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七不思議と七人のタイムリーパー  作者: 小鳥遊
第1章「未来を映す鏡」

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2/8

第2話 未来を映す鏡


「見えたの?」


 背後から聞こえた声に、俺は振り返った。


 旧校舎の二階。

 美術室の前。

 半開きの扉の向こうには、キャンバスに向かう女子生徒と、古びた大きな鏡。


 そして、鏡の中にだけ映っていた泣き顔。


 現実の彼女は泣いていなかった。

 ただ黙って筆を動かしているだけだった。


 なのに鏡の中では、同じ顔の彼女が声もなく泣いていた。


 ――澪のせいだ。


 音なんて聞こえなかった。

 でも、鏡に映るもう一人の誰かの口がそう動いたことだけは分かった。


 振り返った先にいたのは、雨宮紬だった。


 夕日を背にしているせいで、表情は少し見えにくい。

 けれど、その声は妙に落ち着いていた。


「……雨宮?」


「ごめん。驚かせた?」


「いや、驚くに決まってるだろ。なんでここにいるんだよ」


「職員室に行こうとして、道に迷った」


「俺と同じじゃん」


 そう言った瞬間、自分でもおかしくなって、少しだけ冷静になった。


 雨宮は困ったように笑った。


「半分は本当。旧校舎の場所、確認しておきたかったから」


「確認?」


「うん」


 それ以上、雨宮は言わなかった。


 俺はもう一度、美術室の中を見る。


 キャンバスに向かっていた女子生徒が、こちらに気づいて顔を上げた。


 同学年の女子たちと同じ色のリボン。

 つまり同じ一年生。


 長い髪を後ろで一つに結んだ、静かな雰囲気の女子だった。

 制服の袖を少しだけまくっていて、指先には絵の具がついている。


「……何か用?」


 落ち着いた声だった。


 覗き見していたことに今さら気づき、俺は慌てて頭を下げる。


「すみません。職員室を探してたら道に迷って」


「職員室は本校舎の一階。ここは旧校舎」


「ですよね」


「新入生?」


「はい。一年三組の佐倉です」


「雨宮紬です」


 雨宮が俺の横で名乗る。


 女子生徒は一瞬だけ雨宮を見た。


「新入生代表の人」


「そうです」


「私は一ノ瀬澪。一年三組」


 一ノ瀬澪。


 さっき鏡の中で、誰かに責められていた名前。


 澪のせいだ。


 その言葉が、耳の奥に残っている。


 一ノ瀬は俺たちを見てから、視線を古い鏡へ移した。


「それで、本当に道に迷っただけ?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「いや、道に迷ったのは本当です」


