31 『ラグニール・ブルース』
その日は突然、訪れた。
知らせを聞いたプリムは、受け持ったハンターそっちのけで医務室へ走り出し、高鳴る動悸を抑えられずにいた。
「おう、嬢ちゃん。どうした?そんなに慌てて」
ベッドの上に身を起こしていたミラが、軽く手を上げた。そのあまりにもいつも通りの対応に、先に来ていたガルドたちを押しのけ、プリムはミラの胸へ飛び込んだ。
「ちょっと…!」
声を上げようとするネリーネを、ガルドが手で制する。二人はそれ以上、何も言わず、ミラたちに断って部屋を後にした。しばらくミラに抱き着いていたプリムだったが、ようやく涙をぬぐうと、努めて明るくミラに笑顔を向けた。
「…すいません。私ったらつい…」
「まったくだ。ちっとは逞しくなったと思ったけど、まだまだ嬢ちゃんは嬢ちゃんだね」
ミラにからかわれ、プリムは一瞬顔を赤くする。だが、改めてミラの姿を観察し、その表情はすぐに曇った。
一ヶ月もの間寝たきりだったせいか、その頬はひどくやつれている。言葉の端々にも力がなく、何より、右手に幾重にも巻かれた包帯が、プリムの不安を煽った。
「——あの、もう大丈夫なんですか?」
視線に気づいたミラが、腕を回して見せる。
「ああ、大げさに巻かれちゃいるけど、こうしてちゃんと動くよ」
そう言ったきり糸が切れたように、ミラは言葉を噤んでしまった。
聞きたいこと、言いたいことが山とあったはずのプリムも、そんなミラにかける言葉を見つけられず、病み上がりの彼女を気遣ってその場を退散した。
終業後も、プリムは仲間たちを連れ立って再びミラに会いに行った。だがミラは、彼女たちの言葉に短く相槌を返すだけで、以前のような覇気がまるで感じられない。
他の少女たちもその異変に気付いたのだろう。何を言っても笑うどころか、怒ることも、呆れることもしない。向けられた瞳には何の光も宿っておらず、まるで精巧に作られた人形に話しかけているような、薄ら寒い心地さえ覚え、その日はすぐに解散となった。
それからも毎日、プリムは医務室へ通い詰めた。しかしどんなに彼女が話題を振ってもミラはただ黙って話を聞き、たまに相槌を打つくらいでそれ以外はじっと窓の外を見ているだけだった。
最初は病み上がりと気遣っていたプリムだが、一向に回復しないミラに対して不安が募り、とうとうガルドへ相談する事にした。
「心配しなくても、アイツは疲れているだけだって。元気になれば、食い物を求めて歩き出すから大丈夫だよ」
ガルドは優しく諭したつもりだったが、彼を見つめるプリムの目は冷ややかなものだった。端的に言えば「コイツ、なんもわかってねぇな」と言う侮蔑の視線を送り、あからさまな溜息をついてみせた。
「そんな、あからさまにため息つかなくても…」
「いえ、違うんです。ギルド長は男性ですし、ミラさんは女性でした。ちょっと考えればわかることなのに、私ったら」
プリムはこれでもかというほど深々と頭を下げ、いそいそとギルド長室を後にした。ガルドが何か言いかけたが、もはやプリムの耳にその声は届かなかない。
続いて、ネリーネへ相談に行ってみた。ミラが目覚めて以来、医務室で彼女と鉢合わせる機会は多い。事件の前はあれほどいがみ合っていた二人であるのにと、プリムはほのかな期待を寄せて部屋を訪れた。
「放っておきなさい…って、なんですか?その顔は」
「——ネリーネ様も心配でしょう?いつも医務室にいらっしゃいますし」
「ッ――『いつも』はいません!」
ネリーネには珍しく、声を荒げた。心なしかその顔も上気している。
あからさまに肩を落とすプリムに対し、ネリーネはいつも通りの表情に戻り彼女を諭した。
「彼女がこの程度で再起不能になるくらいなら、わたくしだって苦労しません。心配するだけこちらが疲れるだけです」
「でも…!」
「それよりなんですか、このいい加減な書類は?」
そう言って見せられたのは、『再提出』の印が押された依頼書などの束だった。プリムは困惑する。
「これなどサインすらされていませんが、貴方のもので間違いありませんよね?」
ネリーネの言う通り、それはすべてプリムの出したものだった。素直に誤りを認めるプリムに対し、ネリーネは叱ることはせず、しかしきっぱりと言い放った。
