29 『人形の唄』
魔人から放たれる熱が、ミラの肌にじわりと纏わりついてきた。
身体強化魔法を使わなくとも、互いに一息で到達できる距離だ。しかし、今のミラにそんな体力は残されていない。身体強化の連続使用と、コールドエコーの反動で立っているのがやっとだった。
(クソ…目がチカチカしやがる…!)
しかしそれを表面には見せない。視界は揺らいだまま、ヴォルケの全体を捉え、白骨を正中線に構える。ヴォルケに少しでも動きがあれば、残る体力を総動員してコアを狙う意志だ。
(——どうした? なぜ攻めてこない?)
ミラが不審に思ったその時、足の裏に違和感が走った。それは徐々に大きくなり、下層の方から地を踏み鳴らす音が聞こえてくる。
(今度はなんだよ?)
それは魔物の群れだった。一匹二匹ではない、おびただしい数の魔物が、ひしめき合ってこちらへ向かってくる。それだけではない。彼女のいる第二階層のあちこちから、まるで壁から生えてきたかのように魔物が姿を現した。
思わずヴォルケから視線を外す。この時ばかりはミラも死期を悟った。
だが様子がおかしい。
魔物たちはミラに目もくれず、狂ったように正面ゲートへ走っていく。
黒い濁流が二人の距離を空ける。その端々に、ミラはヴォルケの姿を捉え続けた。
魔人は、ただ空気を揺らめかせながら、静かに自分を凝視している。魔物たちをかき分け、襲ってくるような気配は感じられない。
ならばと、ミラはその場に座り込んで瞑目した。
呼吸を整えながら、意識を体の内側へ集中させる。多少のノイズは感じるものの、魔力の流れに滞りはない。ヴォルケによって強か打ち付けられた背中も、見た目以上のダメージはなさそうだ。先ほどはネリーネに文句を垂れたこの制服だが、しっかりとその役目を果たしているのだろう。
瞼の奥にヴォルケを感じる。
常にエドワードの影となり、まるで人形のように自我を感じさせなかった。それが今こうして対峙したことで、初めて彼女の意志のようなものを感じる。
ヒートコアを取り込んだことと、魔物たちがこうして走り去っていくこの現象は、決して無関係ではないように感じられた。
(——つまり何が何でも、自分の手でオレを殺したいんだな)
そう思うと、自然と笑みが浮かんだ。
ミラにはそういう所がある。エドワードのように明らかな敵意を抱くくせに、それを隠して懐柔してくるような、やり方は気に入らない。
ベアトリス然り、そして目の前のヴォルケ然り。敵意を隠そうともせず、自分をうち滅ぼそうとする相手こそ、なぜか喜ばしい気持ちにさせた。
敵の存在こそが、ミラをミラ足らしめている存在だからかもしれない。
だからこそ、ヴォルケが自分を滅ぼしたいというのなら、喜んでそれを受け入れる。
そしてどちらが強者なのか、その身に叩き込んでやろう。興奮に集中を乱されぬよう、ミラはただ静かにその時をまった。
魔物たちの足音が、先ほどよりも数を減らしているのを感じ、ミラはゆっくりと目を開いた。呼吸を整える事が出来たため、体の調子も良い。
ヴォルケの様子は相変わらず、ただじっとこちらを見つめている。
(…そんな顔しなくても、すぐに叩きのめしてやるよ)
視線同士がぶつかり、空気の密度が濃くなっていく。首の後ろにピリピリとした感触を覚えながら、ミラはすっくと立ちあがる。
それを認めたヴォルケが、何かを投げてよこした。ひらひらと舞い上がり、ミラの目前で落ちる。白骨でひょいと拾い上げたそれは、ヴォルケの腕から脱出する際に、彼女が脱ぎ捨てたスカートだった。
全体的に薄汚れている以外は、とくに大事に至っていない。ミラはしばらくその布切れを見ていたが、ぱっと自分の背後へ投げ捨てた。
「パンイチで帰らずに済んだけど、これをわざわざ返すってことは、お前の負けでいいってことか?」
その言葉が合図となった。ヴォルケを包む熱が爆発的に膨れ上がり、ダンジョン内に暴風が吹き荒れる。
風を纏い、火の玉となって飛び込んできたヴォルケを、ミラは間一髪で避けた。
「!?」
かすってもいない、空振りした拳の熱波によって、肌がチリチリと痛む。だがそれよりもミラを驚愕させたのは、ヴォルケの攻撃をきちんと避けられなかった事だ。拳をよけつつ、一撃をあたえるはずが、もう少しで頬をえぐられそうになった。
(…拳の軌道はしっかりと捉えていたはず。距離を見誤ったか?)
今のところ、相手の攻撃は徒手のみだが、当たれば致命傷は免れない。今度こそ見誤るまいと、ミラは果敢にヴォルケへ切りかかった。
「!?」
ヴォルケの体が、急速にミラへ近づく。
切りかかるはずだった剣で、相手の拳をなんとか受け止め、後ろへ吹き飛ばされた。
(いや…距離じゃない。オレが、引き寄せられた?)
