でも言うタイプだから」
四谷はそう言って、自分の席へ戻っていった。
俺は鞄を机に置き、何となく窓の外を見る。
校庭では、朝練を終えた運動部の生徒たちが片付けをしていた。
何人かの女子が笑いながら廊下を歩いていく。
黒板には、昨日の白瀬先生の文字がまだ少し残っていた。
後悔しない選択なんて、たぶんありません。
入学式の日に聞いた言葉が、ふいに頭をよぎる。
昨日の一ノ瀬も、後悔しない選択をしようとしていたのだと思う。
相川を傷つけないように。
絵を嫌いにさせないように。
未来で責められないように。
でも、そのために相川の気持ちを勝手に決めてしまった。
未来を知ることと、正しい選択をすることは、たぶん違う。
そんなことを考えていた時だった。
「佐倉くん」
声をかけられ、振り返る。
雨宮紬が立っていた。
朝の光の中で見る彼女は、昨日の旧校舎で見た時よりずっと普通の高校生に見えた。
でも、目だけは違う。
何かを知っている人の目。
何かを隠している人の目。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日、大丈夫だった?」
「どの部分の話?」
「耳の音」
俺は一瞬、返事に詰まった。
雨宮は、俺が耳鳴りのようなものを感じていることまで分かっているらしい。
「……まだ少し鳴ってる」
「そっか」
雨宮は小さく頷いた。
「じゃあ、まだ終わってないね」
「やっぱり、そういうことなのか」
「うん」
「昨日、一ノ瀬と相川は話せた。未来も変わったように見えた。それでも終わってないってことは、他に何かあるのか?」
「たぶん」
「たぶんばっかりだな」
「ごめん。でも本当に、全部分かってるわけじゃないの」
その言い方は、嘘には聞こえなかった。
雨宮は七不思議について知っている。
でも、すべてを見通しているわけではない。
未来を知っていても万能じゃない。
それは、一ノ瀬の件を見ていれば分かる。
「放課後、美術室に行くつもり?」
雨宮が聞いた。
「行かない方がいいか?」
「ううん。行った方がいいと思う」
「じゃあ聞くけど、なんで?」
「佐倉くんにしか見えないものがあるから」
「便利に使うな」
「便利だとは思ってないよ」
雨宮はすぐに言った。
その声が思ったより真剣だったので、俺は少し黙る。
「見えるって、たぶんしんどいことだから」
「……」
「でも、見える人が見なかったことにすると、もっとしんどいことになる」
「雨宮は、そういうのも経験済みなのか?」
雨宮は答えなかった。
けれど、沈黙が答えみたいだった。
チャイムが鳴る。
ホームルームの始まりを告げる音。
雨宮は自分の席に戻っていった。
その背中を見ながら、俺はまた小さな音を聞く。
チリ。
チリ。
まだ何かを後悔している。
*
放課後の美術室には、一ノ瀬澪と相川莉子がいた。
二人は昨日よりも近い距離で、同じ机にスケッチブックを広げている。
昨日、あれだけ泣いて怒っていた相川は、今日はもう普通に一ノ瀬へ文句を言っていた。
「だから、ここ薄くない?」
「薄い?」
「澪ってさ、上手いんだけど、たまに自分の絵を信用してないよね」
「それ、莉子に言われると複雑」
「何で?」
「勢いで全部押し切る人に言われても」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「じゃあ半分怒る」
そんな会話が聞こえてくる。
昨日の張り詰めた空気は、もうない。
完全に元通りとはいかないのかもしれない。
でも、二人はちゃんと同じ机に向かっている。
それだけで十分な気もした。
なのに。
チリ。
音は、まだ鳴っている。
「佐倉くん」
一ノ瀬が俺に気づいて顔を上げた。
昨日よりも表情が柔らかい。
「あ、雨宮さんも」
相川もこちらを見て、手を振る。
「昨日はどうも。盗み聞きの人」
「その覚え方やめてくれ」
「じゃあ、美術室乱入の人」
「悪化してる」
相川は楽しそうに笑った。
一ノ瀬は少し申し訳なさそうに目を伏せる。
「昨日は、ありがとう」
「俺は別に」
「佐倉くんが入ってこなかったら、たぶんもっと変なこと言ってた」
「それは相川さんに言った方がいい」
「もう言った」
「五回くらい謝られた」
相川が指を五本立てる。
「で、五回目くらいでしつこいって言った」
「謝るしかなかったから」
「だから次は謝る前に話して」
「うん」
二人の会話を聞いて、胸の奥が少し軽くなる。
昨日見た未来は、少なくともそのままの形では起きない。
そう思えた。
でも、音は止まらない。
「佐倉くん」
雨宮が俺を見る。
何か見える?
