第30話「つがい、って何?」
夕暮れから、ルークが落ち着かない。
銀色の狼が小屋の中を行ったり来たりしている。窓辺で空を見上げたかと思えば暖炉の前に戻り、座ったと思えばまた立ち上がる。本人は平然としたつもりらしいけれど、尻尾が正直だ。ぱた、ぱた、と床を叩く音が夕方から一向に止まらない。
「月は逃げないわよ」
声をかけると、聞こえないふりをして私の足元に来た。膝に顎を載せてくる。銀色の毛に指を埋めると、ふわりと沈んで指先が見えなくなった。冬毛の名残のもふもふ。今夜はこの感触としばらくお別れになる。
今夜は、満月だ。
——この狼は、満月の夜に人間になる。
最初に見たときは薬草の鍋を取り落とした。森で拾った傷だらけの狼が、月の光の中で銀髪の青年に変わったのだから無理もないと思う。王子様に断罪されて森に追放された元悪役令嬢に、こんな展開があるなんて誰が予想できた?
あれから一年。傷はとっくに治って、それでもルークはここにいる。そして2週間前の夜、私はおねだりをしてしまった。
『次の満月になったら、また言ってね。人間の声で』
言った本人が、この2週間そわそわしっぱなしだった。薬草の束を何度も数え間違えて、ミーナに「恋わずらい?」とからかわれたのは内緒だ。
窓の外が銀色に明るくなる。
月が、昇った。
ルークが立ち上がる。毛並みが光をまとって、輪郭がほどけていく。何十回目でも、ここで息が止まる。
光が収まると、銀髪の青年が立っていた。
「服」
「はいはい」
クローゼットの右側——一年かけて増えた、ルーク専用の側から服を出して渡す。背中を向けている間に衣擦れの音がして、振り返るとボタンも正しく留まっていた。最近は手際がいい。
「ローゼマリー」
「うん」
「外に」
短い。相変わらず短い。でもその短さの奥に何があるか、もう知っている。
小屋の前に出ると、夜気がひやりと頬に触れた。扉の脇のローズマリーの茂みが、夜の匂いを濃くしている。月は真上。森中の葉が一枚ずつ銀色に光っている。
ルークが隣に立った。それから、まっすぐ私を見る。
「ずっとここにいる」
……来た。注文どおり、人間の声。低くて少しかすれた、あの声。心臓が跳ねる。
「うん」
「それで——」
ルークが一度言葉を切った。珍しい。直球しか投げない男が、ためている。
「つがいに、なってほしい」
「…………つがい?」
つがい。
知っている単語のはずだ。前世は動物病院の看護師である。つがいといえば、あれだ。繁殖期の鳥かごの——オスとメスの——ペアの——。
「えっと、誰と誰が?」
「俺とお前だ」
「私、鳥じゃないけど」
「狼の話だ」
会話が噛み合っていない。ルークは大真面目で、私は大混乱だ。狼のつがい。狼のつがいって、つまり、何?
「ごめん、狼族の常識が分からないの。つがいって、何?」
ルークが私を見下ろした。月明かりが真上から降って、銀色の髪と長いまつ毛、まばたきもしない銀灰色の目を照らしている。冗談の気配がひとつもない顔。
「狼は、一生にひとりしか選ばない」
「……うん」
「選んだ相手と、死ぬまで群れる。狩りも寝床も、年を取るのも一緒だ。それがつがい」
低い声が、冷たい夜気を静かに震わせる。
「人間の言葉で何と言うのかは、知らない。だから狼の言葉で言う。——俺のつがいになってほしい」
……。
…………。
それ、求婚では?
顔に一気に血が昇った。耳まで熱い。さっきまで夜気が冷たかったのに、今は頬だけが燃えている。一生にひとり。死ぬまで一緒。それを、この真顔で、月明かりの下で。
「ちょ、ちょっとお茶を淹れてくる」
「逃げるな」
踵を返しかけた手首を、そっと掴まれた。
強くない。振りほどこうと思えばほどける、それくらいの力。大きな手のひらの温度だけが、手首にじんわり移ってくる。
「返事は」
「に、逃げてない。お茶は大事でしょう」
「返事は」
二回目。逃がす気がない。手首を掴んだまま、銀灰色の目がじっと待っている。
深呼吸をひとつ。夜の匂いとローズマリーの匂いを、肺いっぱいに吸い込んだ。
考えるまでもない。答えなんて、2週間前から——ううん、もっとずっと前から決まっている。
「……なる」
「ん」
「つがいに、なる。一生にひとりの、それになる」
言い切ってから、自分の声の大きさが恥ずかしくなった。ルークの手が手首から滑って、指を握り込んでくる。
見上げた顔は、真顔のままだった。真顔のまま、耳だけが赤い。
「あなた、耳真っ赤」
「お前は全部赤い」
「誰のせいだと思ってるの!」
月の下で、握られた指に力がこもる。温かい。狼のときの体温と、同じ温かさ。
——王子様に捨てられた悪役令嬢が、森で狼に求婚される。
前世でやり込んだ乙女ゲームのどこを探しても、こんなルートはなかった。でも断言できる。全ルートの中で、ここが一番いい。
「ところでルーク」
「何だ」
「人間の言葉だとね、それ、『結婚してください』って言うの」
「けっこん」
「そう」
ルークは少し考えてから、言い直した。
「結婚してください」
「〜〜〜っ、二回目は不意打ちすぎる!」
覚えたてを即使うのはやめてほしい。心臓がもたない。
森の奥から、遠吠えがひとつ、長く響いた。グリムの声だ。満月の夜の、いつもの歌。
ルークがそちらへ顔を向けて、それから言った。
「明日、群れに報せる。俺の——」
「わーわー! もういい、分かった、分かったから!」
今夜はもう、これ以上心臓に直球を受けたら倒れてしまう。
満月はまだ高い。火照った頬に、春の夜風がやけに優しい。




