第41話「今さらのお迎え」
王家の紋章、とミーナさんは言った。
膝の上の自分の手が、不思議なくらい静かだ。震えるものと思っていたのに。逃げ出したくなるものだと。けれど一拍おいて胸に浮かんだのは、たったひと言。
——今さら?
一年と少し前、あの紋章の側から私は捨てられた。大広間で、衛兵の手で。今度は向こうから森まで来るらしい。お迎えというものは、たいてい遅れてやってくる。
「裏の沢から逃がすこともできるけど」
「会うわ」
即答だった。自分でも驚くくらい。逃げる理由が、もうこの森のどこにもない。
ルークは何も聞かず、戸口の壁から体を起こした。満月から日が経って、それでも昼の光の中に人の姿で立っていられる。銀の髪を無造作にひとつに括って、私の隣に並ぶ。前ではなく、隣に。
ピートだけが正直だった。知らない人間の気配を嗅ぎ取るなり、子狼の姿で寝床へ走り、ロッテとフェルの間へ鼻先から潜り込む。藁の中から灰銀の尻尾だけがはみ出して、小刻みに震えていた。病み上がりの犬2頭に挟まれて守られる見張り番って何。
蹄の音は、思ったより早く来た。
草地の手前で馬が止まり、革と馬の汗の匂いが森の朝に割り込んでくる。護衛が2人、先導はカイルさん。その後ろから降り立った金の髪に、梢の鳥の声がすっと引いた。
ユリウス王太子。元、婚約者。私を森へ捨てた人。
王太子は、私を見なかった。真っ先にカイルさんを振り返る。
「カイル。犬は」
「峠を越えました。昨日の夕には、ロッテが餌を完食しています」
「……そうか」
張りつめていた肩が、目に見えてほどける。ああ、そこは本物なんだ。猟犬を連れて狩場を駆け回っていた婚約者の姿を、ふいに思い出す。この人の犬への情だけは、昔から偽物じゃなかった。
それから王太子は、ようやく私へ目を向けた。
「久しいな、ローゼマリー・シュトラウス」
「ご無沙汰しております。殿下」
「お前の働きは聞いた。王家の猟犬を救った功績は大きい。よって——復権を許す。伯爵家の名誉を回復し、王都へ戻ることを認めよう」
許す。認めよう。一語ずつ、上から紐で吊るして降ろしてくるみたいな言い方だった。
大広間の光景が一瞬だけ重なる。この声が「連れて行け」と言い、私の世界はあの日いちど終わった。指先が、すっと冷える。
「俺がいる」
隣から、私にだけ届く大きさの声がした。銀灰色の目は王太子に据えたまま、ルークは身じろぎもしない。それだけで、冷えた指先に体温が戻ってくる。現金なものだ、私の体。
「殿下。おそれながら、なぜ今になって」
「……王都ではあらぬ噂が立っている。『王家は有能な人材を冤罪同然で捨てた』とな。迷惑な話だ」
冤罪同然。ご自分で言ってしまうあたり、この方は昔から嘘が下手だった。つまりお迎えの理由は私ではなく、王家の体面。知ってた。
「お言葉はありがたく存じます。ですが私、この森で結婚いたしますので」
「は?」
王太子の視線が、初めてルークを正面から捉えた。
「カイル。この男は」
「……薬師どのの遠縁で、手伝いの方です。犬の看護にも、力を貸していただきました」
カイルさんの声は平らだった。平らすぎて、そのための努力の量がわかる。この人はまだ何も言っていないのだ。あの明け方のことも、銀の狼のことも。藁からはみ出た尻尾のことも。
「名は」
「ルーク」
「家名は」
「ない」
短い。短すぎる。なのに不思議と、卑屈さのかけらもない返事だった。
王太子とルークが、正面から向かい合う。金の髪と、銀の髪。そして私は、こんな状況で気づいてしまった。
……ルークのほうが、顔がいい。
いやいやいや。今それを数える場面じゃないでしょ、私。でも事実は事実だった。王太子の整った顔立ちは肖像画の中の正しさで、ルークのそれは朝の光の中で生きて動いている。まつ毛の影の濃さからして勝負になっていない。元婚約者と今の婚約者を並べて顔の採点をする女、ここにいます。
「身元も知れぬ平民の男だと?」
採点のことなど知らない王太子の声が、硬くなった。
「ローゼマリー。伯爵家の復権に、その結婚は障害でしかない。家名もない男との婚姻など、王家として認められん」
木立の奥で、何かが動く気配がした。灰色の影がいくつも、音もなく伏せてこちらを見ている。群れだ。風が梢を渡り、王太子の知らないたくさんの目の上を通り過ぎていく。
空はただ高く晴れて、昼の光の中に月の在り処はない。それでも次の満月の夜には、私はこの場所で式を挙げる。もう決めてある。
「返事を聞こう。復権か、ここでの泥にまみれた暮らしか。考えるまでもあるまい」
考えるまでもない。ええ、それはそうですね、殿下。
答えなら決まっている。たぶん、あの大広間のずっと前から——私が私の足でこの森を歩きはじめた、最初の日から。
私は息を吸い、顔を上げた。