そう聞かれている気がした。
俺は古い姿見へ視線を向ける。
美術室の窓際に置かれた鏡。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ光。
鏡の中には、現実と同じ美術室が映っている。
一ノ瀬と相川。
机の上のスケッチブック。
窓から差し込む夕日。
何もおかしくない。
そう思った瞬間。
鏡の中の俺だけが、そこにいなかった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
鏡を見直す。
現実では、俺は雨宮の横に立っている。
でも鏡の中には、雨宮だけが映っていた。
俺の立っている場所には、誰もいない。
いや、正確には、空白がある。
そこに誰かがいるはずなのに、世界がその部分だけを塗りつぶしているような空白。
「佐倉くん?」
雨宮が声をかける。
俺は答えられなかった。
鏡の中の空白から、目が離せない。
チリ。
チリ。
音が強くなる。
次の瞬間、鏡の中の景色が変わった。
美術室ではない。
夕方の廊下。
旧校舎の窓。
床に落ちた一枚の紙。
紙には、何かが書かれている。
文字は滲んでいて読めない。
ただ、一つだけ分かった。
それはコンクールの出品申込書だった。
紙の上に、赤い絵の具が落ちる。
いや。
絵の具じゃない。
赤い何か。
胸の奥が冷える。
鏡の中で、誰かが息を呑んだ。
顔は見えない。
でも、その声だけが聞こえた。
『どうして、私じゃないの』
女の子の声だった。
相川ではない。
一ノ瀬でもない。
知らない声。
そして次の瞬間、鏡の中に映った申込書が、ぐしゃりと握り潰された。
映像が途切れる。
「佐倉くん!」
雨宮の声で、我に返った。
気づくと、俺は鏡に向かって一歩近づいていた。
雨宮が俺の袖を掴んでいる。
一ノ瀬と相川が、心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫?」
一ノ瀬が聞く。
「……今」
俺は鏡を見る。
もう何も映っていない。
いや、現実と同じ美術室が映っているだけだ。
今度は、俺の姿もちゃんと映っている。
「何か、見えたの?」
相川が不安そうに聞く。
俺は答えに迷った。
昨日までなら、こんなことを言っても信じてもらえないと思っただろう。
でも、少なくとも一ノ瀬は鏡を見ている。
雨宮は七不思議を知っている。
相川も昨日の出来事を見ている。
もう、全部を隠す方が不自然だった。
「申込書が見えた」
「申込書?」
一ノ瀬の顔が強張る。
「コンクールの?」
「たぶん。それと、知らない女子の声がした」
「何て?」
「どうして、私じゃないの、って」
美術室が静かになった。
相川が眉をひそめる。
「私じゃないよ、それ」
「分かってる。声が違った」
一ノ瀬はスケッチブックを閉じた。
「他にも、誰かが関係してるってこと?」
「たぶん」
雨宮が呟く。
「鏡は、一ノ瀬さんだけの後悔を映してるんじゃないのかもしれない」
「どういうこと?」
相川が聞く。
雨宮は鏡を見つめる。
「未来を映す鏡は、その人が恐れている未来を映す。でも、未来って一人分だけでできてるわけじゃないから」
「つまり?」
「一ノ瀬さんが未来を避けようとすると、相川さんの未来が変わる。相川さんの未来が変わると、別の誰かの未来も変わる」
「連鎖するってことか」
俺が言うと、雨宮は頷いた。
「たぶん」
また、たぶん。
でも今度は少しだけ分かる気がした。
昨日、一ノ瀬がコンクールを辞退しようとしたことで、相川の未来が変わった。
そして今度は、二人が一緒に出ることを選んだことで、別の誰かの未来が変わろうとしている。
未来は、一人だけのものじゃない。
だからこそ、ややこしい。
「その知らない女子って、誰だろ」
相川が考え込む。
「美術部の一年?」
「可能性はある」
一ノ瀬が言う。
