第31話「玄関に鹿がある」
朝、玄関を開けたら鹿がいた。
いや、違う。鹿が「ある」。立派な角の雄鹿が1頭まるごと、扉のすぐ前に横たえてある。
寝ぼけているのかと思って、一度扉を閉めた。深呼吸して、開け直す。
鹿はまだある。
そしてその隣に、銀色の狼がお座りしていた。胸を張り、尻尾が地面を堂々と掃いている。朝日を受けた毛並みはつやつやで、口元には『どうだ』と書いてあった。
「……ルーク。これは何」
尻尾の振りが大きくなる。説明する気はあるらしいけれど、あいにく今のルークは喋れない。今朝は狼の姿なのだ。満月の時期は昼でも人間でいられるはずなのに、夜明け前に出ていくときは四本足だった。狩りと、群れへの報せに行くから。森を駆けるなら狼、というのがこの男の使い分けである。
「何って聞いてるの。どうして玄関に鹿が」
ルークは鹿と私を交互に見て、誇らしげに鼻先を上げた。だめだ。会話が成立しない。
幸い、今日はミーナが薬草を取りに来る日だった。
ミーナは玄関の鹿を見るなり噴き出した。
「あらまあ、立派なこと」
「笑ってないで助けて。朝起きたら鹿があるの」
「求婚されたのね、あなた」
「それは昨夜——って、なんで分かるの」
「狼族の風習よ。求婚した男は相手に獲物を届けるの。『一生食わせていける』っていう証明。獲物が大きいほど本気」
ミーナが鹿の角をこつんと叩く。
「雄鹿1頭まるごと。ふふ、本気も本気じゃない」
顔が熱くなった。昨夜の月明かりの求婚だけでも頭が沸騰しそうだったのに、翌朝には食料で誠意を示してくるとは。狼族、行動が早い。
「ところであの子、最近、人でいる時間が延びてるんじゃない?」
「え……言われてみれば、そうかも」
「番が決まると心が据わるからね。心が据わった分だけ、月の力の持ちがよくなるの。これからもっと延びるわよ。——よかったわね、昼間のいい男が長持ちして」
「ミーナ!」
「おめでとう、ローゼマリー」
からかい顔のまま、ミーナの声だけがふっと柔らかくなった。
「あの子を拾った日から、こうなる気はしてたのよ」
「……ありがと」
照れ隠しに鹿を見下ろして、現実に戻る。
「で、これ、どうするの」
「どうするって、食べるのよ。さばいて、干して、塩に漬けて。春とはいえ生ものだもの、今日中にやるわよ」
大変な一日が始まった。
白状すると、私は鹿をさばけない。前世は動物病院の看護師だったから、動物の体の中身はそれなりに知っている。でも知っているのは「治す」ための体で、「いただく」ための手順はまるで別物だ。皮の剥ぎ方ひとつ分からない。
その点、ミーナは手慣れていた。袖をまくって小刀を構え、迷いのない手つきで作業を進めていく。
「薬師は獣の世話もするの。ほら、ぼさっとしない。桶」
「はい桶」
「次、塩」
「はい塩」
私はほぼ助手だった。前世の知識が役に立ったのは「内臓の名前が全部言える」ことくらいで、それも「名前はいいから手を動かす」と一蹴された。ごもっとも。
昼を過ぎる頃には、小屋の裏に肉の塊がずらりと吊るされ、塩漬けの樽がふたつ並んだ。脂の匂いが髪まで染みて、腕はぱんぱんだ。
「食べきれない分は村にお裾分けなさい。肉と一緒に、あなたたちの祝い話も広まるわ」
「話まで配らなくていいから!」
夕方、ルークが戻ってきた。
森の縁から駆けてくる銀色を見つけた瞬間、疲れが少し軽くなるのだから現金なものだ。群れへの報せは済んだらしく、足取りが弾んでいる。
ルークは吊るされた肉と樽を順に検分して、琥珀色の目を満足げに細めた。仕上げに尻尾がくるんと一回転。それから玄関先に座り込み、前脚を念入りに舐め始める。毛づくろいだ。完全に、仕事を終えた男の顔である。
「お疲れさま。運んだのはあなたで、さばいたのはミーナと私だけどね」
尻尾がぱたんと床を打った。労いは受け取るらしい。
日が落ちて、夕食を済ませた頃。ルークは人の姿に戻った。
「ねえ、あの鹿の意味、ミーナに聞いたよ」
暖炉の薪がぱちりと爆ぜる。ルークの肩がかすかに揺れた。
「でも、あなたの口からも聞きたい」
意地悪だろうか。少しだけ意地悪かもしれない。朝から鹿と格闘した分くらいは許されたい。
ルークは暖炉の火を見たまま、口を開いた。
「狼は、つがいに獲物を届ける」
「うん」
「獲れるところを見せる。……これから先、お前を」
そこで声が、ひとまわり小さくなった。
「……飢えさせない、という意味だ」
最後はほとんど呟きで、視線は薪のほうへ逃げている。昨夜あれだけまっすぐ求婚した男が、風習の解説ひとつで縮んでいる。直球は投げられるのに、解説は照れるらしい。何それ。
胸の奥がきゅうっとなって、笑いを噛み殺すのに失敗した。
「ふ、ふふ」
「笑うな」
「笑ってない。嬉しいだけ」
本当だ。塩と脂にまみれた一日の終わりにこの声が聞けるなら、鹿の100頭でも——いえ、嘘です。100頭は困る。保存が追いつかない。
「でも次から、獲物は一言予告してね。扉を開けて鹿と目が合うと寿命が縮むの」
「ん」
「それと」
火に照らされた横顔を見ながら、ふと気づいた。狼族の風習は、これでひとつ覚えた。だったら、今度はこちらの番ではないだろうか。
「人間の結婚も、教えなきゃね。指輪とか、式とか、いろいろあるのよ」
「ゆびわ」
「そう。明日ゆっくり説明します」
ルークは頷いて、それから真顔で付け足した。
「鹿は要るか」
「鹿はもういい!」
小屋の裏には、当分なくならない量の干し肉。教えることは、山ほどある。私の春は、思っていたよりずっと賑やかになりそうだ。




