第40話「見られた」
ロッテとフェルの熱が引きはじめた、翌朝だった。
煮こごり用の肉が尽きかけて、ルークが狩りに出ることになった。戸口を出ると、庭先の朝靄の向こう、明けきらない空の端に、細い残月が白く溶け残っている。狩りと群れの用は狼で行く。それがこの満月の季節の決まりごとだ。
見慣れたはずの瞬間なのに、私は毎回ちゃんと見てしまう。銀灰色の目がふっと琥珀へ深くなり、長身の輪郭が靄ごとほどける。ひと呼吸の後には、そこに大きな銀の狼が立っている。
がしゃん、と。
森の小道で、陶器の割れる音がした。
白い乳が下草に広がっていく。割れた壺の前に、カイルさんが立っていた。ロッテのために、村で山羊の乳を分けてもらってきたのだろう。朝の冷気に、こぼれた乳の匂いがうすく混ざる。
誰も動けなかった。琥珀の目の狼と、私と、カイルさん。靄の中で、時間ごと固まってしまったみたいに。
いつから。どこから。頭の中で同じ問いが空回りして、けれど答えはひとつしか出ない。最初からだ。目の色も、ほどけた輪郭も、ぜんぶ。
違うんです、とは言えなかった。違わないのだ。見られたものが、そのまま全部だった。
怖い、と思った。怒りでも言い訳でもなく、ひたすら怖い。この人の口が王都へ向かって開いたら、ルークは。群れは。
カイルさんの唇が何か言いかけて、止まった。視線が狼と私の間をさまよい、足元の白い水たまりへ落ちる。
「……薬の、時間なので」
それだけを絞り出し、私の横を通って小屋へ入っていった。中から、いつもの犬の早口は一度も聞こえてこない。あの人の沈黙が、こんなに大きな音だなんて知らなかった。手当てを済ませたカイルさんは、目を合わせずに頭だけ下げて、森の道を戻っていく。
カイルさん、と名前を呼びかけて、続く言葉が出てこなかった。足音が一度だけ止まり、それからまた遠ざかる。報せる義務と、犬の恩と。あの背中の中で何がせめぎ合っているのか、想像はつくのに、引き留める資格が私にはない。
ルークは昼のうちに群れへ走り、夕方には森の空気が変わっていた。
小屋の前の草地にグリムが現れたのだ。数頭を連れて、音もなく。いつもの穏やかな鼻先の挨拶はなく、グリムの金色と連れの狼たちの琥珀——いくつもの目が村へ続く道の方角を向いている。低い唸りが、地面を這うように続いた。
ピートは私の足元で小さくなっていた。尻尾が後ろ足の間に消えている。大人の緊張は、子供にいちばん早く染みるらしい。気づいた群れの狼たちが順に腰を下ろし、灰色の体で子狼をゆるく囲んだ。毛の壁の内側から、不安げな青い目だけが覗いている。
と思ったら、その毛の壁がもぞもぞ動いた。自力で突破してきたピートが、舌足らずの男の子の姿になって、干し肉をひとつ私の膝に置く。
「これ。たべると、つよくなるやつ」
こんな日でも、この子の親切は通常運行だった。泣きそうになるのをこらえて、半分こにして一緒に齧る。固くて、しょっぱかった。
「掟がある」
日が落ちて人の姿に戻ったルークは、まずそれだけ言った。
「人に知られた群れは、棲み処を捨てる。昔から、そうしてきた」
遠い冬に、山をひとつ群れごと捨てた話を、ルークは短く終わらせた。短いから、かえって重い。捨てる側が何を置いていったのか、語られない部分のほうがずっと多いのだ。
謝ろうとして、声が出なかった。王都へ名前を流したのも、この森の奥まで人を招き入れたのも、私だ。名前なんて安いものだと決めたあの朝の勘定に、ルークと群れの居場所まで乗っていたなんて。
「……私の、せいだ」
「決めたのは、俺もだ」
それきりルークは狼に戻り、庭の闇との境に伏せた。
大きな銀の背中は、星明かりの下で動かない。耳だけが時折、村の方角へ立つ。考えているのだ。狼の頭で、狼の問題を。私の入れない場所で。
遠くで群れの誰かが短く吠え、銀の背中は答えなかった。夜気が首筋に冷たい。それでも私は戸口を離れられず、夜空と背中とを交互に見ていた。
眠れないまま炉の前に座っていると、夜更けに戸が開いた。人の姿に戻ったルークが、何も言わずに隣へ腰を下ろす。慰めはなく、視線もこちらへは来ない。ただ、肩がひとつぶん触れている。布越しの体温が、炉の火よりも近かった。
カイルさんはその日の夕方、グリムたちが現れる少し前にも来ていた。手当ての腕は変わらず確かで、口数だけが死んでいる。何かを問えば何かが決まってしまう気がして、私からも問えない。無言の手当てだけ済ませて、暮れかけた森の道を帰っていった。
皮肉なことに、ロッテとフェルだけは目に見えて良くなっていく。ロッテは尻尾でカイルさんの腕を叩いて遊ぶようになった。犬は、人間の気まずさというものを知らない。
翌朝——ミーナさんが息を切らして駆け込んできた。
「ローゼ、森の入口に馬車が停まってる。——扉に、王家の紋章よ」




