第33話「式は、二回やる」
翌日は、雲ひとつない昼になった。
群れへ、式の話を通しに行く。そう決まった日に限って、私は朝から落ち着かない。手土産の干し肉を包み直すこと3回。服を選び直すこと2回。鏡の前で襟元をいじっていたら、ルークに「そのままでいい」と真顔で言われ、余計に落ち着かなくなった。
森の奥、群れの縄張りまでは歩いて小一時間。満月の時期のルークは昼でも人の姿だから、今日は2本足が隣を歩いている。木漏れ日と、芽吹いたばかりの葉の青い匂い。義理のお兄さんへの挨拶に行く道としては、上出来すぎる天気だ。
森を半分ほど進むと、沢に出た。雪解けの名残で水かさが増えて、飛び石が半分沈んでいる。
「靴、脱いだほうがいいかな」
言い終わる前に、手が差し出されていた。
「掴まれ」
……はい。
手を取ると、ルークは先に石へ乗り、私の歩幅に合わせて1歩ずつ導いてくれる。水音が足元で弾けて、指の間を抜ける風は冷たいのに、重なった手のひらだけが熱い。
最後の石から、岸へ。
「渡れた。ありがと」
手は、離れなかった。
「……ルーク?」
「この先も足場が悪い」
そう言って、前を向いたまま歩き出す。嘘ではないのだろう。ないのだろうけど、沢から先の道は、どう見ても平らで歩きやすい獣道だった。
指摘するべきか。やめておいた。私だって、離してほしいわけじゃない。
縄張りの入り口で、最初の1頭が茂みから現れた。続いて2頭、3頭。気づけば灰色や茶色の毛並みに、ぐるりと囲まれていた。
囲まれた、といっても怖くはない。むしろ歓迎の渋滞である。狼たちは順番に近づいてきて、冷たい鼻先を私の手のひらや頬にちょん、と当てていく。狼族の挨拶だ。ひんやり、ちょん。ふかふかの首元が腕をかすめて、日なたの毛の匂いに包まれる。一年かけて、私はこの群れの「挨拶していい人間」になったらしい。光栄すぎる。挨拶だけで今日の用事が済んだ気になってしまう。
足元では灰銀の子狼——ピートが、興奮のあまり自分の尻尾を追ってくるくる回っていた。
ふいに、群れの輪が割れた。
奥から黒い巨体が歩いてくる。グリム。群れの長にして、ルークの実のお兄さん。グリムが人になるのは満月の夜だけだから、昼の今は狼の姿だ。金色の目が、私とルークと、繋がれたままの手を順番に見た。
手。手! 今ここで見られるのは順番が違う!
慌てて離そうとしたら、逆に握り込まれた。ルークが繋いだ手ごと、私を自分の隣へ引き寄せる。
「兄さん。報せた通りだ」
群れじゅうの耳が、いっせいにこちらを向く。その真ん中で、銀灰色の目は少しも揺れなかった。
「ローゼマリーは、俺の番だ」
風が止まった気がした。狼たちの視線。昼の光。繋いだままの手。逃げ場が、どこにもない。
頬に熱が駆け上がる。せめて堂々としようと背筋を伸ばしたのに、出てきた声は「よ、よろしくお願いしますっ」と、新人の挨拶みたいに裏返った。
ぱたぱたぱた、と方々で尻尾が地面を叩く音が起きる。拍手の代わりだろうか。やめて。余計に恥ずかしい。
「式をやる。群れの定法を教えてくれ」
ルークが続けると、グリムはしばらく動かなかった。やがて喉の奥で、低く長い音を鳴らす。唸りとは違う、お腹の底に響く音。耳が動いて、尻尾がゆっくり一往復した。
「……だ、そうだ」
「待って。今ので何が分かったの」
「番の儀は、満月の前夜にやる。狼の姿で、群れの全員で月に鳴く。それが掟だ」
「絶対もっと短かったでしょ、今の音!」
「狼の言葉は速い」
そういうものらしい。通訳が実の弟なので、信じるほかない。
満月の前夜。つまり、ルークもまだ狼でいる夜だ。言葉のない、狼たちの式。想像したら、胸の奥が静かに震えた。月明かりと遠吠えだけの、人間の誰も知らない式。
——でも。
「あの、グリム。私、人間の式もやりたいの。誓いの言葉とか、衣装とか。……番の儀があるのに、欲張りかな」
言い終わる前に、隣から声が降ってきた。
「式は、2回やる」
迷いも照れもない、即答だった。
「狼の式と、人間の式。お前は両方の世界にいる。なら、式も両方だ」
……この男は本当に、こういうことを呼吸みたいに言う。目の奥がつんとした。泣くには、まだ早すぎるのに。
グリムが、鼻から長く息を吐く。了承——だと思う。それから黒い巨体はルークのほうへ首を伸ばし、何かを言いかけるように口を開けて——結局、何の音も出さなかった。
代わりに、額をこつんとルークの肩に当てる。一瞬だけ。すぐに離れて、何事もなかった顔で森の奥へ向き直った。
今のは、狼の言葉ですらなかったんだろう。通訳のルークも、今度ばかりは訳さない。ただ、繋いだ手に少しだけ力がこもった。
帰り際。木の陰から、にゅっと小さな頭が突き出た。灰銀の髪に、大きな青い目。人の姿に変わったピートだ。体は木に隠したまま、顔だけ出して叫ぶ。
「ねえ! けっこんって、おいしいの!?」
「……どこから聞いてたの」
「ぜんぶ! けっこんってなに!? しきってなに!? つきにないて、どうなるの!?」
質問が団子になって転がってくる。これは長くなるやつだ。
「今度ゆっくり教えてあげる。約束」
「やくそく!」
帰り道、ルークの手は結局、小屋の屋根が見えるまで離れなかった。足場のいい春の獣道を、最初から最後まで。
満月の前夜に、狼の式。満月の夜に、人間の式。ミーナへの報告に、村の教会への話。衣装も料理も要る。指折り数えるそばから、足が勝手に速くなる。やることは山積みなのに、ひとつも憂鬱じゃない。
式の支度は、もう始まっている。




