第35話「指輪をはめる指がない」
覚え書きの「ゆびわ」の項目に、私は保留の印を3つ重ねていた。
結婚指輪は、左手の薬指に。人間の式でいちばん絵になる場面だ。問題はひとつ。ルークの左手の薬指は、ひと月の半分この世に存在しない。狼の前足にあるのは爪と肉球で、指輪を受け止めてくれる細い指はどこにもないのである。
ピートの言う通りだ。「るーく、おつきさまのよるしか、ゆびがないよ?」——まったくその通り。
そして答えを出したのは、私ではなかった。
その晩。夕食の片付けを終えると、ルークが棚の奥から小さな革包みを出してきた。机のランプを引き寄せ、向かいではなく私の隣に座る。包みをほどく手つきが、やけに丁寧だった。
中身は、白い欠片がふたつと、曇った小石が数個。
「……牙?」
「俺のだ。子どものころに抜け替わった」
「えっ。取っておくものなの、それ」
「狼族の習わしだ。乳牙は、群れの長が預かる」
ルークは欠片のひとつを摘まみ、ランプの光にかざした。先の尖った、三日月みたいな乳白色。
「番が決まると、長から返される。——相手に、渡すために」
「…………」
「今日、兄さんから受け取った」
言葉が出なかった。じゃあこの牙は、生まれたときからずっと、今日のために兄の手元で眠っていたわけだ。指輪なんて目じゃない。年季が違う。
「石は、縄張りの沢の上流で拾った。月の夜だけ、水の底で光る石がある」
手のひらに転がされた小石は、磨かれる前の半透明。それでも芯のところに、青白いものがひっそり灯っている。月長石だ、と前世の記憶が囁いたけれど、口には出さなかった。この石の名前は、この世界の沢だけが知っていればいい。
「牙と石を、紐に通す。指がない月は、首にかける。これなら狼でも落とさない」
「……それ、いつから考えてたの」
「ピートの授業の日から」
犬歯を親指で確かめていた、あの晩だ。なんでもない、と言った癖に。
その夜のうちに、ルークは石を磨き始めた。
ランプの灯りの下、砥石の粉を布に取り、小石を指先で挟んで根気よく円を描く。しゅ、しゅ、と擦れる音だけが部屋に降り積もる。
針仕事もフォークの持ち方も、あんなに不器用だった指が——石を挟む指先だけは、怖いくらい正確に動く。ランプの火がまつ毛の影を頬に落として、伏せた横顔は彫像みたいに動かない。銀の髪がひと筋、額からこぼれても払いもしない。
見てはいけないものを見ている気がして、私は何度も、読みもしない本のページをめくった。紙の音で我に返るのは、めくった本人である。
とん、とん。
ふいに、戸が控えめに鳴った。開けても誰もいない——と思ったら、戸の隙間の低いところに、ちいさな鼻先がにゅっと差し込まれていた。ふんふん、ふんふん。湿った鼻が忙しなく上下する。
「ピート。今日も練習帰り?」
灰銀の子狼が、するりと入ってくる。人化の練習は群れで毎日続けているらしく、帰りにうちへ寄って晩ご飯の残り香を確かめていくのが最近の巡回路だ。ピートは机の脚に前足をかけ、磨きかけの石へ鼻を寄せると、ふすーっと大きく息を吹いた。粉が舞う。
「こら。舐めない、吹かない」
ルークが石を握り込み、頭上に避難させる。ピートは不満げに鼻を鳴らしたものの、私が干し肉を出したとたん、世界のすべてを許す顔になった。現金な弟分である。
石が磨き上がったのは、翌日の夜だった。
「ローゼマリー」
呼ばれて隣に座ると、手のひらにそれが載せられた。
磨かれた月長石は、ランプの灯りの中でさえ、青白い光をゆらりと内側に泳がせていた。指先に吸いつくような滑らかさ。石の芯はひんやり冷たいのに、表面にはまだルークの手の温度が残っている。
「きれい……」
「月の色にした。——お前と、最初に見た夜の月だ」
銀灰色の目は、石ではなく私を見ていた。
拾われた狼が、初めて人になった、あの満月。石の奥で揺れる光は、たしかにあの夜の色をしている。
声の代わりに、石を握りしめた。視界がにじむのは、ランプの火が揺れたせいだ。そういうことに、しておく。
「牙と一緒に紐へ通す。式までに仕上げる」
革包みの上には、もうひとつの牙が残っていた。対の犬歯。ふたつでひと揃いの。
「ねえ、ルーク。そっちの牙——私が作っちゃだめ?」
磨きかすを払う手が、止まった。
「あなたの分。私が石を磨いて、紐を編んで、残りの牙と通すの。もらうだけなんて嫌。私も、贈りたい」
ルークはしばらく黙っていた。やがて革包みごと、残りの石と牙を私のほうへ滑らせる。
「……沢の石は、まだある」
それだけ言って、自分の作業へ視線を戻した。紐を撚る手の速さが、さっきの倍になっていたのは見なかったことにしてあげる。
私はその足で、ランプをもうひとつ机へ運んだ。夜の机に、灯りはふたつ。向かい合って、それぞれの石を磨く。しゅ、しゅ、と重なる音は、なかなか揃わない。私の円はすぐ歪むし、力を入れすぎて石が布から逃げる。あの不器用な指に追い抜かれる日が来るなんて、思いもしなかった。
「焦るな。月は逃げない」
「言うようになったわね」
磨きながら、頭の中で覚え書きの続きをめくる。「ゆびわ」の保留印は、もう消していい。となると、次は——。
「ねえ。ドレスは、どうしよう」
「どれす」
「式で着る白い衣装よ。さすがに森では調達できないわ」
「ミーナが言っていた。近いうちに、町へ買い出しに行くと」
「……ルークも、行く?」
「ああ」
軽い頷きに、私はふと気づいてしまった。人の姿のルークが、昼間の町を歩く。この銀髪が、人混みの真ん中を。
なんだろう。胸騒ぎというほどではないけれど、何かが起きる予感だけは、ひしひしとする。




