第38話「魔女を探しています」
支度の頁がぜんぶ丸で埋まった、その翌朝のこと。私は浮かれた勢いのまま、朝から焼き菓子の生地をこねていた。
最初に気づいたのはピートである。炉端で丸まっていた子狼がぱっと頭を起こし、扉に向かって精一杯の唸りを上げた。ぐるるる、のつもりだと思う。実際に出たのは、子猫のくしゃみに毛が生えた程度の音だった。
こんこん、と遠慮がちに扉が2回。粉だらけの手をエプロンで拭く私より先に、薪を抱えて戻ったばかりのルークが土間を横切り、扉を開けた。
外に立っていたのは、埃まみれの旅装の男の人だった。年は私より少し上くらい。目の下に濃い隈が住み着いていて、外套の裾は泥はねで固まっている。よほど急いで来たらしい。
「朝早くに失礼します。このあたりに、動物を治す魔女が住んでいると伺って——」
顔を上げた男の人の言葉が、そこで止まった。
無理もない。戸口にいるのは、薪を抱えた銀髪の長身である。男の人の視線が、靴から頭まで一往復して、二往復した。それから観念したように口を開く。
「……魔女の、旦那様でいらっしゃいますか」
「まだだ」
「まだ!?」
違う。いえ、違わなくはないけど。式がまだ、という意味であって。朝いちばんの会話がこれって、どういうことなの。
「ええと……動物を診ているのは私です。ローゼと呼ばれています。彼はルーク、町の薬師さんの遠縁で、手伝いに来てくれていて」
名乗りは家名抜き。婚約者です、の一言はどうしても足せなかった。さっきの「まだだ」で察してもらうほかない。
男の人は私とルークを何度も見比べ、しばらく黙り込んだ。気持ちは分かる。森の魔女を訪ねたら、粉だらけの若い女と、無駄に顔のいい銀髪が出てきたのだ。想像図の全壊である。
「し、失礼しました。カイルと申します。王都から参りました。……王家の犬舎で、猟犬係を」
王家。
その響きひとつで、粉の残った指先がすっと冷える。前世の分まで含めても、いちばん聞きたくない方角からのお客だ。
ルークが薪を置き、音もなく私の斜め前へ半歩、立ち位置を変えた。来客との間に、さりげなく広い肩が一枚挟まる。銀灰色の目は静かなまま、カイルさんから離れない。守られている、と意識した途端に頬が熱くなるのだから、私もこの一年で大概になった。
そこへ、足元の勇者が参戦した。ピートだ。ルークの足の間から進み出て、背中の毛を逆立て、全力でカイルさんを威嚇する。みゃう、に近い唸りだった。迫力は、ない。
カイルさんの反応は、悲鳴でも後退りでもなかった。その場にしゃがんだのだ。目を、きらっきらに輝かせて。
「子狼……いや、犬も入ってる? 巻き尾じゃない。立ち耳。踏み込みの角度がいい。走る仔だなあ君は! 失礼、触っても——いや今のは忘れてください。初対面の犬にいきなり触るのは下の下です」
早口だった。それまでの倍の速さである。威嚇していたはずのピートが、勢いに押されてぺたんと座った。
「……すみません。犬のことになると早口になる癖が、その、抜けなくて」
「いえ。……それで、猟犬の身に何か?」
その一言で、カイルさんの顔から今度こそ血の気が引いた。
「倒れているんです。犬舎の犬が、次々に」
立ち上がって語る声が、また速くなっていく。最初は年寄りの犬が餌を残した。次に若いのが立てなくなった。熱。痩せ。後ろ足のふらつき。王都の獣医は匙を投げ、原因の見当もつかないまま、犬舎の半分が伏せってしまったという。
「特にひどい若い2頭は、馬車で連れてきました。森の手前の道に停めてあります。頼りは『辺境に動物を治す魔女がいる』という噂ひとつ。藁にもすがる思いで参りました」
深々と、つむじが見えるほど頭が下がる。王家の使用人が、森の小屋の若い女に。身分も体面も、この人の中では犬の後ろに並んでいるらしい。
「顔を上げてください。とにかく、その2頭に会わせて。話はそれからです」
馬車は、森の道幅が尽きるあたりに停まっていた。荷台に敷いた藁の上で、灰色の猟犬が2頭、長々と伸びている。息が浅い。若い体つきなのに、毛艶だけが年寄りのそれだった。藁と、汗ばんだ獣のにおいが重い。
私は荷台の縁に膝をつき、手のひらを下へ向けて、犬の鼻先より低い位置にそっと差し出した。挨拶はあなたの番、私は待つ係。前世の職場で骨まで染みた、いつもの順番だ。
背後で、カイルさんの早口が止まった。
「……その、手」
振り返ると、カイルさんは犬ではなく私を見ていた。この人が犬から目を離すのは、たぶんよほどのことだ。
「一度だけ、犬舎で見たんです。同じ手の出し方をする貴婦人を。視察の列を抜けて、ドレスが汚れるのも構わず膝をついて……殿下の、婚約者様でした」
記憶の中の誰かと目の前の私が、音を立てて重なっていく。その音が、こちらまで聞こえる気がした。
「ローゼマリー様。……シュトラウス伯爵家の」
一年ぶりの家名が、春の森の空気を硬くする。
カイルさんは半歩下がり、それから自分のその半歩に戸惑うように、足を止めた。敵意ではない。咎める色でもない。王家に仕える者の顔と、犬を救いたい一心の顔が、ひとつの顔の上で場所を取り合っている。
断罪された元婚約者と、王家の猟犬係。本来なら、立ち話ひとつ許されない間柄である。
その沈黙を破ったのは、人間ではなかった。
くうん、と。藁の上の1頭が、力の入らない喉で鳴いた。
私とカイルさんは、ほとんど同時に犬へ向き直った。差し出したままの手のひらに、乾いた鼻先がかすかに触れる。熱い。前世の白い廊下で何度も知った、悪い熱の乾き方だ。
正体は、ばれた。この人がそれをどう扱うのか、王都に何が伝わるのか、考えるべきことは山積みである。
でも、順番なら最初から決まっている。
目の前に、病んだ犬がいるのだ。




