第48話「一年越しのお茶」
目が覚めると、毛布の中がもふもふだった。
……整理しよう。昨夜、私は結婚式を挙げた。宴のあと、正装を脱いだ人の姿の夫と、おやすみを言い合って眠った——はずである。なのに今、腕の中には銀色の狼がすっぽり収まっていて、満ち足りた寝息で毛布を上下させている。
満月期のルークは、人と狼を自分の気分で行き来できる。つまりこの人は、夜更けにわざわざ狼になって、毛布へ潜り込み直したのだ。
「新婚一日目の朝から、夫がもふもふ……」
呟きに、三角の耳がぴくりと立つ。毛布の裾から尻尾の先だけがはみ出して、寝ぼけたまま、ぱたりとシーツを叩いた。
窓の光は、昨日までよりすこし素直だ。満ちきった月の翌朝は、夜が出しきったぶんだけ空が明るい気がする。
腹の毛に顔を埋めて二度寝したい誘惑と戦っていると、腕の中の体温がふいに質を変えた。毛皮の感触がほどけ、重みが増し、気づけば私の腕は人の背中に回っている。
「……ローゼ」
寝起きの声は、いつもより半音低かった。間近で銀灰色の目が薄く開く。
待って。今、なんて呼んだ?
「ローゼ、って」
「呼んだ」
「初めてでしょ、あなたがそう呼ぶの。カイルさんの前で名乗った呼び名、気に入ってたの?」
「お前が、自分で選んだ名だ」
短い答えのあとに、すこし間が空いた。
「……それに、短い。たくさん呼べる」
「よ、呼ぶ回数の問題なの?」
言い返した声が裏返ったのは、不可抗力だと思う。低い声でローゼ、はずるい。新婚一日目の朝からこの調子で、この先、身がもつだろうか。
昼前、扉が景気よく叩かれた。
「新婚さん、生きてる? 祝いの続きを持ってきたわよ」
ミーナだった。腕に大きな籠。その後ろ、庭の手前に黒い巨体が伏せている。グリムだ。金色の目が、こちらへゆったり瞬きをよこした。ピートは群れで爆睡中らしい。昨日、最後まで人の姿でやり切った勇者は、まる一日眠るだろうとのこと。
そして私は、見てしまった。
グリムの首元に、深い緑の織り布が結ばれている。森の影と同じ色の、男物の大きさの布が、太い首にきちんとひと結び。
……あら。
どこかで見た色——だなんて、思っていない。私は何も見ていない。籠へ視線を戻したのに、口角だけが勝手に上がっていく。頬の内側を噛んで、堪えた。
「何にやにやしてんの」
「してません。お祝い、何かしら」
「物はやらないわよ。うちはね、祝いには物より厄介なものを渡すの」
ミーナは籠を台所へどんと置き、袖をまくった。
「秘伝の調合。今日、教えるわ」
耳を疑った。
秘伝の調合。教えてと言うたびに「もう少し仲良くなってから」とかわされ続けて、丸一年。半分冗談の合言葉になっていた、あの。
「い、いいの? 仲良くなってから、は」
「言っとくけど、出し惜しみしてたんじゃないからね。これは祝いの朝に渡すって、うちでは代々決まってるの。あんたたちが一年もぐずぐずしてるから、こっちが待ちくたびれただけ」
理不尽である。理不尽だけれど、鼻の奥がつんとした。
「ほら、湿っぽくしない。材料の一番目は、あんたの庭にあるわよ」
庭の隅で、ローズマリーが花をつけていた。一年前の春、ミーナが「あなたの名前と同じでしょう」と笑って渡してくれた、あの苗だ。
……もしかして、最初からこの日のために?
「ねえ、この苗ってまさか——」
「ほら摘む! 花のついた先を、ひと枝だけ」
講義は早口で進んだ。摘んだ枝を軽く揉んで、カップの底へ。干した野薔薇の実を3粒、匙の背で潰して加える。湯は沸かしたら火から下ろし、湯気が静まるまで待ってから、ゆっくり注ぐ。
「沸き立てだと、香りが逃げ腰になるの。慌てない。茶も人も同じ」
蜂蜜を匙に半分。そして最後に、ミーナは塩壺から小さなひと粒をつまんだ。
「塩?」
「甘いだけの茶は三口で飽きるのよ。ひと粒の塩が、甘さの目を覚まさせる。祖母に言わせれば『暮らしも同じ』だそうよ」
「……効能は? 疲れに効くとか」
「『おいしい』よ。泣いた日と、眠れない夜と、めでたい朝のための茶。それ以上の効き目は薬草に任せなさい。薬師の言うことじゃないけど」
慎ましい秘伝だった。万能薬なんかじゃ、全然ない。なのにカップから立つ湯気は花と蜜の匂いがして、胸の真ん中があったかい。
「それと、最後の決まり。——最初の一杯は、ふたつに分けないこと」
「分けない?」
「ひとつのカップで、ふたりで飲むの。これはそういう茶。だからね、家族のいない相手には、教えようがなかったのよ」
仲良くなってから。一年引っ張られた言葉の中身が、やっと見えた。足りなかったのは仲の良さじゃなくて、隣の席だったのだ。
「ミーナ……」
「はい、講義終わり! 礼は要らないわ。茶葉代は、そのうち薬草仕事で払いなさい」
ミーナは空にした籠を抱えて、さっさと戸口へ向かってしまう。耳が、ほんのり赤かった。
帰り道、グリムが立ち上がって、ミーナの隣に並んだ。月に一度のお茶の客は、いつのまに送り迎えの係になったんだろう。深緑の布が、木漏れ日の下で森の色に溶けていく。
聞かない。聞かないまま、ふたつの背中を見送った。
午後、習いたての手順をなぞった。
ローズマリーをひと枝、野薔薇の実を3粒。湯気が静まるのを待つあいだが、思いのほか長い。慌てない、茶も人も同じ。蜂蜜を半匙、それから塩をひと粒。
暖炉の前のルークに、カップをひとつだけ差し出した。
「ふたつに分けちゃいけないんだって。最初の一杯は」
ルークはカップを受け取り、ひと口含んで、すこし黙った。
「甘い。……最後に、ほんのすこし強い」
「それが秘伝。はい、交代」
戻ってきたカップは、彼の手の熱で温め直されていた。同じ縁に口をつける——意識した途端に顔じゅうが熱くなったのは、湯気のせいにしておく。花の香りの奥で蜜の甘さがふわりと広がって、最後にひと粒の塩が、ちゃんと目を覚まさせにくる。
「おいしい」
「ああ」
「一年待った味だもの」
カップが空になるまで、ふたりで何度も行き来させた。縁の同じところがすこしずつ温くなって、どちらの飲み口だったか、もう分からない。
「ねえ、ルーク。明日は何をする?」
「いつも通りだ」
短い返事が、どんな祝辞より祝いの言葉に聞こえる。薬草を干してパンを焼いて、群れに薬を届けて、夜は暖炉の前。その「いつも通り」の席に、昨日から夫がいる。
空になったカップの底で、花の名残がひと枝、静かに揺れていた。




