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悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼
第二章 満月の結婚式編

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第44話「兄の遠吠え」

空に、月がない。


 新月の前後の数日、ルークは狼に戻る。声で話せない代わりに、耳と尻尾がよく喋る数日だ。そして番の儀の支度は、月を待ってくれない。私たちは昨日から、森の奥の群れの縄張りへ通っている。


 今日はミーナも一緒だった。式の支度の総監督は、狼の式のほうまで見届ける気らしい。


 儀式の場は、縄張りの真ん中の草地と決まっている。


 着いてまず目に入るのは、ぐるぐる歩く狼たちだった。灰色や茶色の毛並みが列を作り、草地の縁を同じ道筋でひたすら回る。若草が倒れ、土が締まって、草地を囲む輪の道がうっすら浮かび上がっていた。土の匂いが、ここだけ濃い。


「番の輪よ」


 とミーナ。


「群れ全員の足で輪を踏み固めて、その内側を式の場にするの。歩いた足の数だけ、祝福が深くなる——そういう習いなんですって」


 いい風習だと思う。教会の祭壇は大工さんが建てるけれど、狼の祭壇は家族の足でできている。


 列の中ほどでは、銀色のルークが歩いていた。歩いてはいるのだが、尻尾が正直すぎる。一周ごとに揺れ幅が大きくなり、前を行く年寄り狼のお尻に鼻をぶつけては、首をすくめて詫びていた。浮かれている。誰がどう見ても、花婿が浮かれている。


 その列の先頭に、ひときわ大きな黒がいた。


 グリム。群れの長にして、ルークの兄。歩く速さは正確で、黒い尻尾はほとんど揺れない。ただ、列を一周導くたび、金色の目がちらりと弟を確かめるのを私は見ていた。見られた側は、まるで気づいていない。


 昼すぎに輪の道が仕上がると、次は毛並みだった。


 番の儀の前、花婿の毛は血族が整える。それがもうひとつの習いだとミーナが言う。人間でいうところの、身支度だ。


 草地の隅でルークが伏せ、その首筋に、グリムが鼻先を埋めた。


 もつれた冬毛の名残を歯で梳き、土を払って、首から肩へ背中へ。丹念だった。じれったいほど時間をかけて、大きな黒い頭が弟の銀色を整えていく。並ぶと体格の差がよく分かる。あの背中は、弟をまるごと隠せる広さがある。


 狼の気持ちは、だいたい読める。一年と少し一緒にいれば、尻尾の角度で機嫌が分かり、耳の向きと鳴き方で用件のおおよそまで読めるようになる。いま気持ちよさそうに琥珀の目を細めている弟のほうなら、たぶん全部。


 でも、グリムは読めなかった。


 毛づくろいの途中、黒い頭がふいに止まる。口がわずかに開いて——音は、出なかった。あの日と同じだ。式を二回やると決めた日も、この人は弟に何か言いかけて、結局ひとつも音にしなかった。


 今日は、続きがあった。


 グリムはルークの鼻先を、やわらかく咥えたのだ。牙を立てない、包むだけの咥え方。母狼が子狼にするのを、私は群れで何度か見たことがある。


 一瞬だけ。すぐに離して、グリムは毛づくろいの続きに戻った。ルークの耳がぱたりと伏せられて、それきり兄弟はどちらも動かない。


 今のは、どういう意味だったんだろう。送り出す前に一度だけ、弟を子どもに戻したのか。それとも、もっと単純で深い何かなのか。読めない。読めないけれど、無理に読むものでもない気がした。兄弟にしか通じない言葉は、人間の世界にだってある。


「……男兄弟って、分かりにくいわね」


「ほんとに」


 ミーナと顔を見合わせて、人間二人だけがこっそり笑った。


 休憩には、ミーナがお茶を淹れた。平たい器に注いで冷まし、当然の顔でグリムの前へ置く。月に一度、小屋へお茶を飲みに来る群れの長は、狼の姿でも作法を崩さなかった。器の縁を上品に舐めて、それからミーナの隣に、どすりと伏せる。


「あら。特等席ね」


 ミーナの声がいつもより一段やわらかいことには、気づかないふりをしておいた。育てる式は、一度にひとつでいい。


 日が沈むと、森は早かった。


 月がないぶん、闇が濃い。そのぶん星は近かった。梢の隙間にひとつかみの星明かりが散って、踏み固められたばかりの輪の道を、かろうじて銀色に縁取っている。両手で包んだお茶の器の温みが、夜の冷えからちょうど一杯ぶんだけ私を守っていた。


 帰り支度を始めたとき、グリムが輪の真ん中へ歩み出た。


 黒い体が夜に溶けて、金色の目だけが場所を教えている。鼻先が、月のない空へ向いた。


 ——遠吠えが、森を満たした。


 長い。深い。子狼たちの、音程のばらばらな賑やかしとはまるで違う。地面の底から立ち上がり、梢を抜けて、星のほうまで届きそうな一声だった。群れに番の儀を告げる長の遠吠えなのだと、隣のルークの尻尾が教えてくれる。でも、それだけでは足りない気がした。


 誇らしさと、寂しさと。声の長さの中に、両方が同じだけ入っている。


 あの日、音にならなかったものがいま音になっている——そう聞こえたのは、人間の勝手な翻訳かもしれないけれど。


 森のあちこちから、遠吠えが応えた。重なり、響いて、夜の梢を揺らす。ルークが空へ首を伸ばし、短くまっすぐな一声を返した。足元では聞き慣れた細い声——いつの間にか駆けつけていたピートまで参加して、最後だけ裏返る。


 遠吠えの余韻が消えても、グリムはしばらく空を見上げていた。月のない空を、まるで月があるみたいに。


 それから、夜ごとに月は少しずつ太っていった。


 衣装の仕上げ、料理の算段、村への触れ。日めくり代わりの月が膨らみ切る、そのひとつ手前。


 明日が、番の儀だ。

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