第43話「犬は嘘をつかない」
回復期の犬というものは、日ごとに態度が大きくなる。
器を出すのが少し遅れただけで、ロッテが抗議の鼻息を飛ばしてくる。フェルは寝床の藁を蹴散らし、扉の前を行ったり来たり。数日前まで浅い息を数えていた2頭と、本当に同じ犬だろうか。
「もう平気」と口で言うだけなら、誰にでもできる。現にカイルさんは看病の山場で「平気です」と言い張った末、立ったまま壁にもたれて寝ていた。人間の申告は、あてにならない。
でも、犬は嘘をつかない。
食欲と、尻尾と、足取り。この3つだけは取り繕いようがないから、回復の判定はぜんぶ犬の体に任せると決めた。薬湯は昨日から段々に薄めて、今夜が薬なしで熱の戻りを見張る最後のひと晩だ。いわばこの治療の、卒業試験である。
王太子の馬車を見送った、その翌日の夜。私は仮眠の約束を破って結局朝まで起きていた。
空が灰色から薄い金に変わるころ、寝床の横でフェルの体温を確かめていたルークが顔を上げた。括っていた銀の髪はとうに崩れて、ひと房が頬に貼りついている。
「熱は、ない」
「……ほんとに?」
「ああ。2頭とも、朝まで眠り通しだ」
言って、ルークはふっと口元を緩めた。
あ、と思う間もなかった。先日のあの初めての笑顔は、雷が落ちたみたいな大事件だったのに。二度目は徹夜明けの乱れ髪と一緒に、こんなにあっさり出てくるのか。疲れの分だけ薄くて、その薄さの分だけ、妙に効く。寝不足の頭に、これは直接くる。
「……どうした」
「なんでもないです。卒業試験の続きをします」
判定の朝ごはんは、薬を混ぜないただの粥と肉の煮汁にした。ロッテは器に頭から突っ込み、底が鳴るまで舐め上げる。フェルにいたってはロッテの器まで狙って、前足で一発はたかれていた。食欲、文句なし。
名前を呼べば、「フェル」で風を切る音、「ロッテ」で藁が舞う。尻尾、文句なし。
戸を開けると、2頭は転がるように草地へ飛び出した。フェルがひと息に駆ける。群れでいちばん速いという話は本当で、草地の端までの一往復が銀の残像にしか見えない。ロッテは鼻面を風に立てて、茂みに隠れていたピートを的確に掘り当てた。王都一の鼻も、ちゃんと帰ってきている。
足取り、文句なし。
「……全部、戻った」
カイルさんがその場にしゃがみ込む。駆け戻ってきた2頭の首に顔を埋めて、しばらく上がってこなかった。犬は嘘をつかないから、この回復も嘘じゃない。
出立は、判定の済んだその日の昼になった。
書き付けの束なら、ゆうべの寝ずの番の合間にこしらえてあった。犬舎全体ぶんの処方箋。煎じ方と回数。穀物倉はいったん空にして、風通しのいい場所で保管をやり直すこと。少しでも黴の匂いがしたら、惜しまず捨てること。回復食の進め方と、運動を戻す目安。
「……これ、薬師の本が一冊書けますよ」
「カイルさんの犬舎の経験と半分こです。絶食の見極めの頁なんて、ほとんどあなたの受け売りですし」
「では共著だ」
憎まれ口の応酬も、すっかり板についてしまった。最初の晩に絶食か給餌かで睨み合った相手と、こんな冗談を言い合う日が来るなんて。喧嘩の仕方でしか縮まらない距離も、世の中にはあるらしい。
荷馬車の支度が整うと、フェルとロッテは合図も待たずに荷台へ飛び乗った。来たときは抱え上げられた荷台に、自分の脚で。それを見たカイルさんの顔が、また少し崩れる。
「ローゼマリー様。ひとつだけ、勝手な夢の話をしても?」
「どうぞ」
「いつか王都に、動物を診る病院ができたらと思うんです。犬も馬も、倒れたら祈るしかない街ですから。——もしあなたがそれを作る日が来たら、必ず、私を呼んでください」
「気が早すぎます」
笑って流したけれど、その言葉は胸の棚のいちばん奥に、そっとしまわれた。取り出す日が来るかどうかは、まだわからない。
それからカイルさんは、ルークの正面に立った。
「……奥方を、お頼みします」
「ああ」
即答だった。考える間が、まるでない。
待って。奥方。式はまだ半月も先で、誓いも首飾りの受け渡しもこれからだ。つまり私はまだ奥方ではない。なのに当人がこんな迷いのない「ああ」を返してしまったら、もう訂正のしようがないではないか。耳が熱い。荷台の上でロッテが、わかったような顔で尻尾を振っている。賢い犬は嫌いよ、そういうところ。
「また意見が割れたら、手紙で喧嘩しましょう」
「望むところです。次は負けません」
車輪の音が森の道を遠ざかって、振り返った荷台から、最後まで2本の尻尾が旗みたいに揺れていた。
その晩。夕食の片付けの途中で、ルークが手を止めた。
「ローゼマリー。今夜から、しばらく狼だ」
月はもう、糸ほどに痩せている。満月の力で人の姿を保てるのは、月が痩せ切るまで。わかっていたのに、いざ口にされると、返事の顔を作るのに少しかかった。
「式の支度が整うころに、また人に戻る。間に合わせる」
「うん。知ってる」
「兄さんのところで、番の儀の段取りも詰めてくる」
頷いて、私は棚の小箱を取りに走った。渡しそびれたら、半月後の自分が後悔する。
戻る途中で衣擦れの音がして、振り向くと、暖炉の前に銀色の狼が座っていた。琥珀の目が、こちらを見上げている。ただいま、と言われた気がした。
「見て。——できたの」
小箱から持ち上げたのは、編んだ紐に通した、牙と月長石。あなたの分。私が磨いた石はルークの仕上げた鏡みたいな艶には届かなくて、よく見れば面がほんの少し波打っている。それでも芯の青白い光だけは、ちゃんとあの夜の月の色をしていた。
「言っておくけど、あなたのは私製だから、出来の差は気にしないでよね。心は込めたの。人生でいちばん」
狼は鼻先を寄せて、紐の端から石の先まで、時間をかけて匂いを確かめた。それから琥珀の目が細められ、尻尾が床をゆっくりと掃く。
「かけるのは式の夜。それまでお預けです」
小箱に戻すと、抗議とも甘えともつかない鼻息がひとつ。
そして私は、半月ぶりの権利を行使することにした。
絨毯がわりの大きな体に、顔から飛び込む。春毛は冬毛より薄いのに、沈む深さは変わらない。ふかふかの首元には乾いた草と、かすかな薬草の匂い。看病の日々が、毛並みの奥にまで染みている。人の姿の頼もしさも好きだけれど、やっぱりこの毛量は、こちらにしかない。
——うん。私はどちらも、ずるいくらい好きだ。
欠けてゆく月はこれから新月まで痩せて、また式の夜へ向かって満ちていく。月の満ち欠けがそのまま、指折り数える日めくりになる。式まで、あと半月。
明日からは番の儀の支度だ。狼の式は、群れの式。つまり次に頭を悩ませる相手は、あの大きくて無口な、義兄になる人である。




