第34話「けっこんってなあに」
ルークは朝から狩りに出ている。満月の時期で昼も人になれるくせに、狩りだけは狼の足でやる主義らしい。帰りは夕方。それまでに式の支度の覚え書きでも進めようと机に向かった矢先、外から土を蹴る軽い音が近づいてきた。
とたたたた、ざしゃっ。
開け放しておいた戸口で、灰銀の子狼が滑り込むように止まる。ピートだ。口には野の花が1本、くたっとくわえられていた。
「いらっしゃい。それ、お土産?」
足元に、ぽとり。少々よだれつきだけれど、ちゃんと春の匂いがした。ありがたく窓辺の杯に挿す。
「今日が『けっこんの授業』の日でいいのね?」
ぶんぶんぶん。尻尾の返事は今日も元気だ。
床に腰を下ろして、開講。
「結婚はね、好きな人と『ずっと一緒にいます』って、みんなの前で約束することなの」
ピートは聞きながら、敷物の上をごろんごろん転がっている。右へ転がり、左へ転がり、仰向けで止まってこちらを見上げる。お腹が出ている。聞く姿勢としては自由すぎるけれど、耳はこちらを向いたままだから、聞いてはいるらしい。
「それで、式っていうお祝いをして、誓いの言葉を——」
「きゅうんっ」
ピートが急に鳴いた。転がるのをやめ、床を前足でかしかし掻く。言いたいことがあるのに言えない、もどかしさを全身で訴える顔。うーうー唸ったかと思うと、灰銀の毛並みがふわりと波打った。
小さな輪郭が光にほどけて、人の形に結び直される。敷物の上に、灰銀の髪の男の子がぺたんと座っていた。当然のように裸で。
「しつもんが、あるの!」
「質問の前に服!」
棚の奥から、例の古いシャツを引っ張り出す。ルークのお下がりだ。頭からかぶせると、布の中で子どもがしばらく行方不明になり、ややあって襟から顔だけが出てきた。裾は膝をとうに越えて、寝間着というよりもう貫頭衣である。本人は袖を2回折り返して、すっかり得意げだけれど。
「で、質問って?」
「あのね。けっこんすると、なにが、かわるの?」
「え」
「ろーぜまりーと、るーくは、いまも、いっしょにすんでるでしょ。ごはんも、いっしょでしょ。けっこんしたら、なにが、ふえるの?」
……初手から本質を突かれた。
「な、何が増えるかというと、約束が増えるの」
「やくそくって、めに、みえないよ」
「見えないから、式でみんなに見てもらうのよ。証人っていって」
「みんなが、みてたら、やくそく、やぶれなくなるの?」
「破りにくくは、なるわね」
「やぶるつもり、あるの?」
「ないわよ!?」
質問の切れ味が刃物すぎる。子どもは怖い。
その後も尋問は続いた。ゆびわってなあに。輪っかをお互いの指にはめるのよ。——るーく、おつきさまのよるしか、ゆびがないよ? ……そう。そうなのよ。私たちもそこで止まっているのよ。
ピートは納得のいくまで聞いては、考えるときだけ狼に戻って転がり、また人になって聞いた。早変わりの行ったり来たりに、こちらの目が回りそうになる。
「さいごの、しつもん」
居住まいを正したピートが、大きな青い目でまっすぐ私を見た。
「どうして、けっこんするの?」
「……好き、だから?」
「すきなら、けっこんしなくても、すきでしょ?」
詰んだ。前世の記憶を総動員しても、この問いに勝てる気がしない。
助け舟は、夕方に来た。
戸口の影が長く伸びるころ、銀色の大きな狼が獲物を提げて帰ってくる。土間に獲物を置いた狼の輪郭が、夕日の中でほどけた。琥珀の目が銀灰色に変わって、人の姿が立ち上がる。手早く服を着て食卓につくまでの一連に、こちらはもう慣れた——はずなのに、夕焼けを背負った銀髪は何度見ても心臓に悪い。
夕食はピートも一緒だった。鹿肉のスープの湯気の向こうで、ピートが今日一番の難問を再演する。
「るーく。どうして、ろーぜまりーと、けっこんするの?」
来た。私が完敗した問いだ。さあどう答える、と匙を握って見守る。
ルークは匙を置いた。考える間も、照れる間もなく、まっすぐピートの目を見て言う。
「一生、隣にいると約束することだ」
「けっこんが?」
「そうだ。俺は、それがしたい」
真顔だった。当たり前の事実を確かめる声で、夕飯の席で、この男はそれを言うのだ。
質問したのはピートなのに、被弾したのは横の私だった。スープの味が急に分からなくなる。湯気のせいか心臓のせいか、頬まで一気に温度が上がった。
「……るーくは、つよいね」
ピートがしみじみ言った。何の強さの話かは分からないが、たぶん合っている。
それからピートは、スープの皿をしばらく見つめて黙っていた。やがて、顔を上げる。
「ぼくも、しきに、でる」
「もちろんよ。群れのみんなと一緒に——」
「ちがうの」
小さな手が、ぐっと握られた。
「ひとのすがたで、でる。ちゃんとたって、おいわい、するの」
言葉に詰まった。式は満月の夜。ピートの人の姿は、まだ半日しかもたない。朝に人になってしまえば、夜までは届かない。
「ピート、あのね、無理は」
「きたえる」
即答だった。誰かさんの即答癖が、ちゃっかり弟分にうつっている。
「まいにち、れんしゅうする。ながく、ひとで、いられるように。……だめ?」
だめなわけがない。隣を見ると、ルークが頷くより先に手を伸ばして、ピートの髪をくしゃりと撫でた。
「なら、倒れる前にやめろ。続ける奴が、いちばん遠くへ行く」
「うんっ」
返事の威勢はよかったが、当の本人は宣言から間もなく、こてんと舟を漕ぎ始めた。あ、と思う間もなく輪郭が光って、シャツがしぼむ。襟ぐりから、灰銀の子狼がもそりと顔を出した。時間切れ、というより使い切れだ。人と狼を何度も行き来した分、早く尽きたのかもしれない。
敷物の上で丸くなった毛玉に、毛布をかけてやる。群れへ送るのは、明日の朝でいいだろう。
「式まで、ひと月もないわ。間に合うかな」
「あいつは諦めない。俺の弟分だ」
断言して、ルークは暖炉の前に座った。それきり黙って、火を見ている。と思ったら、親指の腹で自分の犬歯にそっと触れた。何かを確かめるような、測るような手つきで。
「ルーク?」
「……なんでもない」
なんでもなくはない顔だった。けれど、今夜は追及しないでおく。指輪の答えはまだ出ていないまま、この男の中で何かが静かに動き始めている。
窓の外では、欠けていく途中の月が、寝息を立てる毛玉と火の前の背中を白く照らしていた。




