21 『ネリーネ首だっけ』
収容された牢屋の中で、ネリーネは静かに瞑目していた。
それは月明かりに照らされた一輪の花のようでもあり、己の死を悟った殉教者のようでもあった。
今朝早く、ネリーネはプリムの集めた資料と、自身がここ数か月の内に集めたギルドに関する数々の証拠を提出した。憲兵団の団長は、懃懃無礼な態度を隠しもせず、ネリーネの持ち込んだ資料をまるで宝物のように掴むと、「私にまかせてくれ」と自信たっぷりに告げた。
その結果、彼女はここにいる。はなから期待などしてはいなかった。権力と行政が結びつくことなど、よくある話だ。すべてはあの、向こう見ずな、けれど眩しいほどの正義感を持った少女を守るための選択だった。
「――ふふふ」
ネリーネから笑みがこぼれる。
ほんの少し前まで、ミラや自分の前で慌てふためいていた少女が、あれほどの激烈な言葉を発するようになった。しかも自分ですら見つけられなかったギルドの不正を、いとも容易く見つけてしまった。その時、わずかながら嫉妬した自分を思い出して、笑みがこぼれたのだ。
重苦しい鉄格子の向こうで、軍靴の音が響いた。
「――ベルシュタイン家、ネリーネ・フォン・ベルシュタイン様とお見受けする」
事務的に、そしてどこか冷淡に響くその声に、ネリーネはゆっくりと瞼を持ち上げた。そこには、憲兵の制服を着た男たちが数人、鍵を手に立っていた。
「……貴方は?」
「父君の命により、貴方をお迎えに伺いました。私についてきていただきたい」
「父が?」
心に一瞬、希望の光が灯ったのを、ネリーネは自らの意志で吹き消した。冷徹で厳格な父が迎えを寄越す? そんなことあり得ない。
「――理由は、聞いていますか?」
「私の方からは何とも……」
牢を開け、手を差し伸べてきた男の手と、その目を交互に見る。
「いまから、ですか?」
「家門の恥を公に晒さぬよう、夜間のうちに身柄を移送せよとの命です」
男たちの目が、影の中で不気味に光った。法を執行する者の厳格な瞳ではない。獲物を仕留める機会を伺う、深く鋭い目だ。
「わかりました。念のため、移送礼状を見せていただけますか?」
男は待ってましたと言わんばかりに、懐から丸められた一枚の羊皮紙を取り出して渡した。ベルシュタインの紋章が、暗がりの中でもその威厳を感じさせる。ネリーネは礼状を一目見て、ほんの一瞬だけ表情を歪ませた。そして家紋を指で優しくなぞると、男に無言で礼状を返す。
頼みのガルドは結局間に合わなかった。彼とは秘密裏に連絡を取っていたが、返信が途絶えて久しい。ここに来て、自分が本当に一人になったのだと確信した。
(……それで構わない。他者をあてにすれば、決意が鈍ってしまう)
再び差し出された手を一瞥すると、彼女はそれを無視して一人で立ち上がった。ネリーネの振る舞いに、男たちは肩をすくめる。無造作に掴み上げようと手を伸ばしたその手を、彼女は一喝して止めた。
「わたくしに触れるな!」
すさまじい剣幕に、男たちは武器に手をかける。ネリーネは男たちを睥睨した。
「ギルドだけでなく、我がベルシュタインの名を汚した賊どもが……。貴様たちの主に伝えよ! その罪、死をもってしても贖えるものではないと!」
後ずさりする男たちを置いて、ネリーネは出口へ向けて歩き出した。その先に待っているものが、避けようのない死だとしても、彼女の歩みを止められるものではなかった。
裏門から外に出た瞬間、冷たい夜風が頬を打った。
待機していたのは、紋章のない漆黒の馬車。御者台に座る男はとても使者とは思えない、漆黒の衣装に身を纏っている。ネリーネは一度、天を仰いだ。雲に覆われ、月すら見えない空は闇深く、真実を覆い隠すに相応しく見えた。
後ろに控えた兵士に促される。漆黒の馬車を前にして、ネリーネの足が震えた。闇が口を開いて、自分を待ち構えているようだった。
死そのものへの恐怖もさることながら、自身の亡骸がベルシュタインの紋章を剥ぎ取られ、誰の記憶にも留まらない『無価値な残骸』として処理されることが恐ろしかった。司法を司る家に名を連ねながら、悪事に一矢報いることすら叶わず、ただただ廃棄される。その無力さが、死の冷たさよりも深く、ネリーネの心を切り刻んだ。
だからせめて、避けられぬ死であるならば綺麗に死にたいと、ネリーネは強く願った。生まれて初めての、自分自身のための願いだった。
馬車が止まる。どうやら目的地に着いたらしい。
