第47話「狼でも、人でも、誓う」
式は、灯りだけで始まった。
空にはまだ雲の蓋。月のあるはずのあたりが、薄く明るんでいるだけの夜だ。それでも儀式の草地は、焚き火と村から借りた燭台の火で、橙色にあたたかく持ち上がっていた。
昨夜、狼の環ができたのと同じ場所に、今夜は人間も並んでいる。
ミーナ。仕立屋のお婆さん。皿と杯を届けてくれた村の人たち。その隣に——本当に地続きの隣に——グリムの黒い巨体と、群れの狼たちが伏せている。琥珀の目と人間の目が、同じ向きに並んで私たちを見ている。狼と人が、ひとつの式の客になっている。一年前のこの森では、考えられなかった眺めだ。
風は、強くなってきていた。
燭台の火が、ときどき同じ向きへ倒れる。ミーナはさっきから何度も空を見上げては、口の端で笑っている。
花を運ぶ役が、進み出た。
灰銀の髪の、小さな男の子。ミーナが裾を詰めた白い上着を着て、両手で花束を捧げ持ち、一歩ずつ歩いてくる。歩幅は狭く、表情は決死。途中で一度よろけて、見守る狼たちの尻尾がそろって浮いた——が、持ち直した。
「おはな、です。おめでとう、ございます」
練習したのだろう口上を舌足らずに言い切って、ピートは花束を私の腕に預けた。本番まで人化を取っておいた甲斐あって、今夜の人の姿はしゃんとしている。お婆さんが早くも洟をすすった。気が早い。でも、分かる。
ミーナが進行役の声を張る。
「誓いの言葉を」
ルークが、私に向き直った。
濃紺の正装に、結い上げた銀の髪。銀灰色の目が、灯りを集めたみたいに明るい。来る、と分かった。あの直球が来る。
「ローゼマリー。狼の日も、人の日も、俺はお前の隣がいい」
「健やかな日は隣で、病める日は治るまで隣で。何も変わらない。——以上だ」
型はひとつも守られていなかった。なのに過不足が、どこにもない。客席でミーナが「短っ」と呟き、お婆さんが「あれでいいんだよ」と返している。私もそう思う。
次は、私の番だ。
台本はない。歯型のついたあの紙は、家に置いてきた。本気の言葉は本番に取っておくんだろう——そう言って、この人は満月の夜まで待ったのだから。
息を吸う。草と、夜の湿りと、腕の中の花の匂い。風がまた強くなって、ヴェールの裾がふわりと浮いた。
「ルーク。私ね、あなたを拾った日から——」
言いかけて、もう目の奥が熱い。早い。早すぎる。まだ一行目なのに。
「拾った日から、世界があったかいの。狼のあなたがいる朝も、人のあなたがいる夜も、ずっと」
声が揺れる。視界が滲む。それでも止めない。練習しなかった言葉は、つっかえても全部ほんとうだ。
「だから誓います。狼でも、人でも。どっちのあなたとも、一生——」
そのときだった。
風が、来た。
草地をひと撫でで渡っていく、大きな風。燭台の火がいっせいに伏せ、梢が鳴り、頭上で雲の動く気配がした。薄明るい染みが裂け目に変わり、裂け目が割れて——
月が、出た。
満ちた月の光が、草地へ滝のように落ちてくる。狼たちの毛並みがまとめて銀をかぶり、正装の銀髪が、灯りとは桁の違う光に照らされた。一年前のあの夜と、同じ月。あのときこの光の下には、二人きりだった。今夜は、みんないる。
ミーナが胸を張って、空を指した。
「ね。夜半に風が変わるって、言ったでしょう」
「言いました。疑ってごめんなさい。——一生、隣にいます。誓います」
涙声のまま、月の下で最後まで言い切った。
首飾りの交換は、指輪の代わりだ。
ミーナの捧げる盆の上に、ふたつ並んでいる。ルークの作は鏡みたいな艶の月長石。私の作は、面のすこし波打った不揃いの石。月の光を受けて、どちらの芯にも青白い灯がともっていた。
腰を屈めたルークの首に、私の作った方を掛ける。それから私が頭を下げて、ヴェールの上から精巧な方を掛けてもらった。胸元に、こつんと小さな重さ。牙の先が肌に触れて、すこしくすぐったい。
ルークは自分の胸元を見下ろし、不揃いな石を指先で持ち上げた。
「……こっちがいい」
「出来は、そっちのが断然上よ」
「お前が磨いた。こっちがいい」
理屈はめちゃくちゃで、反論は不可能だった。
グリムが金色の目を細め、夜空へ首を伸ばす。
長い一声を合図に、群れの遠吠えが立ちのぼった。そこへ人間の拍手が重なる。お婆さんの割れた手拍子もミーナの指笛も、狼の声と同じ夜に混ざって、ひとつの祝いになっていく。遠吠えと拍手が同じ式で鳴る夜なんて、世界中探したって、きっとここだけだ。
ふ、と足元で光がほどけた。
白い上着がしぼんで、襟から灰銀の毛玉が転がり出る。ピートだ。駆け寄って抱き上げると、子狼はもう目を閉じていて、それでも口の端は得意げに緩んでいた。役目を最後までやり切って、それから戻った。眠りに落ちる寸前まで立っていた小さな足の裏が、まだ温かい。
花束の横に抱き直すと、胸元ですうすうと寝息が始まる。月光を浴びた毛玉と花束を、片腕ずつに抱えた花嫁の完成だ。
祝いの輪は、まだ続いている。
その騒がしさのまん中で、私はルークを見上げた。
「ルーク」
「何だ」
「私のしっぽ、今動いてるか?」
一年前、月の下でこの人がくれた問いを、今夜は私から。ルークは私の背中を見もせずに、即答した。
「ああ。式のあいだじゅう、揺れている」
「見えないでしょ」
「見えなくても分かる。毎日見てきた」
返す言葉が見つからない。あの夜、私があげた答えだ。見えないしっぽは、もうこの人ひとりのものじゃない。私の背中にも一本、生えてしまったらしい。
月は高く、群れの毛並みは銀色に光っている。胸元の石の芯で、青白い光がゆっくり揺れる。お前と最初に見た夜の月——そう言って磨かれた色に、今夜の月がようやく追いついた。
朝が来ても、狼に戻っても、この人は隣にいる。そう誓って、誓われた夜だった。