「彼女のようなものにとっては、同情などその傷を深くするだけです。貴方は、貴方の仕事を完璧にこなしなさい」
なおも食い下がろうとするプリムに、今度こそネリーネの鋭い眼光が向けられる。明らかに以前よりも鋭さを増したそれは、もはや一種の凶器であり、プリムは部屋を出ざるをえなかった。
執務室を出て一階へ降りる回廊へ差し掛かったプリムは、そこにいた人物を見てあからさまに眉根を寄せた。
ベアトリスは回廊の手すりにもたれかかり、一階の様子を優雅に眺めていた。
「あらあら、わたくしにはお声掛けしてくださらないの?」
プリムは何事もなく通り過ぎようとしたが、蜘蛛が獲物を逃さぬようにベアトリスの言が絡みついてきた。一度は息の合ったコンビネーションで大暴れした二人だったが、お互いを隔てる遠慮がなくなったのか、今ではこうしてけん制し合う仲となっていた。
「——いったい、なんのことですか?」
プリムはとぼけて見せる。ベアトリスはそんな彼女の様子を意に介さず、一階の様子を楽しそうに見つめていた。
「あの男の下で働いていたせいかしら。ここで皆さんの様子を見ているのが楽しみになってしまいましたの」
「エドワード卿の残り香が、こんなところにあるとは思いませんでしたわ」
「ええ。おかげで皆さんの考えが、手に取るようにわかるようになりました」
ベアトリスのその発言を、プリムは一笑に付すことが出来そうにない。現に彼女は一度、ここの受付嬢をすべて傘下に置き、ミラやプリムへ嫌がらせをしてきた過去がある。下手に話を合わせて、どんな弱みを握られるかわからない。プリムは「そうですか」と言って、足早にその場を去ろうとした。
「放っておいておあげなさいな」
その背にベアトリスの冷徹な声が投げつけられ、プリムの足が止まる。
「怪我をした獣は、必死にそれを隠そうとしますわ。無理に探ろうとすれば、いらぬ傷口を広げる事になりかねませんよ」
ベアトリスの言葉には、憐れみが感じ取れた。しかしプリムはその言葉の意味を解せず、彼女からの挑発と受け取った。
「それはご自分の事を仰っているのかしら?」
ミラは違うと、鼻で笑うプリムを一瞥し、ベアトリスは「勝手になさいな」と言うと、回廊の奥へと消えていった。
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「どう思いますか?カイル!」
翌朝、復帰したカイルは、待ち構えていたプリムに捕まった。
寝不足の目を赤く腫らして憔悴していたが、瞳だけは強迫観念めいた熱が宿って爛々と輝いている。
プリムの熱弁に、最初は野次馬根性で輪に入っていたガッゾたちも、話が「ミラの今後」というデリケートな問題に及ぶと、一様に気まずそうな顔をした。
「カイル、あとは任せたぜ」
逃げるように他のデスクへ移動し、残されたカイルは居心地の悪さに身を縮めた。それ以上に、カイルの内心も穏やかな状態ではなく、「放っておけばいい」というのが本音であった。
あの日、返り血を浴びて陽炎のように揺らめくミラの背中に、尊敬を超えた「住む世界の違う怪物」としての畏怖が強まり、どうしても思考に一線を引くようになっていたのだ。
だからこそ、カイルは言いたい。
「自分もあの日あの場所にいたんだ」と。途中で奪われたとは言え、難解と言わしめた第六層まで潜り、ヒートコアも目前まで持ち帰っていたのだ。ヴォルケの邪魔さえなければ、コアは今この場にあったかもしれないと言う思いが、カイルの胸中を焦がす。
しかし怪我をして、皆の足手まといになっていた後ろめたさと、善意からミラを気遣っているプリムの意志を尊重してやりたい両方の気持ちが、彼の思考をより複雑なものとしていた。
「聞いてますか、カイル!」
ダンッ! とデスクを叩く音が響き、ロビーの喧騒が一瞬途切れた。目の前には頬を膨らませたプリムの姿があり、カイルは居心地の悪い気持ちに追い込まれた。
「誰に相談しても、「放っておけ」としか言われないし。ギルド長なんて『腹が減れば歩き出す』なんて仰るんですよ。あんまりじゃありませんか?」
プリムの必死な訴えに、カイルは困ったように視線を泳がせた。
