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悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼
第二章 満月の結婚式編

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第40話「見られた」

ロッテとフェルの熱が引きはじめた、翌朝だった。


 煮こごり用の肉が尽きかけて、ルークが狩りに出ることになった。戸口を出ると、庭先の朝靄の向こう、明けきらない空の端に、細い残月が白く溶け残っている。狩りと群れの用は狼で行く。それがこの満月の季節の決まりごとだ。


 見慣れたはずの瞬間なのに、私は毎回ちゃんと見てしまう。銀灰色の目がふっと琥珀へ深くなり、長身の輪郭が靄ごとほどける。ひと呼吸の後には、そこに大きな銀の狼が立っている。


 がしゃん、と。


 森の小道で、陶器の割れる音がした。


 白い乳が下草に広がっていく。割れた壺の前に、カイルさんが立っていた。ロッテのために、村で山羊の乳を分けてもらってきたのだろう。朝の冷気に、こぼれた乳の匂いがうすく混ざる。


 誰も動けなかった。琥珀の目の狼と、私と、カイルさん。靄の中で、時間ごと固まってしまったみたいに。


 いつから。どこから。頭の中で同じ問いが空回りして、けれど答えはひとつしか出ない。最初からだ。目の色も、ほどけた輪郭も、ぜんぶ。


 違うんです、とは言えなかった。違わないのだ。見られたものが、そのまま全部だった。


 怖い、と思った。怒りでも言い訳でもなく、ひたすら怖い。この人の口が王都へ向かって開いたら、ルークは。群れは。


 カイルさんの唇が何か言いかけて、止まった。視線が狼と私の間をさまよい、足元の白い水たまりへ落ちる。


「……薬の、時間なので」


 それだけを絞り出し、私の横を通って小屋へ入っていった。中から、いつもの犬の早口は一度も聞こえてこない。あの人の沈黙が、こんなに大きな音だなんて知らなかった。手当てを済ませたカイルさんは、目を合わせずに頭だけ下げて、森の道を戻っていく。


 カイルさん、と名前を呼びかけて、続く言葉が出てこなかった。足音が一度だけ止まり、それからまた遠ざかる。報せる義務と、犬の恩と。あの背中の中で何がせめぎ合っているのか、想像はつくのに、引き留める資格が私にはない。


 ルークは昼のうちに群れへ走り、夕方には森の空気が変わっていた。


 小屋の前の草地にグリムが現れたのだ。数頭を連れて、音もなく。いつもの穏やかな鼻先の挨拶はなく、グリムの金色と連れの狼たちの琥珀——いくつもの目が村へ続く道の方角を向いている。低い唸りが、地面を這うように続いた。


 ピートは私の足元で小さくなっていた。尻尾が後ろ足の間に消えている。大人の緊張は、子供にいちばん早く染みるらしい。気づいた群れの狼たちが順に腰を下ろし、灰色の体で子狼をゆるく囲んだ。毛の壁の内側から、不安げな青い目だけが覗いている。


 と思ったら、その毛の壁がもぞもぞ動いた。自力で突破してきたピートが、舌足らずの男の子の姿になって、干し肉をひとつ私の膝に置く。


「これ。たべると、つよくなるやつ」


 こんな日でも、この子の親切は通常運行だった。泣きそうになるのをこらえて、半分こにして一緒に齧る。固くて、しょっぱかった。


「掟がある」


 日が落ちて人の姿に戻ったルークは、まずそれだけ言った。


「人に知られた群れは、棲み処を捨てる。昔から、そうしてきた」


 遠い冬に、山をひとつ群れごと捨てた話を、ルークは短く終わらせた。短いから、かえって重い。捨てる側が何を置いていったのか、語られない部分のほうがずっと多いのだ。


 謝ろうとして、声が出なかった。王都へ名前を流したのも、この森の奥まで人を招き入れたのも、私だ。名前なんて安いものだと決めたあの朝の勘定に、ルークと群れの居場所まで乗っていたなんて。


「……私の、せいだ」


「決めたのは、俺もだ」


 それきりルークは狼に戻り、庭の闇との境に伏せた。


 大きな銀の背中は、星明かりの下で動かない。耳だけが時折、村の方角へ立つ。考えているのだ。狼の頭で、狼の問題を。私の入れない場所で。


 遠くで群れの誰かが短く吠え、銀の背中は答えなかった。夜気が首筋に冷たい。それでも私は戸口を離れられず、夜空と背中とを交互に見ていた。


 眠れないまま炉の前に座っていると、夜更けに戸が開いた。人の姿に戻ったルークが、何も言わずに隣へ腰を下ろす。慰めはなく、視線もこちらへは来ない。ただ、肩がひとつぶん触れている。布越しの体温が、炉の火よりも近かった。


 カイルさんはその日の夕方、グリムたちが現れる少し前にも来ていた。手当ての腕は変わらず確かで、口数だけが死んでいる。何かを問えば何かが決まってしまう気がして、私からも問えない。無言の手当てだけ済ませて、暮れかけた森の道を帰っていった。


 皮肉なことに、ロッテとフェルだけは目に見えて良くなっていく。ロッテは尻尾でカイルさんの腕を叩いて遊ぶようになった。犬は、人間の気まずさというものを知らない。


 翌朝——ミーナさんが息を切らして駆け込んできた。


「ローゼ、森の入口に馬車が停まってる。——扉に、王家の紋章よ」

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