第46話「曇り空の花嫁」
式の日の朝は、灰色だった。
群れと眠った草地で目を開けると、空に月どころか太陽の在り処さえ見えない。厚い雲が、森の上に蓋をしている。
そして焚き火の脇には、人の姿のルークが薪をくべていた。夜明けと同時に戻ったという。雲の下でも、満月は満月。月が見えようが見えまいが、この人の中の月はちゃんと満ちるのだ。そこは何ひとつ揺らがない。
揺らいだのは、式の方だった。
「『月光の下で誓う』のが、狼族の式なのよ」
小屋に駆けつけたミーナが、空を睨んで腕を組む。群れの長老たちは朝から落ち着かないらしく、儀式の場を検分に来たグリムまで、何度も空を見上げては鼻を鳴らしていたという。誓いそのものは成り立つ。ただ、月のない夜空に誓うのは、屋根の抜けた教会で式を挙げるようなもの——体裁が立たないのだ。
「延期……は、できないんでしょうね」
「満月は今夜だけ。けど安心なさい」
ミーナは自分の膝を2回叩いた。
「この膝が、朝から軽い。雨あがりの印よ。それに見てごらん、裏返ってた薬草の葉がもう表に戻ってる。山の頂の雲も東へ流れはじめた。夜半には風が変わる。雲は割れるわ」
「……ほんとに?」
「薬師の天気読みを疑うの? 外したことは数えるほどしかないわ」
数えるほどは、あるんだ。心の中だけで言って、私は袖をまくった。降っても曇っても、今夜やる。決めたら支度だ。
ところがもうひとり、朝から雲行きの怪しいのがいた。
「れんしゅう、しておく! ほんばんで、にんげんになれなかったら、こまるもん!」
ピートである。人の姿で花を運ぶ大役を前に、朝のうちに人化の予行をすると言い張って聞かない。
「だめ! あんたの人化は半日が限界なの。朝に使ったら、夜が空っぽになるでしょ」
「でも! でもぉ!」
「本番までとっておきなさい!」
ミーナと私で挟み撃ちにして、ようやく観念した子狼の尻尾は不安でぼんっと膨らんでいた。たわしみたいになったそれを撫でて宥める。大丈夫。あんたの声、昨日の夜ちゃんと届いてたから。
昼からは、戦場だった。
竈では祝いの肉が煮えて湯気の匂いが満ち、村から借りた皿と杯が荷車で届き、ミーナの号令が飛ぶ。運搬は群れの仕事だ。花を摘んだ籠を狼たちが一つずつ咥え、儀式の場まで一列で運んでいく。灰色の背中の行列が花を揺らして森へ消える眺めは、何度見送っても見飽きない。祝祭と、もふもふの行進。
ピートも運搬班に志願した。したのだが、張り切りすぎて花籠ごと斜面を転がり、頭から花弁を浴びて帰ってくる。花まみれの子狼は、それはそれで縁起がよさそうだったので、笑いながら払ってやった。
鍋が吹き、皿の数が合わず、花が一籠ひっくり返り——その騒ぎの真っ最中だった。
小屋の戸が、開いた。
音が、消えた。
濃紺の正装に、銀の髪。襟元を留めながら出てきたルークが、敷居の上で顔を上げる。鍋の前のミーナも皿を数えていた私も、花をくわえ直していた狼までが、一拍止まった。
仕立てのいい肩の線。長い指がいちばん上のボタンを留め終えて、所在なげに下りる。雲の下の鈍い光でこれなら、月の下に立ったらどうなってしまうのか。
「……なに。変か」
「変じゃない。変じゃないけど……」
「町で一番の仕立てよ。当然でしょ」
ミーナが鼻で笑って、お玉を振った。あの糸の匂いの濃い店のお婆さん、いい仕事をしすぎである。
私の番は、夕方に来た。
クローゼットの左は私の服、右はルークの服。一年かけて増えたその左右の間に、今日は白いドレスと濃紺の正装が並んで掛かっていた。濃紺は昼のうちに持ち主の肩へ移り、真ん中に残るのは、まっさらな白。
ミーナに着付けられ、編んだ髪に花を挿してもらう。鏡代わりの磨いた銅盆の中で、見慣れない花嫁がこっちを見ていた。
「目を閉じて」
頬に白粉をはたく手が、ふと、ゆっくりになる。薬を量るときの正確な手じゃない。子どもの熱を確かめるような手つきで、ミーナは最後に私の襟元を直した。
「……きれいよ。ほんとに」
それだけ言って、すぐ「ほら立つ!」といつもの号令に戻る。目の縁が赤かったことは、言わないでおいてあげる。
仕上げのヴェールは、ルークの役になった。ミーナがそういう采配をしたのだ。わざとに決まっている。
薄い布が私の頭にのせられ、銀灰色の目が真剣に位置を測る。布の縁を整える長い指が——震えていた。
「……緊張してるの?」
「していない」
即答した指先が、ヴェールごと私の髪を一房落とした。拾い直す手も、やっぱり震えている。私は笑いを噛み殺して、されるがままでいてあげた。誓いの練習では毎回こっちを先に陥落させた人が、布一枚に大苦戦している。今夜の式、案外いい勝負かもしれない。
「……綺麗だ。月が出なくても、困らないくらい」
不意打ちは、やめてほしい。陥落したのは結局、布をかぶった私の方だった。
戸口を出ると、西の森が暮れはじめていた。
雲はまだ厚い。銅盆みたいな空の下、それでも梢の鳴る向きが、朝とは変わっている。頬で風を確かめたミーナが、にやりとした。
「ね。変わりはじめた」
日没まで、あと少し。月はきっと、間に合う。




