第1話 『上を向いて歩こう』
1926(大正15/昭和元)年12月25日。
不安や寒さで痛めつけられた体を休ませてから、4人が外を散歩し始めたのは、その日の夕方近くなった頃だった。
昭和初日の大久保町には木造家屋が立ち並び、舗装の悪い道に雪が積もっている。行商人の声、下駄で雪を踏む音、下水や馬糞や煙草の匂い。様々な要素に、令和のその場所とは違う空気が感じられた。
大通りには馬車や乗合タクシーに混じり、真新しいバスも行き交っている。結構意外だったのは、当時から中央線には4両、山手線には5両の「電車」がしっかり走っていたことだ。
人々の服装はというと、時折見かけるスーツ姿の男性を除けば、見かける人々のほとんどが和装だった。
4人の服装はすこぶる異質だったので、誰もが注目した。街行く人々や子どもたちからは、外国帰りなのか、どこの国から来たのかをしつこく尋ねられた。4人の誰もアメリカに行ったことは無かったが、アメリカ帰りだということにすると皆が納得した。少なくとも、まだアメリカが敵国ではない時代だったようで良かった!
とはいえ、警察から詳しく職務質問され、身元不明者として連行されるのも時間の問題かもしれないとも思えた。目立たない服を手に入れる必要がありそうだ。
もっと大きな問題は食べ物だった。4人がタイムスリップした例の建物には食べるものが置いておらず、お金も壱圓札(一円札。日本神話の人物・武内宿禰が描かれている)1枚しか見つからなかった。
当時の物価でも、1円では4人の1日分の腹を満たすにも不十分だった。
例の建物、というやつがまた、謎な存在だった。場所は紛れもなく、大久保駅前の、2026年に深夜喫茶がオープンした雑居ビルが建つその場所だったが、外観は昭和元年の世界に馴染んだ木造の小さな平屋で、正式な持ち主がいるのかどうかも分からなかった。正式な持ち主がいた場合、戻っても、侵入罪や、1円を盗難した罪で捕まるおそれがあるかもしれなかった。
「あんた達、どこから来たァ!?」
この時代の女性には珍しく洋服を着た、小太りのおばさん――よく見ると外国人っぽい顔をしている――に指を差される。
「ア…アメリカから来ました!」
「アメリカでそんな服は見たこと無いわ?芸人か何かじゃないの?」
「ア…浅草の一座の者ですよ…」と拓哉。
「浅草でも見たこと無いわ?」おばさんは容赦ない。
薄暗い、立ち食い蕎麦屋の店先。雪混じりの風。
赤提灯の灯りに照らされたその女性は、年齢で言えば五十前後くらいだろうか。髪はうっすら茶色がかって、無造作にまとめられている。臙脂色の洋装の上に、大きな外套を羽織っていた。頬は酒で赤く、片手には徳利がぶら下がっている。
「兄ちゃん、それ、ギターでしょう?何か弾けるの?」
「……まあ」
「浅草じゃないけど、聴かせなさいよ」
連が黙っていると、「まあ、この状況で『出来ません』は無いよね……」となぜかみどりが追い打ちをかけてくる。
「おばちゃん、この時代で洋服って珍しいよね。外国の人?」と舞。
「この時代?」とおばさん。
一瞬、空気が止まり、4人は顔を見合わせた。
「あっ……いや、その……日本じゃって意味で!」と舞。
「……まあいいわ。面白いから」
おばさんはそう言って、徳利を蕎麦屋の卓へ置いた。
「弾きなさいよ。蕎麦代くらい、稼げるかもしれないわよ?」
他の客達もこちらを見ていた。職人の3人組。苦学生風の青年。若い女給達。皆、「変な外国帰り」に注目している。
連はゆっくりギターケースを開けた。
店主が眉をひそめる。
「おい兄ちゃん、陛下崩御の日にそういうのは――」
「だからこそいいじゃない」
おばさんが言った。
「みんな、なんだか落ち着かない顔してる」
その言葉で、店主も店も不思議と静かになった。
連はギターを抱えた。
冷たい。
けれど、ちゃんとある。
指も動く。生きている。
連は小さく息を吸い、ジャカン、とコードを鳴らし始めた。1961年の名曲だ。
♪上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように…
連は自分のギターに合わせて歌った。
連の歌声は――腹の底から強く響く、ロックな歌声だった。
おばさんは、最初の一節で表情を変えた。客たちも蕎麦を啜る音を止め、音楽が空気を支配する。
歌が終わる頃には、誰も喋らなかった。
しばらくして。
「……何それ」
おばさんが呟く。
「日本の歌?」
「まあ……そんな感じです」
「変な歌ねえ……でも、凄くいいわ」
おばさんは、少し目を潤ませて立ち上がった。
「もし、行く当てがない時は……うちの別荘に来なさい。寝る場所くらいある」
「え?」
「その代わり」
おばさんはニヤリと笑った。
「浅草で歌いなさい」
店の奥で、誰かが小さく口笛を吹いた。
昭和元年、最初の夜。4人はすでに少しだけ、未来を持ってきていた。




