第45話「言葉のない式」
番の儀の朝は、ミーナの小言で始まった。
「ひどい目元。眠れなかったのね」
「……3回くらい、寝た気はする」
「それは寝てないって言うのよ。花嫁が隈を作るんじゃありません」
井戸の水で絞った布を目元に当てられて、されるがまま椅子に沈む。断罪の前の晩でさえ平気で眠れた私が、緊張で寝返りばかり打つなんて。布の冷たさの向こうで、ミーナの笑う気配がする。
「ねえ、私は何をすればいいの。誓いの言葉も指輪もない式で、花嫁は何を」
「何も。向こうの正装は毛皮一枚なんだから、こっちも体ひとつでいいの。真ん中に立ってれば、あとは群れがぜんぶやってくれるわ」
人間の式の支度ではあれだけの大騒ぎだったのに、狼の式は当日になっても、私に何ひとつ要求しない。
日が沈むと、迎えが来た。
銀色の狼が一頭、扉の前に座っている。番の儀は、群れの全員が狼の姿で行う——それが掟だ。だから今夜のルークは、人になれる夜でも狼のまま。それでいい。今夜の式は、その姿のあなたと挙げる式だ。
森を行く道は明るかった。あとひと晩で満ち切る月が梢の間から差して、前をゆく毛並みに細かな銀をまぶしている。月前夜の毛は月の色になる——見送りの戸口でミーナが言ったとおりだった。歩くたび、大きな背中をさらさらと光が流れる。
儀式の場に着いて、息を呑んだ。
草地のまわりに、群れの全員が座っていた。
灰色も茶色も、年寄りも子狼も、ひと足分ずつ間を空けてぐるりと環になっている。誰も鳴かない。誰も動かない。何十もの琥珀の目だけが、月あかりの底で静かに灯っていた。環の外、木立の際に、ミーナの掲げる灯りがひとつ。人間の見届け人は、あそこまでと決まっているらしい。
群れの足で踏み固めた輪の道が、内側の草地を白く囲っている。
ルークが先に立ち、その中心まで私を導いた。それから離れていく。振り向きもせず環の縁まで戻って、群れの列に加わった。
真ん中に、私ひとり。
森じゅうの狼に囲まれて、人間がひとり。なのに心細さは、不思議なくらい湧いてこなかった。囲む琥珀のどれひとつ、余所を向いていないからだと思う。
黒い巨体が、音もなく立ち上がる。グリム。金色の目が環をひと巡り見渡して——群れが、動き出した。
歩くのだ。輪の道を、全員で。
昨日この足たちが踏んで作った道を、今夜は私を真ん中に置いて回っていく。土を踏む爪先の音、すれ違う毛と毛の擦れる音。回るものの気配だけが、ゆっくり私の周りを流れる。風がひと巡りするたび、獣のあたたかい匂いがふわりと届いた。歩いた足の数だけ深くなるという祝福が、いま私を芯にして、もうひと回り編み足されていく。
声は、ひとつもない。
それなのに、これ以上ないほど語られている。
群れが止まった。環が静まる。
銀色だけが、列を離れた。
ルークがまっすぐ、中心まで歩いてくる。月前夜の毛並みが一歩ごとに光をこぼし、琥珀の目は、最初から最後まで私から動かない。
目の前で止まると、彼は少しだけ首を伸ばした。
額が、私の額に当たる。
やわらかな毛皮ごし、硬い骨と、その奥の熱。
私は両手を持ち上げて、銀色の頬を包んだ。手のひらに沈む毛並みの、底のほうで脈打っている命。正面から目をつぶって、額で受ける。
——狼は、一生にひとりしか選ばない。
あの満月の夜、私はそれを言葉で聞いた。意味も分かったつもりでいた。けれど、違う。こういうことだったのだ。群れの全員が証人に立つ前で、この額はもう、生涯ほかの誰にも当てられない。やり直しのきかないたった一回を、いま額ひとつで受け取っている。指輪より軽くて、指輪よりずっと重い。
誓いの言葉は、なかった。
要らなかった。
ルークが額を離し、空を仰ぐ。
先に鳴いたのはグリムだった。長く、深い一声。昨夜聞いたのと同じ声のはずなのに、底に沈んでいた寂しさが抜けて、まっすぐな祝いだけが立ちのぼっていく。
二声、三声。環のあちこちから遠吠えが立ち、重なって、夜を満たした。真ん中でルークの声がまっすぐ空を貫く。音の輪の中心で、私は揺れる地面ごと、全身でそれを聞いた。これが拍手で、祝辞で、賛美歌なのだ。
その中に、細い声がひとつ。
ピートだ。高くて頼りない、聞き慣れた声。裏返るぞ、と身構えた——裏返らない。細いまま、震えながら、最後の最後まで伸び切った。吠え終えた子狼が、誇らしげに鼻先を下ろす。やったじゃない。喝采のただなかで、目の縁だけが熱くなる。
遠吠えは満ちて、引いて、夜に溶けた。
それで、おしまい。解散の号令もなく、狼たちは思い思いに寄り添って、草の上で丸くなっていく。今夜は群れごと、ここで眠るらしい。
私はルークの隣に横になった。
伏せた銀色の体に背中を預けると、呼吸のたび、大きな波がゆっくり私を持ち上げる。夜露で表だけひんやりした毛の、潜り込んだ内側は暖炉の前より熱い。少し離れてピートの寝息、その向こうにグリムの黒い影。輪の中で眠る体温は、数え切れないほどあった。
「……いい式だったね」
小さく言うと、尻尾が一度だけ、草の上で重たく揺れた。
明日の夜、月が満ちる。今度は私たちが、言葉で誓う番だ。




