第39話「その犬、診せてください」
森の道に立ち尽くす私たちの間を、春の風だけが律儀に通り抜けていく。断罪された元婚約者と、王家の猟犬係。気まずさの種類でいえば一級品である。
でも、荷台の藁の上では浅い息が2つ、いまも数を減らしている。迷っている時間が、いちばんもったいない。
「カイルさん。その犬、診せてください」
「……っ、お願いします。あなたが誰であっても、この子たちを診てくれる人なら」
頭を下げる速さで、この人の中の順番がもう一度わかった。犬が先。あとは全部、後ろ。
問題は、小屋までの移動だった。猟犬は大型で、力の抜けた体は見た目よりずっと重い。カイルさんと2人で板に乗せて、と算段していたら、ルークが無言で荷台へ上がった。
まくり上げた袖から伸びる腕が、ぐったりした体の下へ滑り込む。首と腰を同時に支え、抱え上げても藁一本ぶんも揺らさない。浮き出た前腕の筋に、成犬の重さがまるで乗っていないみたいだ。1頭目を寝床へ運び、戻って2頭目。歩幅は最初から最後まで一定だった。
「……運び方が完璧だ。どこの犬舎で修行を?」
「してない」
唸るカイルさんの横で、私は別の理由で声を失っていた。診察。診察です、私。
暖炉の前に藁と古布の寝床を作り、2頭を並べる。雌のロッテと雄のフェル、と教わった。触れると耳の先まで熱く、歯茎の色は薄い。呼びかけにまぶたが薄く開くだけで、尻尾は藁に沈んだきり動かない。
ピートは寝床の端に伏せて、見張り番を買って出た。子狼なりに、騒いではいけない病人だとわかるらしい。
まずは熱冷ましの薬草を濃く煎じ、布に含ませて口の端から少しずつ。昼に1回、夕方にもう1回。
——効かなかった。
日が落ちても熱は壁のように動かず、呼吸はむしろ浅くなっていく。前世の記憶と森で覚えた薬草、手持ちを正面からぶつけて、この結果だ。悔しさより先に、ぞっとした。熱を散らすだけのやり方では、追いつかない。
何か胃に入れないと、と腰を上げかけた私を、カイルさんが初めて正面から止めた。
「待ってください。弱った猟犬は絶食が基本です。胃腸を休ませる。犬舎では代々そうやって立て直してきました」
「このまま空っぽだと、熱と闘う力のほうが先に尽きます。食べられる形に変えて、少しずつでも入れるべきです」
「吐かせたらもっと弱る。絶食で持ち直した犬を、私は現場で何頭も見ています」
声が尖り、私も引かなかった。この人は犬のために言っている。私も犬のために言っている。だから余計に、譲れない。
睨み合いの途中で、ふと引っかかった。
「……カイルさん。犬舎で最初に倒れたのは、餌を残したお年寄りの子たちでしたよね。なのに重いのは、ちゃんと完食していた若い子のほう」
「ええ。妙だとは思って——」
「食べた子ほど悪くなる。それ、餌そのものがおかしいんじゃないですか」
カイルさんの顔色が変わり、荷台から運んだ飼料袋の口紐を引きちぎる勢いで解く。覗き込んだ鼻先に、穀物の甘さへ混じって、古い納屋みたいな埃くさい匂いが刺さった。粒の隙間に、緑がかった粉が見える。
「そういえば……春から、餌の仕入れ先が変わったんです。安くて量が入ると、上の方針で」
「断定はできません。私、医者じゃないので。……でも昔、黴びた穀物で似たふうに倒れた子たちを診たことがあります。熱が出て、ふらついて、肝臓をやられて」
前世の白い廊下の記憶です、とは言えないから、出どころは濁すしかない。カイルさんは長く息を吐いた。
「絶食は正しかったわけだ。……あの餌に限っては」
「そして食べさせるのも正しいんです。あの餌以外なら」
ふたりの言い分が、真ん中でかちりと噛み合う。方針は決まった。持ち込んだ餌は全部止める。薬草は肝を助ける配合へ切り替え、蜂蜜湯と肉の煮こごりを布に含ませて、少しずつ何度でも。
そこからは、長い夜だった。
薬を煎じ替え、白湯を含ませ、体を拭いて寝返りを打たせる。私が手を伸ばすたび、必要なものが先回りで隣に現れる。「次、ぬるい湯」と言い終わる前に、ちょうどいい温度の桶が膝の横へ着地している。ルークだ。指示が、ほとんど要らない。
夜半すぎ、ふと顔を上げると、ランプの灯を背にした静かな立ち姿があった。銀灰色の目は、犬と私の手元だけを行き来している。数秒、すり鉢の手が止まった。疲れのせいにしておく。この人が隣に立っていると、夜が、ぜんぜん怖くない。
カイルさんは2頭の間に座り込み、掠れた声で名前を呼び続けていた。フェルは群れでいちばん足が速くて、ロッテは王都一の鼻なんです、と。
空が白み始めた頃、フェルの喉が、こく、と小さく鳴った。布の蜂蜜湯を、自分から舐めたのだ。触れた耳の先が、ゆうべよりぬるい。続けてロッテの尻尾の先が、藁の上でぱさり、と一度だけ動いた。
その小さな音に、大人3人がいっせいに固まる。
「……峠はまだ先です。でも、向きは変わったと思います。たぶん、だけど」
「たぶんで十分だ……!」
両手で顔を覆ったカイルさんは、次の瞬間には跳ね起きていた。
「王都へ知らせます。犬舎の餌を今日にでも止めさせないと。それに薬剤の調達と、治療を続ける許しも要る」
朝いちばんの駅逓から、早馬が出ることになった。カイルさんは封をする前に、書き付けを私の前で読み上げてくれた。
——魔女の正体は、シュトラウス伯爵家のローゼマリー様。治療の腕は本物。犬舎の穀物をただちに止め、追って指示を乞う。
「お名前を伏せたままでは、薬も人も動かせません。……勝手に書く真似だけは、したくなかった」
「いいんです。書いてください」
ルークのことは、一行もない。当然だ。この人にとってあの銀髪は「薬師の遠縁の手伝い」で、それより先を知りようがないのだから。わかっているのに、読み上げを聞く間、お腹の底のどこかが勝手に身構えていた。
村へ駆けていく背中を見送ると、道の土埃が朝日に薄く光って立ちのぼる。あの埃の先に、王都がある。
「明日も手伝う」
振り向くと、徹夜明けのルークがフェルの寝床の藁を直していた。
「ありがと。……ねえ。私の名前、王都へ行っちゃった」
「行かせると決めたのは、お前だ」
そうだ。私が決めた。犬の命と引き換えなら、名前なんて安いものだ。
それでも、炉の火の爆ぜる音の合間に、遠ざかる蹄の拍子がいつまでも残る。森の静かな時間に、外の時計の針がひとつ、混ざってしまった朝だった。




