第32話「なぜ紙が要るんだ」
約束の朝は、もふもふの来客から始まった。
扉の下を引っかく音に気づいて開けると、灰銀の毛玉が足元へ転がり込んでくる。ピートだ。子狼の姿のまま私の周りをぐるぐる2周して、それから当然の顔で、椅子に座った私の膝へよじ登ってきた。
「おはよう、ピート。今日は狼なのね」
ぶんっ、と尻尾が回る。返事のつもりらしい。人の姿はまだ半日しかもたないから、朝のうちは狼で力を温存しているのだろう。膝で丸くなった体は綿毛みたいに軽くて、春の日なたの匂いがした。
「報せを聞いて、お祝いに来てくれた?」
ぴゃう、と高く鳴いて、膝の上でもう一回転。かわいい。朝からご褒美をいただいてしまった。
「ピート。そこはお前の席じゃない」
テーブルの向かいから低い声が飛ぶ。人間の姿のルークだ。満月の時期はこうして、昼間の食卓を人間同士で囲める。ちなみに今朝の献立は鹿肉のスープ。昨日の今日である。当分は鹿づくしだ。
ピートは聞こえないふりをして、私の膝にいっそう深く沈み込んだ。賢い子だと思う。
さて。昨日の約束を、果たさなければ。
「お待たせしました。人間の結婚講座、開講です」
薬の覚え書きに使う紙を1枚、それからペンとインク。膝の上のピートは、騒ぎ疲れたのかもう寝息を立てている。
紙の真ん中に「結婚」と書いて、線を4本伸ばした。指輪。式。誓い。届け出。我ながら薬草の手順書みたいな図だけれど、順序で覚える狩りの民には案外この方式が通じる。
「まず、式。人を集めて、皆の前で誓って、祝ってもらうの」
「遠吠えと同じか」
「……言われてみれば、近いかも」
群れ中に響かせて、皆に知らせる。本質は人間も狼も、そう変わらないのかもしれない。
「次が誓い。『一生隣にいます』って、言葉にして言うの」
「もう言った」
「式でもう一回言うものなの!」
「……そうか」
腑に落ちない顔のまま、ルークが図の最後の枝を指した。
「それで、これが届け出。『結婚しました』って紙に書いて、国の帳面に載せてもらうの」
ルークの眉が、はっきり寄った。
「なぜ紙が要るんだ」
「え」
「俺とお前がつがいなのは、事実だ」
「うん」
「群れは知ってる。ミーナも知ってる。お前も俺も知ってる」
「うん」
「事実があるのに、なぜ紙が要る」
ど正論だった。狼の世界に紙はない。あるのは事実だけ。誰と誰がつがいかなんて、匂いと遠吠えで森中に知れ渡る。
「人間はね、数が多すぎるの。国中の誰と誰が夫婦か、匂いじゃ分からないでしょ。だから国の帳面につけておくの」
「帳面が間違えたら」
「な、直してもらう……はず」
「紙は、嘘も書けるだろう」
「書ける。書けるから、自分の手で名前を書くの。署名といって、『これは確かに私です』という印」
納得したのかしていないのか、ルークが紙へ顔を寄せた。
近い。
図を覗き込む銀色の頭が、私のすぐ横にある。前髪の先が、さらりと頬をかすめた。インクの匂いに、森と日なたを混ぜたみたいなルークの匂いが重なる。
「この届け出は、どこへ出す」
「え? あ、えっと、紙を」
「紙を?」
「……何の話だっけ」
「届け出」
いけない。説明の中身が頭からこぼれていた。距離の暴力である。椅子ごとそっと2センチ下がって、咳払いをひとつ。
「と、届け出は役場に出すの。でもこの辺境に役場はないから、村の教会ね。月に一度、巡回の神父様が帳面を預かってくれるって。ミーナ情報よ」
「月に一度」
「そう。狼族よりよっぽど月に縛られてるのよ、人間の制度って」
ルークが、とん、と紙の端を指で叩いた。
「署名は、名前を書けばいいんだな」
「そう。練習してみる?」
見本として、紙の隅にふたり分の名前を書いた。ルーク。ローゼマリー。ペンを渡すと、ルークは短剣でも握るみたいな手つきで構え、見本をじっと睨む。獲物を観察する目だ。文字相手にその集中力を出すのか。
ペン先が、ゆっくり動き出した。
——驚いた。
綺麗なのだ。線の太い細いまで見本そっくりで、今日ペンを握ったばかりの手とは思えない。下手をすると、私の字より整っているのでは?
「なんで書けるの……」
「形を覚えるのは得意だ。足跡と同じ」
「人間の文字を足跡と一緒にしないで……」
文句の続きは、出てこなかった。
ルークがふたつ目の名前を書いている。ローゼマリー、と。自分の名前のときよりペンの進みが慎重で、一画ずつ、壊れ物を運ぶみたいにゆっくりで。
書き上がった紙の上に、ふたりの名前が並んでいた。
ただの墨の線なのに、目が離せない。署名の練習。それ以上でも以下でもないはずなのに、紙の上で隣り合った名前がもう小さな届け出みたいに見えて、頬が勝手に熱を持つ。
「見すぎだ」
「みっ、見てない。上手だなって思っただけ」
「そうか」
ルークはその紙を取り上げ、折り目を丁寧にそろえて畳むと、胸元にしまった。
「練習用なのに、しまうの?」
「初めて書いた、お前の名前だ」
……この男は、こういう台詞を当たり前の顔で言う。心臓がいくつあっても足りない。
動揺を悟られる前に、次へ進もう。
「残るは指輪です。金属の輪っかを、お互いの左手にはめ合うの。一生外さない人もいるわ」
「左手」
ルークが自分の左手を広げた。長い指を1本ずつ、確かめるみたいに折っていく。
「どの指だ」
「薬指。端からふたつ目の——」
言いかけて、気づいてしまった。たぶん、ルークも同じ瞬間に気づいた。
……その指、満月の時期にしか生えていなくない?
沈黙が落ちる。ルークは広げた手を見たまま固まり、私は脳内に銀色の狼の前足を思い浮かべて固まった。前足。肉球。指輪——入らない。仮に入っても、駆けた瞬間に森のどこかへ飛んでいく。
「…………月のない日は」
「……指が、ない」
くぅ、と膝の上でピートが寝言を挟んだ。張り詰めた沈黙が、少しだけ緩む。
「か、考えるのは後にしましょう。指輪には代わりの形だってある、たぶん。うん」
「ん」
頷きはしたものの、ルークはまだ自分の手をにらんでいる。負けず嫌いの顔だ。この件、本人の中で何かが始まってしまった気配がするけれど、今は気づかないふりをしておく。
やがてルークが顔を上げた。銀灰色の目が、まっすぐこちらを向く。
「式のことは分かった。なら、群れにも報せる」
「つがいになったことは、もう報せたでしょう?」
「式をやると報せる。群れには群れの式のやり方がある。……明日、グリムに話を通す」
グリム。群れの長にして、ルークの実のお兄さん。それはつまり。
「それって、お義兄さんに結婚のご挨拶では?」
「そうなる」
軽く頷いてくれるけれど、こちらの背筋は一気に伸びた。義理の兄への挨拶。人間でも狼でも、世界で一番緊張する儀式に違いない。
膝の上では、ピートが呑気な寝息を立てている。その度胸、明日は私に分けてほしい。




