2.思い出
イリヤがルディと出会ったのは、十二歳の冬だった。
侯爵家の娘として、孤児院への慰問に訪れた日のこと。
孤児たちに菓子や冬用の衣服を渡し、院長に挨拶をして。役目を終えたイリヤは、迎えの馬車へ向かっていた。
そのときだった。
孤児院の脇にある、薄汚れた路地。そこに、小さな人影が倒れ込んだ。
「……子ども?」
イリヤよりもずっと小さい。10歳くらいだろうか。赤毛のボサボサ頭。
薄汚れた服。痩せ細った身体で、顔色も悪く、とてもまともに歩けるようには見えなかった。
「大丈夫?」
駆け寄って声をかけても、返事はない。
私は孤児院へ連れていくことを考えた。けれど、この子の状態を見れば、孤児院では手に負えないだろう。
それなら。
「……私の家に連れていこう」
侯爵家には、お抱えの医師がいる。少なくとも、この子を死なせずに済むかもしれない。
そう思った。
連れていた使用人には顔をしかめられたが、責任は自分が持つと押し通した。
「どうしてそんな汚い子を屋敷に入れるのです」
屋敷へ戻るなり、使用人たちからあからさまに、嫌な顔をされた。
当然だった。
泥にまみれた、身元も分からない子ども。それでも、見殺しには出来ない。
医師に診せると、ひどい栄養失調だった。
幸い、命に別状はない。けれど、しばらく安静にして栄養をつける必要があるという。
この子を寝かせる部屋は準備されなかった。
「では、私の部屋で休ませます」
そう言った。
使用人たちはますます嫌な顔をしたが、イリヤがそう命じれば従うしかない。結局、その子はイリヤの部屋で療養することになった。
イリヤ自身、家族から大切にされているわけではなかった。
母は亡くなり、母と不仲だった父は、イリヤを見るたびに母を思い出すのか、どこか忌々しそうな顔をした。
愛されなかった前妻の娘。
それがイリヤだった。
侯爵家の娘として必要な教育こそ受けさせられていたものの、身の回りのことはほとんど自分でしていた。
だから、その子の世話をすることに、それほど困ることはなかった。眠っている姿を、何度も確認した。
「……ん」
小さな声がした。
ベッドを見ると、少年が、ゆっくりと目を開け、ぼんやりとイリヤを見つめた。
そして、その瞳は、金色だった。
澄んだ金色。
竜は金色の瞳を持つと言われている事を思い出したが、実際に竜の瞳を見た人は数えるほどで、真偽はわからない。
イリヤはそれに関してすぐ、興味をなくし、
「あなた、お名前は?」
そう尋ねた。少年は少し考えてから答えた。
「……ルディ」
「ルディ?」
「うん」
それが、彼の名前だった。
それから少しずつ、ルディは元気になっていった。
やがてベッドから起き上がれるようになり、部屋の中を歩けるまでになった。
気づくと、あの金色の瞳は、どこにでもいるような茶色へと変わっていた。ルディは、自分から何かを語ることはなかった。
それでいいと思った。
イリヤたちは一緒に過ごした。ほとんど部屋の中で。人目のある場所では、身分の違う子どもと侯爵令嬢が一緒にいることをよく思われない。
だから、夜を待っては厚着をして二人でこっそり庭へ出た。
月明かりの下を歩いた。
澄んだ空気の中、星を見上げた。
そんな何気ない時間が、イリヤは楽しかった。
ある日のこと。ルディがイリヤの髪に触れた。
「触ってもいい?」
「髪?」
「うん」
不思議に思いながら、イリヤは頷いた。ルディは私の長い金色の髪を、そっと指に絡めた。
「綺麗」
「……そう?」
「うん。キラキラしてる。好き」
この髪は、母譲りだった。けれど父は、この髪を見るたびに眉を顰めた。
この髪は父にとって嫌悪の対象だった。だからイリヤは、自分の髪を褒められたことがなかった。
嬉しい。
イリヤは頬を染めた。
ルディに髪を梳いてもらいながら。
イリヤは初めて、自分の髪が好きになれた。
十三の春。
イリヤと王太子殿下の婚約が決まった。
「お前に拒否権はない。」
父はイリヤにそう言った。
その日から、イリヤを取り巻く環境は一変した。王太子の婚約者になったことで、教育は厳しくなった。行動も制限され、すべてを管理されるようになった。
そして、ルディと引き離された。
「ルディは?」
「あれの事は忘れろ」
そう言われた。
ルディをどうするのか、父に尋ねた。
「うちの事を知りすぎているし、外には出せん。始末するのも手だろう」
父の冷たい声。
「……!」
冗談かもしれなかったが、血の気が引いた。
「やめてください!」
イリヤは必死に父へ縋ったが、ルディは捕まり、地下牢へ連れていかれ、閉じこめられた。
イリヤは、夜中、こっそり抜け出し、地下牢の扉を開けた。鍵はスライド式で外側につけられており、外側からなら簡単にあいた。
頑丈な扉を開き、ルディに駆け寄る。幸い、大きな怪我はないようだ。
「ルディ、逃げて」
イリヤは震える声で言った。
ルディは私を見つめた。
そして。
「一緒に行こう」
そう言った。
「二人で、ここから逃げよう」
胸が、締めつけられた。
行きたかった。
本当は、何もかも捨てて、ルディと一緒に行きたかった。
しかし、イリヤは首を横に振った。
「……行けない」
「どうして?」
「私たちはまだ子どもよ。それに、私は王太子殿下の婚約者だから」
冷遇されていた。
愛されてもいなかった。
それでも。
イリヤには侯爵家の娘としての責任がある。国のために結ばれた婚約を、勝手に捨てることはできない。
イリヤには、見えない鎖がついていた。
家という鎖、身分という鎖、婚約という鎖。
そして、責任という鎖。
それに、きっと私は足手纏いになる。
ルディだけなら、きっと、逃げ切れる。
「ごめんね、ルディ。大好きよ」
ルディは静かに泣いていた。
綺麗な瞳から、涙が零れる。
「……いつか」
ルディは睫毛を伏せ、言った。
「いつか、迎えにくる」
睫毛を伏せたまま、涙がまた一つ流れる。
「必ず迎えにくるから」
まっすぐにイリヤを見つめる、ルディの瞳は金色だった。
「……ルディ」
私に、約束をくれるのね。
イリヤも、泣きながら笑った。
「待ってる」
本当は、私は、ルディとはもう会えない。
分かっていた。
そんな約束をくれる、優しい優しい、小さなルディが愛しくて仕方なかった。
それでもイリヤは、彼の手を取らなかった。
ルディに、かき集めた少しのお金と、わずかな食料を渡して逃し、イリヤは部屋に戻り、泣いた。
明日からは、もう、泣かない。




