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悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼
第二章 満月の結婚式編

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第42話「私の居場所は私が決める」

吸った息の分だけ、声はまっすぐに出た。


「殿下。復権のお話は、お断りいたします」


 護衛の2人が、聞き間違いを疑う顔でこちらを見る。王太子の眉が、ゆっくりと持ち上がった。


「……正気か。泥にまみれた森の暮らしと、伯爵家の名誉だぞ」


「正気です。生まれてから今がいちばん」


 言いながら思い出していたのは、大広間ではなかった。薪割りの斧と、夕方の風と、金色の目。一年前のこの庭で、私は狼の長に向かって言ったのだ。あなたが決めることじゃない。ルークに、自分で決めさせなさい——と。


 あの言葉は、あれからずっと、私の中で順番を待っていたらしい。


 狼の長に言えたのだ。人間の王太子に言えないわけがない。


「私の居場所は、私が決めます」


 森が、しんとした。


「殿下が決めることでも、伯爵家が決めることでもありません。あの日に私を捨てた筋書きの続きにも、もう載りません。私はここで生きて、ここで結婚します」


「家名もない男とか」


「家名はない」


 隣で、低い声がした。


「だが、ローゼマリーの隣に立つのは俺だ。それだけは、誰が決めることでもない」


 短い。今日も言葉の節約が徹底している。なのにこれ以上、足す言葉が見つからない。


 そのとき、下ろしたままの私の手に、指が触れた。王太子からは死角になる低さで、長い指が1本ずつ、確かめるように絡んでくる。手のひらとは違う、指の股の慣れない近さ。前を向いたまま、私は耳まで熱くなった。啖呵の余韻が台無しである。離してほしい。離さないでほしい。


 王太子は長いこと黙っていた。金の髪の下で、何かが軋みながら崩れていくのが、見えるようだった。命令は撥ねつけられ、餌の復権は要らないと言われた。それでもこの人には、引き返せない理由がある。


「……カイル。犬舎は今、何頭伏せている」


「19頭です。殿下」


 19頭。王太子の目が、一瞬だけ閉じられる。狩場を犬と駆け回っていた婚約者の顔が、肖像画の正しさの下から、剥がれるように覗いた。


 手袋が、片方だけ抜き取られる。素手というものを久しく見ていない手だった。


「……頼む」


 絞り出すような声だった。


「犬を、助けてくれ」


 金の頭が、下がった。


 護衛が息を呑むのが分かる。王族は、頭を下げない。下げてはいけない生き物だ。でも今、目の前で下がっているのは王太子の頭ではないのだと思う。匙を投げられた犬舎の前で立ち尽くした、ただの飼い主の頭だ。


「顔をお上げください、殿下」


 私は背筋を伸ばした。


「治療のご依頼として、正式にお受けします。ロッテとフェルの回復を見届けたら、犬舎全体の処方と世話の指示書をカイルさんに持たせます。対価は薬剤の調達でお願いします。——復権は、辞退いたします」


「……強情なことだ」


 顔を上げた王太子は、忌々しげで、どこか身軽にも見えた。馬上の人へ戻る間際、振り返りもせずに言う。


「礼は、犬が全頭立ってからだ」


 最後まで素直じゃない。でもあの言い方は、犬が立つと信じている人の言い方だった。


 蹄の音が遠ざかり、革と馬の匂いが森から薄れていく。梢に鳥の声が戻ってきて、それでようやく、自分の膝が少し笑っているのに気づいた。


 カイルさんだけが残った。引き継ぎのためなのだけれど、その前に、と私とルークの正面に立つ。一度だけ周囲を確かめてから、まっすぐにこちらを見た。


「あの明け方に見たものは、誰にも話していません。これからも話しません」


 報せる義務と、犬の恩と。あの明け方からずっと、背中の中でせめぎ合っていたものの、答え合わせだった。


「犬の恩人の秘密は、墓まで持っていきます。猟犬係の名にかけて」


「恩に着る」


 ルークの返事も短かった。けれど銀灰色の目から、張りつめていたものが引いていくのが分かる。カイルさんは「では薬の時間なので」といつもの早口に戻り、小屋へ入っていった。あの人の早口が、こんなに安心して聞ける日が来るとは。


 緊張の糸が切れた、その瞬間である。


 藁の寝床から灰銀の弾丸が飛び出してきた。ピートだ。尻尾が回っている。子狼の姿のまま草地を全力で横切り、減速という概念を持たずに私の膝へ突っ込んでくる。受け止めた腕の中で、もこもこの体が必死によじ登ってきた。あったかい。心持ち、いつもより重い。怖かった分だけ重いのかもしれない。鼻先が顎の下にぐいぐい押しつけられて、くすぐったさに声を上げて笑った。


「はいはい、終わったよ。もう大丈夫」


 子狼を抱えたまま隣を見上げて——息が止まった。


 ルークが、笑っていた。


 口の端がどう、という話ではない。目元がほどけて、銀灰色が春の水みたいに明るくなって、誰が見ても分かるかたちで笑っている。見間違いかと思った。一年と少し一緒にいて、人の姿のこの顔がこんなふうに動くのを、私は一度も見たことがない。


「お前の啖呵、よかった」


 とどめまで刺してきた。


 ずるい。今日のぜんぶを束にしても、この笑顔ひとつに勝てない。王太子の前で堂々と立っていた私はどこへやら、子狼に顔を埋めてうめくことしかできなかった。ピートが「くぅ?」と首を傾げている。説明できる気がしない。


 嵐は、去った。


 誓いの言葉の練習、衣装の仕上げ、首飾りの磨き残し。中断していた支度が、また私たちの毎日に戻ってくる。月が次に満ちる夜には、この森で式を挙げるのだ。指に残った体温と、腕の中のもこもこと、見てしまった笑顔と。


 抱えるものが多すぎる花嫁は、ひとまず焼き菓子を焼き直すところから始めようと思う。

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