「じゃあ、そっちの人は?」


 一ノ瀬の視線が雨宮に向く。


 雨宮は少しだけ間を置いた。


「私も、少し気になって」


「何が?」


「この美術室」


 その瞬間、一ノ瀬の表情がほんの少し硬くなった。


 俺はそれを見逃さなかった。


 雨宮もたぶん、見逃していない。


「旧校舎って、雰囲気ありますよね」


 雨宮は何でもないように続けた。


「七不思議がありそうで」


「入学初日から七不思議?」


 一ノ瀬は少し呆れたように言った。


「そういう噂、もう広まってるんだ」


「四谷が言ってた」


 俺が答えると、一ノ瀬は小さく息を吐いた。


「くだらない」


 そう言った声は冷たかった。


 でも、完全に信じていない人間の声ではなかった。


 怖いものを遠ざけようとしている声。

 俺には、そう聞こえた。


「邪魔してすみませんでした」


 雨宮が先に頭を下げた。


「行こう、佐倉くん」


「でも」


「今は」


 雨宮は短く言った。


 今は。


 その言い方に、俺は引っかかった。


 でも、一ノ瀬の前で問い詰めるわけにもいかない。


 俺はもう一度だけ鏡を見る。


 さっきまで泣いていたはずの一ノ瀬は、もう映っていなかった。

 鏡の中には、現実と同じ美術室があるだけ。


 ただ、鏡の奥の夕焼けだけが、現実よりも少し赤く見えた。


   *


 旧校舎を出たところで、俺は足を止めた。


「雨宮」


 雨宮も立ち止まる。


 放課後の校庭からは、運動部の掛け声が聞こえていた。

 さっきまであんなに静かだった旧校舎とは別世界みたいだ。


「説明してくれ」


「何を?」


「さっきの全部」


「全部って?」


「『見えたの?』って言っただろ。何が見えたと思ったんだよ」


 雨宮は、すぐには答えなかった。


 夕方の風が、彼女の髪を揺らす。


「佐倉くんには、何が見えたの?」


「質問に質問で返すなよ」


「ごめん」


「謝るくらいなら答えてくれ」


 少し強い言い方になった。


 けれど、雨宮は怒らなかった。

 むしろ、申し訳なさそうに目を伏せた。


「たぶん、私が言うより、佐倉くんが見たものを先に聞いた方がいいと思った」


「……鏡の中で、一ノ瀬が泣いてた」


 言ってから、自分の言葉の異常さに気づく。


 鏡の中でだけ泣いていた。


 そんな話、普通に考えれば頭がおかしい。


 でも雨宮は笑わなかった。


「他には?」


「もう一人の誰かが、一ノ瀬を責めてた」


「何て?」


「澪のせいだ、って」


 雨宮の表情が変わった。


 ほんのわずかに。


 でも確かに、彼女はその言葉に反応した。


「知ってるのか?」


「知らない」


「本当に?」


「本当に。佐倉くん。あのね」


「何」


「この学校の七不思議は、本当にある」


 雨宮は静かに言った。


 それは、冗談の声ではなかった。


「でも、幽霊とか呪いとか、そういうものじゃないと思う」


「じゃあ何なんだよ」


「たぶん、後悔」


「後悔?」


「うん。強い後悔が、時間に傷をつける。その傷が、七不思議みたいな形で残る」


 意味は分からない。


 分からないのに、完全には否定できなかった。


 鏡の中で泣いていた一ノ瀬。

 耳の奥で鳴った、針のような音。

 そして雨宮の、妙に遠い目。


 それらが、彼女の言葉とどこかで繋がってしまう。


「あの鏡は?」


「第一の七不思議。未来を映す鏡」


「未来?」


「正確には、未来の可能性。たぶん、その人が一番恐れている未来が映る」


「一番恐れている未来……」


 一ノ瀬が泣いていた未来。

 誰かに責められていた未来。


 あれが、一ノ瀬の恐れている未来だというのか。


「雨宮にも見えたのか?」


「私は見えない」


「じゃあ、なんでそんなこと知ってるんだよ」


 雨宮は口を閉じた。


 答えない。


 答えられない、というより、答えたくないように見えた。


「全部は、まだ言えない」


「まだ?」


「うん。まだ」


「なんで」


「佐倉くんが、信じてくれるか分からないから」


「さっきの見た後で、何を信じないって言うんだよ」


「それでも」


 雨宮は俺を見た。


 その目は、初対面の相手に向けるには深すぎた。


「信じてもらえなかったことって、残るんだよ」


 言葉の意味は分からなかった。


 でも、その声に含まれた痛みだけは分かった。


「……分かった」


「え?」


「全部言えないなら、言えるところだけでいい」


 雨宮は少し驚いた顔をした。


「怒らないの?」


「怒ってる」


「怒ってるんだ」


「そりゃそうだろ。意味分からないし」


 俺は旧校舎の方を見た。


「でも、見たものを見なかったことにはできない」


 雨宮は黙った。


 それから、小さく笑った。


「佐倉くんは、そう言うと思った」


「またそれ」


「ごめん」


 今度の「ごめん」は、少しだけ泣きそうに聞こえた。


   *


 翌日。


 俺は朝から、昨日の美術室のことが頭から離れなかった。


