第37話「誓いの言葉が直球すぎる」
宣言どおり、授業は翌日の昼に始まった。
教室は小屋の前の原っぱ。教材は、昨夜のうちに私が書き上げた紙が1枚。人間の式で読み上げる誓いの言葉——「健やかなるときも、病めるときも」から始まる、あの定番の文句である。ミーナに聞いたこの国の式の型へ、前世の記憶を少しだけ混ぜて整えておいた。
生徒はひとり。春の草の上、人の姿のルークが切り株に腰掛けて、私の手元をじっと見ている。結んでいない銀の髪が、昼の風にゆるく揺れていた。
「いい? 誓いの言葉は式のいちばん大事な場面で読むの。型があるから、まずそれを覚えます。はい復唱——『健やかなるときも、病めるときも』」
「お前の隣がいい」
「……ん?」
「以上だ」
銀灰色の目が、紙ではなく私をまっすぐ射抜いている。春の風が急にぬるい。違う。そうじゃない。そうじゃないのに、先に頬へ火がついたのは私のほうだった。
「ちっ、違うでしょ! 復唱! 型を覚えるの!」
「型は要らない。事実を言った」
「事実……」
頭を抱える。そうだった。狼族に社交辞令と定型文は存在しない。あるのは事実だけ。なぜ紙が要るんだ、と真顔で聞かれたあの日から、薄々わかってはいたのだ。
「あのね、これは練習なの。本気の言葉は本番に取っておいて!」
「練習でも、嘘は言えない」
「嘘じゃなくて型! みんなの前で読むんだから、噛まないように体に入れておくものなの」
「思っていることしか、口は動かない」
つまりこの人の口から出るものは、練習だろうと全部本物ということになる。心臓の準備運動くらいさせてほしい。
2回目。私は紙を渡し、棒読みでいいからと条件を緩めた。ルークは紙面に目を落とし、低く読み始める。
「『健やかなるときも、病めるときも』……」
進んだ。やればできるじゃない、と身を乗り出した矢先、声が止まった。眉がわずかに寄る。
「病めるときは、治るまで俺が狩って運ぶ。健やかなときと、何も変わらない」
「解釈しないで、読んで!」
「どの日も隣にいる。それで全部だろう」
全部だった。型より短くて、型より強い。反論の代わりに私の喉から出たのは、言葉になりそこねた変な音だけである。
3回目。私は奥の手に出た。
「わかった。じゃあ目をつぶって聞く。目さえ合わなければ、私は無事なはずだから」
まぶたを下ろす。草の匂い。風の音。紙のこすれる気配がして——次の声は、思っていたよりずっと近くで鳴った。
「ローゼマリー」
一段、低い。耳のすぐそばで、骨にまで響く深さの声。
「目を閉じていても、俺はお前の隣にいる」
目を開けたら負けだと思った。開けてしまった。鼻先が触れそうな距離に銀灰色が待ち構えていて、私の完敗である。開始からこれで3戦3敗。誓いの言葉に、誓われる側が先に倒されてどうするの。
ぱきり、と茂みで小枝の折れる音がしたのは、そのときだ。
振り向くと、原っぱの縁に子狼が3頭、行儀よく並んで座っていた。先頭は灰銀のピート。人化の練習帰りに通りかかって、そのまま観客になったらしい。つぶらな瞳がきらきらと、それはもう熱心にこちらを見ている。尻尾が3本、同じ拍子で草を掃いていた。
「……いつから見てたの」
返事の代わりに3頭が顎を上げ、ほわん、と細い遠吠えを揃えた。祝福のつもりらしい。音程はばらばらで、1頭は途中で裏返った。
羞恥に悶える私をよそに、観客はすぐ飽きる。1頭が風に揺れる紙へ飛びつき——あっと思ったときには、誓いの言葉の原本が小さな牙にくわえられ、原っぱを疾走していた。
「ちょっ、それ台本! 待ちなさい!」
追う私、逃げる子狼、面白がって参戦するあと2頭。ルークが短く息を吐いて立ち上がり、低くひと声唸ると、犯人はころんと転がって腹を見せた。回収された台本には、隅に小さな歯型と、点々とよだれの染み。
「……いいわ。どうせ本番は暗唱だし」
干し肉で3頭を買収して、原っぱの隅へ転がしておく。子狼たちはひとしきり取っ組み合ったあと、日なたでひと山の毛玉になった。お日さまに焼けた毛の匂いが、ここまでふわふわ漂ってくる。
さて、と切り株へ座り直したルークが、私を見た。
「お前のは、まだ聞いていない」
……そうだった。誓いはふたりで言うものである。私は咳払いをひとつ、歯型つきの紙を広げ——読めるのに、声が出ない。型のとおりに読めば済む話だ。なのに、あの直球を3連発で浴びたあとでは、定型文がやけに薄っぺらく感じられてしまう。
私も、私の言葉で言うべきなんじゃないの。でも私の言葉って、つまり、その。あなたを拾った夜から世界が温かい、とか。しっぽも人の手も、どっちも好き、とか。
だめだ。口に出せる気がしない。顔だけが先に茹で上がっていく。
「あ、あの、ええと……私は……」
「いい」
ルークは静かに首を振った。
「式まで待つ。——本気の言葉は、本番に取っておくんだろう」
私の台詞が、そっくりそのまま返ってきた。しかも当然の顔で。教えた型はひとつも覚えないくせに、そういうところだけ学習が早い。
「楽しみが増えた」
憎らしいほど穏やかにそう言って、ルークは昼の光に目を細めた。攻守が、いつの間にか入れ替わっている。誓いの言葉ひとつ、満月の夜まで私が借りを抱える形になってしまった。
夕方。覚え書きを開いて、「ちかいのことば」の項目にも丸をつける。台本に歯型はついたけれど、いちばん大事な一行なら、とっくに胸のほうへ刻まれている。
牙と月長石の首飾り、仮縫い待ちの白い衣装、二回の式の段取り。並んだ項目に丸、丸、丸。長かった支度の頁は、今日でおしまい。
窓の外では、毛玉のほどけた子狼たちが森へ帰っていくところだった。見送るルークの足元で、ピートの尻尾がぶんぶんと別れを惜しんでいる。
あとは満月を待つだけの、この春でいちばん穏やかな夕暮れ。
胸の奥がくすぐったいまま、私はそっとページを閉じた。