剣に感じた硬さと重さは大型の魔物と遜色なく、かなり手がしびれた。だが、やはり気にすべきは、ヴォルケの違和感の正体だ。
急な軌道修正と、急激な突進力の向上。遺物の力が全身に回ったことで、身体強化魔法と似たような作用が発動しているのかとも思えるが、相手が未知の遺物である以上、安易に断定はできない。
だが、悠長にしている暇もない。
(クソ!)
ヴォルケの猛攻を紙一重で避けながら、ミラは自身の体の異変に気付いていた。
ある程度したはずの体力がすでに尽きかけている。さらには、どれだけ呼吸をしても、息が整えられない。疲労困憊にも似た眩暈が、彼女を襲う。
(…デスクワークが過ぎたか。座りっぱなしで、オレの体もとっくにガタが来てたってことかよ…!)
すでに身体強化魔法を持続するだけの集中力は、彼女から失われている。足取りのおぼつかない回避行動はついに追い詰められ、ヴォルケの拳がミラに直撃する。咄嗟に顔を庇った左腕が、バキリと砕ける固い音を立て、ミラの体が吹き飛ばされた。
「——いったぁ…」
だが、ミラ自身はすでに痛みを感じていない。朦朧とした意識の中で、思わず口走ったに過ぎなかった。ふらふらと立ち上がるが、自分が立っているのか、座っているのか、笑っているのか、怒っているのかもわからなかった。
右手はかろうじて白骨を構えるが、左腕はプルプルと震えるだけで、一向に上がる気配がない。ヴォルケの一撃受けた上腕部分が、焼けて黒くなっていた。
「——やるじゃん。あのチンカスの護衛なんかやめて、ハンターやりゃいいのに…」
まるで地獄の底から響いたかのような咆哮が、ヴォルケから放たれる。
暴風を伴った炎の魔人が、眼前の人間をこの世から消滅させようと、拳を振り上げた。
その刹那、ヴォルケの視界の隅で、何かが揺れた。
それはミラの背後で、落ち葉のように舞い上がると、渦を描きながらヴォルケの方へ飛んできて、そのまま視界を奪ってしまった。
「!?」
ヴォルケの動きが止まる。目の前のものを振り払ってみて、その正体に愕然とした。
偶然にも、ミラが飛ばされた場所は、彼女が最初に立っていた場所だった。そこに落ちていたスカートは、ヴォルケの巻き起こす暴風によって舞い上がり、その視界を奪うこととなったのだ。
本来であれば、ヴォルケに振れた時点で、布切れ如きは消し炭になる運命である。
しかしそのスカートは、ドラゴンの牙さえ通さないという謳い文句の、ギルド特注品であり、ヴォルケの掌中にあってもなお、多少焦げる事はあっても焼き付くことはなかった。
そしてヴォルケはここで、三つのミスを犯した。
一つはこのスカートを、ただの布切れだと思ってしまったこと。
掴んだスカートを、どこかへ放ってしまえば良かったのに、その手で燃やし尽くそうとした。トドメを刺そうとして邪魔された怒りか。女である事を押し付けられた事への憎悪か。
ヴォルケが意識を集中させると、手の中のそれは、確かに消し炭になった。しかし炭化したのは手に握られた部分だけで、残った大部分がヴォルケの手を離れると、ビタリとその体に張り付いてしまった。
ここで二つ目のミスが発生する。そもそもとして、ヴォルケは自身の体がどうなったのかわかっていない。彼女はただ怒りに任せ、強力な力を使役しているにすぎず、その特性も能力も、何一つ理解できていない。
ヴォルケが取り込んだ『ヒートコア』は、彼女の『鎧の遺物』と忌まわしくも適合していた。莫大なエネルギーをその身に与え、無意識下で遺跡のシステムとリンクし、その触手である魔物さえも操る能力をヴォルケへ与えていた。
その反動として生まれた、莫大な熱量を制御する急ごしらえの吸排気システムだったが、ミラを絶望させた加速も、彼女を蝕む酸素濃度の低下も、そういった副産物を生み出していた。
だが機械の体となったヴォルケには関係ない。本人の意思とは関係なく、鋼の体は更なる酸素を求めて、猛烈に周囲の空気を吸い込もうとする。
その結果——手放された『紺色の布』が、吸気口へ一気に吸い込まれた。
ヴォルケは焦りを感じ始めた。
引きはがそうとするスカートは、彼女が力を入れれば入れる程、無慈悲な機械の体によって、奥へ奥へと引き込んでいく。
もともと遺跡を二つも取り込んだ時点で、自分に未来がない事は確信していたヴォルケは、それでも『ミラだけは自身の手で始末したい』と願った。
それがそもそもの間違い。
エドワードを第一に思うのであれば、負傷したミラを気遣ったりせず、さっさととどめを刺すべきだった。
もともと赤熱化していた体は、オーバーヒートを起こし、わずかに残っていたヴォルケの意志さえも焼き尽くす白熱と化す
(まだだ!せめてこの女だけは…!)