「仮入部で、何人か来てた。私たち以外にも、コンクールに出たいって言ってた子がいる」
「名前は?」
「覚えてる範囲なら」
一ノ瀬は机の上に置いてあった仮入部名簿を取り出した。
そこには十数人の名前が並んでいる。
俺は名簿を覗き込んだ。
名前だけ見ても、何も分からない。
でも、一つの名前に視線が止まった。
なぜかは分からない。
ただ、その名前の上だけ、インクが少し滲んで見えた。
「これ」
俺は指で示す。
名簿の中ほど。
そこに書かれていた名前。
「二階堂、真琴?」
相川が読み上げる。
「知ってる?」
一ノ瀬は少し考えてから頷いた。
「一回だけ話した。すごく静かな子。絵は見てないけど、コンクールに出たいって言ってた」
「二階堂……」
俺はその名字に引っかかった。
どこかで聞いた気がする。
いや、同じクラスに似た名前の男子がいたはずだ。
二階堂透真。ただ、同じ名字だな兄弟かな、と思っただけだった。
「佐倉くん」
雨宮が俺を見る。
「その名前、歪んで見えた?」
「少しだけ」
「そっか」
雨宮は何かを考えるように目を伏せた。
「じゃあ、たぶん関係ある」
「歪んで見えたって何?」
相川が聞く。
俺は返答に困る。
すると一ノ瀬が静かに言った。
「佐倉くんには、鏡が見せる未来の歪みみたいなものが見えるんだと思う」
「未来の歪み?」
「うまく言えないけど」
一ノ瀬は俺を見た。
「昨日も、私が見ていない未来まで見えていた」
相川は一瞬だけ不思議そうな顔をした。
でも、すぐに真面目な表情になる。
「じゃあ、その二階堂さんを探せばいいんだね」
「うん」
一ノ瀬が頷く。
俺は少しだけ驚いた。
相川の切り替えが早い。
「信じるのか?」
俺が聞くと、相川は肩をすくめた。
「昨日あれだけ変なことがあった後で、今さら信じない方が難しくない?」
「それはそうかもしれないけど」
「それに」
相川は一ノ瀬をちらりと見た。
「澪がまた一人で抱えそうだから」
一ノ瀬は何も言えなくなる。
相川は少し得意げに笑った。
「今度は勝手に逃げられる前に、私も混ざる」
「莉子」
「文句ある?」
「ない」
一ノ瀬は小さく笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
昨日、二人は確かに少し変わった。
でも、それだけでは終わらない。
七不思議は、たぶん一人だけを救えば終わるものじゃない。
誰かの後悔は、別の誰かの後悔と繋がっている。
その絡まった糸を、ひとつずつほどいていくしかないのだろう。
*
二階堂真琴は、すぐには見つからなかった。
仮入部名簿には一年四組と書かれていたが、教室にはいなかった。
同じクラスの生徒に聞くと、「今日は体調不良で早退したらしい」と言われた。
「早退?」
相川が眉をひそめる。
「タイミング悪いなあ」
「明日、改めて聞くしかないか」
一ノ瀬が言う。
けれど俺の耳には、まだ音が鳴っていた。
チリ。
チリ。
弱く、でも確かに。
何かがまだ続いている。
「佐倉くん」
雨宮が小さく言った。
「無理しないで」
「それ、今日何回目だ?流石にしつこいぞ」
「必要な回数だけ」
「便利な言い方だな」
俺がそう返すと、雨宮は少しだけ笑った。
その時、廊下の向こうから白瀬先生が歩いてきた。
片手に出席簿を持ち、いつものように淡々とした表情をしている。
「お前たち、こんなところで何してる」
「人探しです」
相川が即答した。
白瀬先生は眉を少しだけ動かした。
「入学三日目で?」
「高校生活は大げさなくらいでちょうどいいらしいので」
「それは四谷の受け売りだな」
「先生、よく分かりますね」
「うるさい生徒の言葉は覚えやすい」
先生はそう言って、俺を見る。
「佐倉」
「はい」
「顔色が悪い」
「よく言われます」
「まだ三日目だろ」
「三日目で二回くらい言われました」
「それは多いな」
白瀬先生は少しだけため息をついた。
「無理をするな」
雨宮と同じ言葉。
でも、不思議なことに。
