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悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼
第二章 満月の結婚式編

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第41話「今さらのお迎え」

王家の紋章、とミーナさんは言った。


 膝の上の自分の手が、不思議なくらい静かだ。震えるものと思っていたのに。逃げ出したくなるものだと。けれど一拍おいて胸に浮かんだのは、たったひと言。


 ——今さら?


 一年と少し前、あの紋章の側から私は捨てられた。大広間で、衛兵の手で。今度は向こうから森まで来るらしい。お迎えというものは、たいてい遅れてやってくる。


「裏の沢から逃がすこともできるけど」


「会うわ」


 即答だった。自分でも驚くくらい。逃げる理由が、もうこの森のどこにもない。


 ルークは何も聞かず、戸口の壁から体を起こした。満月から日が経って、それでも昼の光の中に人の姿で立っていられる。銀の髪を無造作にひとつに括って、私の隣に並ぶ。前ではなく、隣に。


 ピートだけが正直だった。知らない人間の気配を嗅ぎ取るなり、子狼の姿で寝床へ走り、ロッテとフェルの間へ鼻先から潜り込む。藁の中から灰銀の尻尾だけがはみ出して、小刻みに震えていた。病み上がりの犬2頭に挟まれて守られる見張り番って何。


 蹄の音は、思ったより早く来た。


 草地の手前で馬が止まり、革と馬の汗の匂いが森の朝に割り込んでくる。護衛が2人、先導はカイルさん。その後ろから降り立った金の髪に、梢の鳥の声がすっと引いた。


 ユリウス王太子。元、婚約者。私を森へ捨てた人。


 王太子は、私を見なかった。真っ先にカイルさんを振り返る。


「カイル。犬は」


「峠を越えました。昨日の夕には、ロッテが餌を完食しています」


「……そうか」


 張りつめていた肩が、目に見えてほどける。ああ、そこは本物なんだ。猟犬を連れて狩場を駆け回っていた婚約者の姿を、ふいに思い出す。この人の犬への情だけは、昔から偽物じゃなかった。


 それから王太子は、ようやく私へ目を向けた。


「久しいな、ローゼマリー・シュトラウス」


「ご無沙汰しております。殿下」


「お前の働きは聞いた。王家の猟犬を救った功績は大きい。よって——復権を許す。伯爵家の名誉を回復し、王都へ戻ることを認めよう」


 許す。認めよう。一語ずつ、上から紐で吊るして降ろしてくるみたいな言い方だった。


 大広間の光景が一瞬だけ重なる。この声が「連れて行け」と言い、私の世界はあの日いちど終わった。指先が、すっと冷える。


「俺がいる」


 隣から、私にだけ届く大きさの声がした。銀灰色の目は王太子に据えたまま、ルークは身じろぎもしない。それだけで、冷えた指先に体温が戻ってくる。現金なものだ、私の体。


「殿下。おそれながら、なぜ今になって」


「……王都ではあらぬ噂が立っている。『王家は有能な人材を冤罪同然で捨てた』とな。迷惑な話だ」


 冤罪同然。ご自分で言ってしまうあたり、この方は昔から嘘が下手だった。つまりお迎えの理由は私ではなく、王家の体面。知ってた。


「お言葉はありがたく存じます。ですが私、この森で結婚いたしますので」


「は?」


 王太子の視線が、初めてルークを正面から捉えた。


「カイル。この男は」


「……薬師どのの遠縁で、手伝いの方です。犬の看護にも、力を貸していただきました」


 カイルさんの声は平らだった。平らすぎて、そのための努力の量がわかる。この人はまだ何も言っていないのだ。あの明け方のことも、銀の狼のことも。藁からはみ出た尻尾のことも。


「名は」


「ルーク」


「家名は」


「ない」


 短い。短すぎる。なのに不思議と、卑屈さのかけらもない返事だった。


 王太子とルークが、正面から向かい合う。金の髪と、銀の髪。そして私は、こんな状況で気づいてしまった。


 ……ルークのほうが、顔がいい。


 いやいやいや。今それを数える場面じゃないでしょ、私。でも事実は事実だった。王太子の整った顔立ちは肖像画の中の正しさで、ルークのそれは朝の光の中で生きて動いている。まつ毛の影の濃さからして勝負になっていない。元婚約者と今の婚約者を並べて顔の採点をする女、ここにいます。


「身元も知れぬ平民の男だと?」


 採点のことなど知らない王太子の声が、硬くなった。


「ローゼマリー。伯爵家の復権に、その結婚は障害でしかない。家名もない男との婚姻など、王家として認められん」


 木立の奥で、何かが動く気配がした。灰色の影がいくつも、音もなく伏せてこちらを見ている。群れだ。風が梢を渡り、王太子の知らないたくさんの目の上を通り過ぎていく。


 空はただ高く晴れて、昼の光の中に月の在り処はない。それでも次の満月の夜には、私はこの場所で式を挙げる。もう決めてある。


「返事を聞こう。復権か、ここでの泥にまみれた暮らしか。考えるまでもあるまい」


 考えるまでもない。ええ、それはそうですね、殿下。


 答えなら決まっている。たぶん、あの大広間のずっと前から——私が私の足でこの森を歩きはじめた、最初の日から。


 私は息を吸い、顔を上げた。

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