 黒板の文字を写していても、鏡の中の一ノ瀬の泣き顔がちらつく。


 未来を映す鏡。


 馬鹿げている。

 そう思いたいのに、見てしまったものが消えない。


 昼休みになった瞬間、四谷が俺の机にやってきた。


「佐倉、購買行こうぜ。今日は焼きそばパン戦争の初日だ」


「初日って、嘘つくなよ。しかも俺、今日弁当な」


「高校生活において購買初日を逃すのは大きな損失だぞ」


「毎日大げさだな。俺の話聞いてた?」


「人生は大げさなくらいでちょうどいい」


 四谷はそう言って、俺の弁当を覗き込んだ。


「それ、誰が作ったの?」


「母親」


「いいなー。俺なんか朝から焼きそばパン三つ買う計画しかない」


「計画性があるようでないな」


 そんな話をしていると、教室の前方が少しざわついた。


 見ると、一ノ瀬澪が教室の入口に立っていた。


 一年三組のはずの彼女が、二組に来る理由はない。


 クラスの何人かが不思議そうに見る中、一ノ瀬はまっすぐこちらへ歩いてくる。


 いや。


 正確には、俺ではなく雨宮の席へ。


「雨宮さん」


 雨宮が顔を上げた。


「昨日のこと、誰かに話した?」


「話してないよ」


「本当に?」


「うん」


 一ノ瀬は雨宮を見つめる。


 その顔には、昨日よりはっきりとした焦りがあった。


「じゃあ、なんで」


「何かあったの?」


 一ノ瀬は一瞬だけ口を閉じる。


 周囲の視線を気にするように、声を落とした。


「鏡に、また映った」


 雨宮の表情が変わる。


 俺は思わず立ち上がりかけた。


 四谷が横で首をかしげる。


「鏡?」


「何でもない」


 雨宮がすぐに言った。


 けれど、一ノ瀬は俺の方を見た。


「佐倉くんも、来て」


「俺?」


「昨日、見えてたんでしょ」


 教室の空気が一瞬止まった。


 四谷が俺と一ノ瀬を交互に見る。


「え、何? 佐倉、入学二日目で三組の女子と秘密イベント発生?」


「違う」


「違わない空気だけど」


「違う」


 二回言ったが、四谷はにやにやしていた。


 雨宮が立ち上がる。


「佐倉くん、行こう」


「……ああ」


 俺は弁当を閉じた。


 教室を出る直前、四谷が小声で言った。


「何かあったら呼べよ」


 冗談っぽい言い方だった。


 でも、その目だけは少し真面目だった。


「ああ」


 俺は短く返した。


   *


 旧校舎へ向かう廊下で、一ノ瀬はほとんど喋らなかった。


 雨宮も何も言わない。


 俺だけが、妙に落ち着かない気分で二人の後ろを歩いていた。


 美術室に近づくにつれて、またあの音が聞こえ始める。


 チリ。


 チリ。


 昨日よりも少し大きい。


 耳鳴りというより、何かが割れる直前の音に近かった。


「佐倉くん」


 雨宮が振り返る。


「大丈夫?」


「……たぶん」


「無理しないで」


「昨日も言ってたな、それ」


「何回でも言うよ」


 雨宮は真面目な顔で言った。


 俺は返す言葉に困る。


 一ノ瀬が美術室の扉を開けた。


 中には誰もいない。


 昨日と同じように、古い姿見が窓際に置かれていた。


 昼の光を受けた鏡は、ただの古い備品に見える。


 けれど、俺の耳の奥では音が鳴っている。


 一ノ瀬は鏡の前に立った。


「今朝、見たの」


 彼女は言った。


「私が、誰かに責められてる未来」


「誰かって?」


「分からない。でも、同じ制服だった」


 俺は昨日見た口の動きを思い出す。


 澪のせいだ。


 約束したのに。


「一ノ瀬」


 俺は聞いた。


「約束って、何か心当たりある?」


 一ノ瀬の顔がこわばった。


「なんで、それを」


「鏡に映ってた」


「……音も聞こえたの?」


「音は聞こえない。でも、口がそう動いてた」


 一ノ瀬は唇を噛んだ。


 雨宮が静かに言う。


「一ノ瀬さん。未来を見たんだよね」


「未来なんかじゃない」


 一ノ瀬は即座に否定した。


「ただの、変な幻覚かもしれない」


「でも、信じてる」


「信じてない」


「だったら、そんなに怖がらないよ」


 一ノ瀬は黙った。


 雨宮の言葉は優しいのに、逃げ道を塞ぐような強さがあった。


「何を見たの?」


 雨宮が聞く。


 一ノ瀬は鏡を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。


「美術部の仮入部で、同じ一年の子と話したの」


「うん」


「相川莉子。中学から絵を描いてる子。すごく上手い。たぶん、私より」


 その名前を口にする時だけ、一ノ瀬の声が少し揺れた。


「その子と、六月の校内コンクールに一緒に出ようって約束した」


「それが、鏡に?」


「鏡には……私の絵だけが選ばれる未来が映った」


 一ノ瀬は淡々と言った。


 でも、その指先は震えていた。


「莉子は落ちる。私は選ばれる。周りは私を褒める。でも莉子は笑ってない。私に言うの」


 彼女は小さく息を吸った。


「澪のせいだ、って」