だが、その願いも空しく、体の至る所から黒煙が上がり、耳を刺すような金属の悲鳴が上がり始めた。
その甲高い叫びにも似た音に、ミラの意識が急速に覚醒する。
ヴォルケの体に何が起こっているかはわからない。しかし勝負を仕掛けるのであれば未だと、彼女の本能が脈動した。
「コールドエコー!」
再び解放される禁忌の呪文。
ミラの周囲を薄い魔力の層が形成され、彼女の体を世界と隔絶する。
疑似的に形成された真空世界に、周囲の熱気が一気に引き寄せられた。
目の前のヴォルケは、もはや真赤に焼けた鉄の塊だった。その熱の前に特注のスカートも黒煙を拭き上げ、その役目を終えようとしている。
内部で逃げ場を失った熱が装甲をどろどろと溶かし、強固だった遺物の鎧に、決定的な隙間を作り出していく。
その隙間へ自身をねじりこむように、ミラは一歩を踏み出した。
彼女の殺気を感じたのか、鎧による防衛反応か。ヴォルケの拳が振り上げられるが、とうてい間に合わない。
ヴォルケの胸元。白熱化し特に融解が激しい爆心地へ向かって、滑り込むように白骨を突き立てた。
解き放たれた絶対零度の冷気が、白骨を通じてヴォルケの内部へと侵入し、その身を一瞬で凍結させる。
しかし足りない。ヴォルケの両腕が、ミラの腕をつかむ。
「があああああっ!!」
気絶する事すら許されない激痛。制服を着ていなければ、一瞬で蒸発したであろう熱量を受けて、なおもミラはヴォルケを睨みつけた。
焼ける肺が、必死に酸素を求めて喘ぐ。視界は赤く染まり、脳は「死」を叫んでいる。 だが、ミラの心はそれ以上に冷たく、鋭く研ぎ澄まされていた。
「…言ったろ。受付嬢、なめるなって…!」
喉の奥で凝り固まった血を吐き捨てて、なおも笑う。
自身の輪郭を保つのさえ危うい熱帯の地獄で、彼女は『生存』というたった一つの目的すら捨て、凍てつくような殺意を魔力へと変える。
周囲に渦巻く熱風が、ミラの意志に応えるように、渦を巻いて彼女の体へと引き寄せられていく。
『コールドエコー』の応用――体に巡らせた魔力の膜を、逃げ場を失った熱波さえも飲み込む、渦潮のごとき速度で循環させた。ミラの魔力に強引に紐付けられ、彼女の肉体を「核」とする巨大な熱の渦へと姿を変える。
集められた膨大なエネルギーは、ミラの全神経をバイパスにして、ヴォルケの胸部に深く突き立てられた白骨の一点へと凝縮されていく。
「ミラージュ、エコー…!!」
現象が反転する。
ミラの周囲に滞留していた膨大な熱が、白骨をバイパスとして、ヴォルケの心臓部へと一気に逆流した。絶対零度に送り込まれる、数千度の熱波。相反する二つの力が、体内で激突する。
刹那、ヴォルケの巨躯が内側から異様に膨れ上がった。相容れぬ二つの事象が細胞レベルでしのぎを削り、ヴォルケの「遺物の鎧」は、耐えがたい負荷に悲鳴を上げ、パキパキと音を立てて白く結晶化していく。
激突したエネルギーは、ヴォルケの胸部を内側から食い破り、背面へと向かって一気に突き抜ける。
火柱と氷の破片が同時に噴き出し、魔人はその活動を永遠に停止した。
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吹き抜けた熱波の後に残されたのは、すべてを終えた静寂。重なった二人の影だけが、熱を失いつつあるダンジョン内に、長く伸びていた。
「——なあ」
ヴォルケを貫いた右腕から、ミラの体が徐々に凍結していく。感覚を失いつつある唇が、震えながら言葉を紡いだ。
「オレは、リュドミラ――『リュドミラ・アレクトヴナ・ヴァルキスカ』だ。お前の名前…教えろよ」
ヴォルケの纏う空気が、わずかに震えたように感じ、ミラは視界をあげた。
氷の彫像のように白く、全身からパキパキと軽い音を響かせるヴォルケの顔が目に入る。
向けられた視線には、すでに敵意も恐怖もない。
そこにあるのは、重い鎧を脱ぎ捨て、すべてから解放された「ただの女」の安らぎだった。
彼女の唇が、音もなく動く。
その拍子に、薄氷がひび割れるが如く、パキンと固い音が響いたかと思うと、かつてヴォルケだったものは、氷の結晶をまき散らしながら粉々に砕け散った。
彼女がいた場所には、もう、熱のひとかけらも残っていない。
「——ああ、綺麗だね」
ミラと同じ、一人の女だったものの激しくも儚い最期。
舞い落ちる銀色の結晶が、ミラの頬に触れては、滑り落ちていく。
いずれ訪れるかもしれない未来の一筋か、もしくは、自分が辿るはずだった道筋の残滓か。
いずれにしても、自分の終わりはここであるらしいと感じ、ミラの意識は、白銀の静寂へと沈み込んでいった。




