第36話「その顔で歩かないで」
買い出しの朝は、ミーナの台本合わせから始まった。
「いい? あんたは私の遠縁。山向こうの村から手伝いに来た、口の重い甥っ子。聞かれたら『ああ』か『いや』で通しなさい」
「ああ」
「上出来。その調子よ」
ルークは満月期の人の姿で、クローゼットの右側から出したシャツに、ミーナが持ってきた上着を重ねている。銀の髪は今朝、私が後ろでひとつに結んだ。それだけの支度なのに、戸口に立たれると小屋の中が急に手狭に見える。長身というのは得な造りだ。
ピートは留守番である。人の姿で「るすばん、できるもん。おみやげは、ぱん」と交渉だけ済ませて、土手の上から尻尾を振って見送ってくれた。
荷車に半日揺られ、薬草の匂いに包まれて町に着く。ルークが昼の町を歩くのは、これが初めてだ。
そして、着いて10歩で気づいた。
視線が、刺さる。
井戸端で笑っていた娘たちの声が、ぴたりと止まった。一拍おいて、ひそひそが始まる。ねえ、あの銀色の髪の人。背、たかーい。ミーナさんの連れ? どこの人?
当のルークは、市場の喧騒に少しだけ眉を寄せて——鼻のいい人に町の匂いは濃すぎるのだろう——肝心の視線にはまるで気づいていない。気づいていないどころか、足を止めた私の顔を、覗き込んでくる始末だ。
「どうした。疲れたか」
銀灰色の目が、往来のど真ん中で私だけを映す。背後で、ひそひそが悲鳴に変わった。きゃあ、いまの見た? 見た見た。
お願いだから、その顔で堂々と歩かないで。心臓に悪いのは、町の娘より先に私なんだから。
「……なんでもない。行きましょう」
パン屋では、看板娘の声が裏返った。
「い、いらっしゃいませっ」
注文したのは私である。丸パンを6個と、黒パンを1本。なのに袋はなぜかルークに手渡され、しかも中身が明らかに多い。
「あの、これ、数が」
「おまけですっ。た、たくさん歩くと、お腹が空きますから!」
ルークは小さく首を傾げ、それでも律儀に「すまない」とだけ言った。低い声に、看板娘は赤くなって轟沈した。気持ちは分かる。分かるが。
気がつくと私は、棚のいちばん上等な蜂蜜パンを指さしていた。
「これもください。私が買います。彼の分も、私が」
言ってから、我に返る。誰に張り合っているの、私は。おまけのパンに、である。婚約者は私なのに、丸パン2個ぽっちのおまけと真っ向勝負を挑んでいる。自覚した瞬間、頬から火が出た。ミーナが横で、肩を震わせて笑いをこらえている。あとで覚えてなさい。
仕立屋は通りの角の、小さいけれど糸の匂いの濃い店だった。
「ここの婆さんの針が町で一番。私が保証するわ」
ミーナの言葉どおり、店主のお婆さんはルークをひと目見るなり目を細めた。
「……いい骨格だ。仕立て甲斐があるよ」
婚礼の衣装をふたり分。そう告げると、店の奥から弟子の娘が飛んできて、採寸が始まった。それが、妙に丁寧なのである。肩幅を3回測り、腕の長さを2回測り、胸囲でいったん手が止まる。
「いつまで測ってんだい」
「だ、だって師匠、規格外で……」
肩幅は1回測れば分かるでしょう。喉まで出かかった抗議を、蜂蜜パンと一緒に飲み込んだ。学習しない私ではない。
私の番では、白い生地を胸元に当てられた。窓の光を吸って、ふわりと柔らかい織り。どうかな、と振り返ると、ルークが黙ってこちらを見ていた。
「……変?」
「いや」
それきり短い。短いのに、目が逸れない。お婆さんが針箱を引き寄せて「決まりだね」と笑った。仮縫いは次の市の日。覚え書きの「どれす」に、ようやく道筋がついた。
帰り際の大通りは、夕市でいちばん混む時間だった。荷馬が通り、人波がぐっとこちらへ寄れる。ぶつかる、と身構えた瞬間、肩に大きな手が乗った。半回転。気づけば私は壁側を歩いていて、ルークが通り側に立っている。
「狭い道は、俺が外だ」
理由になっていない理屈を、当然の顔で言う。手はもう離れているのに、肩には布越しの熱が残ったままで、私はしばらく石壁の継ぎ目を数えて歩いた。
ふと、布物の露店の前にミーナの背中を見つけたのは、そのときだ。
手にしているのは、深い緑の織り布。男物の、肩に掛ける大きさの。ミーナは素早く銭を払い、籠のいちばん底へ仕舞って、上から薬草の束をかぶせた。その手際の、妙に慣れていること。
目が合いそうになって、私は慌てて夕空を見上げた。誰の分、とは聞かない。聞かないけれど、ミーナの家に男手はなかったはずである。……まあ、いいか。春だし。
帰りも荷車に揺られ、日がとっぷり暮れた森道を抜けて、月明かりに小屋の屋根が浮かんだところで、地面の奥から小さな雷のような足音が湧いた。
灰銀の弾丸が、土手を転げ落ちる勢いで爆走してくる。ピートだ。減速という概念を持たないので、最後は私の膝にどすっと着弾し、そのまま鼻先をパンの袋に突き立てた。ふんっふんっ、と鼻息が忙しない。
「はいはい、ただいま。約束のパンよ。……おまけ付き」
おまけ、の一言に自分でまた悶えたのは、ピートには内緒だ。
夜。机に今日の戦利品を並べる。生地の切れ端、仮縫いの約束、蜂蜜パンの残り半分。覚え書きの項目に、ひとつずつ丸がついていく。式が、少しずつ形になっていく。
「次は……『誓いの言葉』ね。本番までに練習しておかないと」
「練習が要るのか」
「要るの。いきなり本番で噛んだらどうするのよ」
ルークは少し考えて、頷いた。
「分かった。明日、言う」
明日。練習って、そういう気軽さで——いや待って。あの目で、正面から、誓いの言葉。
その顔で言われたら、練習の段階で私が立っていられる自信がない。