 昨日、鏡の中で見た言葉と同じだった。


「それで?」


「それで、莉子は絵をやめる」


 美術室が静かになる。


 窓の外から、遠くの運動部の声が聞こえた。


 この部屋だけ、時間から切り離されたみたいに静かだった。


「そんな未来、嫌だから」


 一ノ瀬は言った。


「だから私、コンクールに出るのをやめようと思った」


「それ、相川さんには言ったの?」


「言えるわけないでしょ」


「でも約束したんだろ」


 俺が言うと、一ノ瀬がこちらを睨んだ。


「何も知らないくせに」


 その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。


 何も知らない。


 確かにそうだ。


 俺は一ノ瀬のことも、相川という子のことも、鏡のことも、何も知らない。


 でも。


「知らないから聞いてるんだよ」


 自分でも少し驚くくらい、自然に言葉が出た。


 一ノ瀬が目を見開く。


「未来が見えたのかもしれない。でも、それって相川さんの気持ちを聞いたことにはならないだろ」


「……」


「勝手に未来を見て、勝手に怖くなって、勝手に約束をなかったことにするのは、違うんじゃないか」


 言い終えてから、しまったと思った。


 言いすぎた。


 昨日初対面の相手に言うことじゃない。


 でも、一ノ瀬は怒鳴らなかった。


 代わりに、雨宮が俺を見ていた。


 ひどく静かな目だった。


 まるで今の言葉が、一ノ瀬ではなく自分に向けられたものみたいに。


「……佐倉くんは」


 雨宮が小さく言った。


「そういうこと、言うんだね」


「え?」


「ううん。何でもない」


 その時だった。


 チリ、と音が鳴った。


 今までで一番大きく。


 鏡の表面が、ぐにゃりと揺れる。


 一ノ瀬が息を呑んだ。


 雨宮が俺の腕を掴む。


「佐倉くん、見ない方が――」


 でも、遅かった。


 俺は鏡を見ていた。


 鏡の中に、未来が映る。


 美術室。

 夕方。

 床に散らばった絵の具。

 破れたキャンバス。


 一ノ瀬澪が立ち尽くしている。


 その前に、見知らぬ女子がいた。


 たぶん、相川莉子。


 彼女は泣いていた。


 そして、はっきりと言った。


 今度は、声が聞こえた。


『澪が出ないなら、私も出ない』


 一ノ瀬が顔を上げる。


『え……?』


『一緒に出ようって言ったじゃん。約束したじゃん』


 相川莉子の声は震えていた。


『私が落ちるのが怖いんじゃない。澪に勝てないのも、怖いけど。でも、それより』


 鏡の中で、相川は泣きながら笑った。


『澪が、私の気持ちを勝手に決める方が嫌だ』


 そこで映像は途切れた。


 鏡は、ただの古い姿見に戻る。


 美術室には、俺と雨宮と一ノ瀬だけがいた。


 一ノ瀬は震えていた。


「今の……」


 彼女はかすれた声で言う。


「今の、何?」


 俺はすぐには答えられなかった。


 雨宮も黙っていた。


 けれど、俺には分かった。


 さっき見えたのは、一ノ瀬が最初に恐れていた未来とは少し違う。


 彼女が避けようとしたせいで、新しく生まれた未来だ。


 未来を変えようとしたことで、別の後悔が作られている。


「一ノ瀬」


 俺は言った。


「相川さんと、話した方がいい」


「……」


「今すぐじゃなくてもいい。でも、ちゃんと」


 一ノ瀬は鏡を見つめたまま、何も言わなかった。


 雨宮が、俺の腕から手を離す。


 その指先が、少しだけ冷たかった。


「佐倉くん」


「何?」


「やっぱり、佐倉くんには見えるんだね」


 昨日と同じ言葉。


 でも、今度はその意味が少しだけ違って聞こえた。


「雨宮」


「うん」


「お前は、見えないんだよな」


「うん」


「なのに、なんでそんなに詳しいんだ」


 雨宮は答えなかった。


 代わりに、ひどく困ったように笑った。


 その笑顔を見た瞬間、俺は思った。


 この子は、俺に何かを隠している。


 しかもそれは、昨日今日の秘密じゃない。


 もっと長い時間をかけて、彼女の中に積もった秘密だ。


「佐倉くん」


 雨宮は、ゆっくりと言った。


「私のことは、まだ信じなくていい」


「……」


「でも、一ノ瀬さんのことは助けてあげて」


「なんで俺が」


「だって」


 雨宮は鏡を見た。


 その横顔が、ほんの一瞬だけぶれた気がした。


 高校一年生の雨宮紬と、知らない大人の雨宮紬が重なったように。


「未来を見てしまった人は、たぶん一人じゃ正しく動けないんだよ」


 その言葉は、一ノ瀬に向けたものではなかった。


 たぶん、雨宮自身に向けた言葉だった。


 俺は何も言えなかった。


 鏡の中にはもう、何も映っていない。


 けれど、俺の耳の奥にはまだ、あの音が残っていた。


 チリ。


 チリ。


 誰かの後悔が、まだ終わっていない音がした。


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