「…確かにそうだね。けど、皆がそう言っているのであれば、今は放っておいてあげるのが正解なんじゃないかな。あの人なら、きっと大丈夫だよ」
冷静に返答したつもりが、ついつ突き放すような言い方になってしまったと、カイルは後悔した。案の定、目の前のプリムの頬が赤みを増し、カイルを睨みつける。
「やっぱり、カイルも男の人ですね」
「ちょ、ちょっと待って。それとこれは関係ないだろ」
溜息交じりに言われ、カイルも少し苛立ちが芽生えてきた。
「そうですよ。ミラさん、一人で戦ってあんなに傷ついて…。なのにまた一人にしろだなんて、絶対間違っています!」
「それはわかるよ。けど、あの人は俺らとは違うんだ。どうせなんの力にもなれなら、待つしかないだろ!」
カイルの声も自然と上ずる。掲示板を見ていたハンターたちが手を止め、受付嬢たちも、不安げな視線を送っていた。
言ってはならないとわかってはいても、言葉が自然と紡がれていった。そんな彼を、プリムは信じられないものを見るような目で見つめた。
「——それ、本気で言ってるんですか…?」
カイルは否定も肯定もしない。プリムの、自分を責めるような視線に我慢できなくなり、そのままデスクを後にした。
遠巻きに様子を伺っていたハンターたちも、いまのプリムには近寄り難く自然と彼女の周りに空洞ができる。その孤独が、プリムの心を余計に頑なにしていった。
終業後、日課のように医務室へ向かうプリムの姿があった。
今朝のカイルとのやり取りが、プリムの心を荒ませる。彼女自身、心のどこかでは皆の言う事をわかっていた。しかしどうにも自分を抑えられず、一種の脅迫めいた使命感がプリムを突き動かしていた。
それを知ってか、この時間帯にミラのいる医務室に訪れる人間はいない。
だが、今日は違った。ネリーネが扉に耳を近づけ、中の様子を伺っており、プリムの姿を見つけると、「シッ」と口元に指をあてた。
プリムは忍び足で扉まで近づくと、制止するネリーネを無視して自身も扉に耳を近づけた。僅かだが中からガルドとミラの話声が聞こえる。
「――……という条件だ。正直、俺としてもお前にこんな話を振るのは本意じゃないが、ギルド長として伝えないわけにはいかなくてな」
ガルドの、どこか苦渋に満ちた声が漏れ聞こえてくる。全神経が扉の奥へ注がれたいま、自身の息遣いさえ煩わしかった。
沈黙は、実に短かった。
「——いいよ」
ミラの乾いた声が聞こえた。あまりにも軽く、まるで軽い頼まれごとでも引き受けたかのような声色だった。
「こんな売れ残りで良ければな」
いったいなんの話をしているのか。プリムには見当もつかない。ただなぜか、彼女の動悸はかつてないほど早くなっていた。
「なんだよ、その顔は?」
「——いや、ある程度覚悟はしていたんだが、いざ目の前で言われると、な」
「オレの結婚話がそんなに意外かよ」
結婚——プリムは我が耳を疑った。本当は今すぐにでも言って問いただしたい衝動を、ぐっと堪えて耳を澄ます。
「意外は意外だが…お前、貴族嫌いじゃん」
はははと、ミラの乾いた笑いが響く。
「そうだったな。まあ、ここの連中と付き合っていく内に、貴族も悪くないって思えたのかもな」
その声には憐みも落胆も感じられなかった。どこか諦観しているような、気楽ささえ感じられた。
扉の向こうで、プリムは息を吸うことさえ忘れていた。視界が急速に白濁し、足元から床の感覚が消えていく。
(嘘……)
プリムの脳裏に、ミラと過ごした日々が蘇る。
どれほど打ちのめされても、決して膝を屈しなかった「陽炎」。自分たちがその背中を追い、どれほど理不尽な世界でも「こうありたい」と願った最強の偶像。
そのミラが、今、自分から進んで「檻」の中へ入ろうとしている。
「——プリムローズ、行きましょう」
ネリーネの低く、静かな声が降ってきた。
震える肩にネリーネの手が触れた瞬間、プリムはカバンを握りしめ逃げ出すように廊下を駆けた。
(見たくない……そんなミラさん、見たくありません……!)
ギルドを出たプリムの目には、宝石を撒いたようなラグニールの夜景さえ、今は獲物を締め上げる蛇の鱗のように醜く、そして冷酷に映っていた。