先生の言葉には、あのチリという音がまったく重ならなかった。
一ノ瀬を見ると、音がする。
雨宮を見ると、輪郭がたまにぶれる。
鏡を見ると、頭の奥が痛む。
でも白瀬先生だけは、何もなかった。
ただ普通に、そこにいる。
普通の教師として。
「何か困っているなら、早めに大人を使え」
白瀬先生は言った。
「大人を使う?」
「そう。信用しろとは言わない。使え」
「先生がそれ言うんですか」
「言う。大人は信用するには個人差が大きすぎるが、使える場面では使った方がいい」
相川が小さく笑った。
「先生、変わってますね」
「よく言われる」
雨宮と同じ返事だった。
けれど雨宮が言った時とは違い、先生の言葉には何の揺らぎもなかった。
白瀬先生は俺たちを見渡し、最後に一ノ瀬へ視線を向ける。
「一ノ瀬」
「はい」
「美術部の顧問には話したのか」
「……まだです」
「話せ。全部でなくていい。コンクールの件で揉めているなら、顧問に相談しろ」
「でも」
「でも、で後回しにして面倒になることは多い」
先生は淡々と言った。
「後悔しない選択なんてない。だからせめて、一人で選んだふりをするな」
一ノ瀬が少しだけ目を伏せる。
その言葉は、昨日の一ノ瀬に必要だった言葉のように聞こえた。
でもなぜか、俺には雨宮にも向けられている気がした。
雨宮を見る。
彼女は先生の言葉を聞いて、ほんの少しだけ唇を噛んでいた。
「それじゃ、早く帰れ」
白瀬先生はそう言って、廊下を歩いていった。
その背中を見送りながら、相川が呟く。
「変な先生」
「でも、いい先生っぽい」
一ノ瀬が言う。
雨宮は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
白瀬先生は、普通に優しい人だ。
流石に三日目で尊敬という言葉は軽いかもしれないが、真似をしていきたいとは正直に思う。
*
その日の夜。
俺は自分の部屋で、机に向かっていた。
宿題はほとんど手についていない。
ノートの端に、無意識に四谷から聞かされた七不思議の名前を書いていた。
未来を映す鏡。
朝に戻る階段。
五時五十五分で止まる音楽室。
消える卒業写真。
もう一つの人生を思い出す保健室。
願いを叶える七月七日の屋上。
卒業式に消える人物。
書いてから、ペンを止める。
第一の七不思議は、未来を映す鏡。
鏡は一ノ瀬の恐れている未来を映した。
それを避けようとしたことで、相川の未来が変わった。
そしてさらに、二階堂真琴という別の誰かの後悔に繋がろうとしている。
これが本当にただの怪談じゃないなら。
七不思議は、七つで終わるのだろうか。
いや、そもそも。
なぜ俺には見えるのだろう。
雨宮は、俺を「見える側」と言った。
でも、彼女自身には見えないらしい。
それなのに、七不思議のことを知っている。
雨宮紬。
新入生代表。
初対面のはずなのにやたら関わる回数が多い。正直なところ四谷と過ごす時間よりだ。
そのうえ、何度も、昔から俺を知っているような言い方をする。
彼女は何者なんだろう。
考えても答えは出ない。
俺はペンを置き、椅子にもたれた。
その時、スマホが震えた。
画面を見る。
知らない番号からのメッセージだった。
『佐倉悠真くん?』
俺は眉をひそめる。
誰だ。
続けて、もう一通。
『二階堂真琴です。雨宮さんから番号を聞きました』
俺は思わず体を起こした。
二階堂真琴。
今日、仮入部名簿で見た名前。
鏡の中で、申込書と一緒に歪んで見えた名前。
さらにメッセージが届く。
『お願いがあります』
画面の文字が、なぜか少し滲んで見えた。
いや、滲んでいるのは文字じゃない。
スマホの画面に、薄く赤い何かが映っている。
絵の具のような。
血のような。
俺は息を呑む。
最後の一文が届いた。
『一ノ瀬澪さんを、コンクールに出さないでください』
その瞬間。
耳の奥で、鋭く音が鳴った。
チリ。
いい加減休ませてくれ。