いろいろと思考を巡らせるうちに、それほどの時間が経ってしまったのかと、ネリーネは少し後悔した。
今まさにこの扉が開かれ、凶器を手にした者たちが自身の命を辱めるのだろう。だとするならば、せめて何の抵抗もせず、死にその身を預けよう。
ネリーネは瞑目し、その時を待った。
「あー、ごほん。お前たちは完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめて、今すぐ投降しなさい」
やる気の感じられない、聞き慣れた声が聞こえ、ネリーネは耳を疑った。
同乗していた見張りが慌てて窓を開き、外を確認する。ネリーネも肩の隙間から、なんとか外を覗こうとした。
石畳の道の中央に、一人の男が立っていた。ギルドの職員を表す濃紺色の制服に身を包み、ボタンが弾け飛びそうな体を揺らしながら、リガルド・ディミトリ・フォン・ゼーレベルトは、自身を取り囲む騎馬たちに向かい、もう一度声を張り上げた。
「こちらは国王直属の命令で動いている。俺に手を挙げることは、王に手を挙げることと同じだ。……お前さん方でもわかるだろう? 黙って馬車の御仁を返してもらおうか」
ちなみにこれ令状ね、そう言って丁寧に丸められた国王の命令書を広げて見せる。しかし、騎士たちが怯む様子は見られない。
抜剣してガルドを取り囲む。空気が殺気を帯びて張り詰めていくのを、ネリーネは言葉も発せず、ただただ見守るしかなかった。
ガルドは命令書を綺麗に丸めると、大きくため息をついた。
「ああ、そう。聞かないんだ? なら、仕方ないね。……皆さん、あとはよろしく!」
途端、周囲の民家の屋根や路地の闇から、魔導灯が一斉に点灯した。昼間のような明るさが路地を照らし出す。
国旗を掲げた王直属の重武装騎士団が、圧倒的な物量で馬車を完全包囲する。その包囲網をかいくぐり、馬の俊足をもって逃げようとする者もいたが、たちまち刺し違えられて地面に伏した。
「公務執行妨害、および王室重要人の略取誘拐未遂。……全員、御用だ」
暗殺者たちが次々と取り押さえられ、路地が騎士たちの怒号と鎧の擦れる音で満たされていく。隙を見たガルドが馬車へ駆け寄り、勢いよく扉を開け放った。
「大丈夫か!?」
ガルドがそう言うのと、中の見張りが倒れ込んでくるのは、ほぼ同時だった。ネリーネに後ろから殴られ、昏倒した見張りがズルズルとガルドの脇を滑り落ちていく。
「――お、お見事……」
そう漏らすガルドへ、ネリーネが飛びついていった。彼女はガルドの肩に顔を伏せたまま、何度もその体を叩いた。
「悪かったなぁ。奴に気づかれないためには、こうするしかなかったんだわ」
「――いえ、おかげで助かりました」
ネリーネは涙をぬぐって、居住まいを正した。
「リガルド卿――急いでください。ギルドにはまだ、この愚行を止めようとする者がいます。彼女を救わなければ」
駆けだそうとするネリーネの肩を、ガルドがガチッと掴む。彼は背負っていた荷物を下ろすと、巻かれていた麻布をほどいてネリーネへ渡した。
中から出てきたのは、幾重もの特殊な意匠が施された黄金の杖だった。先端には、これも特殊な装飾が施されており、まるで巨大な鍵のように見える。
「――これは……?」
「ポータルのマスターキーだ」
言われたネリーネの手、絶対に落とすまいという力が込もる。
それは国家クラスの最高級魔道具の一つだった。通常、転移魔法を行う際は、特定の場所に『要』を打ち込み、そこに幾重もの方程式を書き込む必要がある。要が十分に魔力を貯められなければ失敗だし、術式が間違っていれば術は発動しない。
それらをすべて無視した太古の遺物が、このマスターキーであった。魔力を込めれば、任意の場所へ飛ぶことができる奇跡の魔道具だった。世界中にあるポータルは、このマスターキーに組み込まれている術式の一部を流用したものに過ぎない。
ガルドは人差し指を立てて、夜空の彼方――雲の向こうの天空を指した。
「ギルドは俺が行く。お前さんには、奴の迎えに行ってほしい」
ガルドの指先と空を交互に見て、ネリーネは声を上げた。
「え――ですが、彼女が生きているとは……!」
「そりゃ、確かに死んでたらそれまでだけどさ……」
愛用のパイプを取り出し、ガルドは火をつけた。煙を深く吸い込み、振り向きざまに両手を胸の前でだらりと下げる。
「――もし、生きてたらおっかないぞ? 『なんでオレを呼ばなかったんだ!』って、化けて出るぞ、きっと」
立ち去るガルドの背を見送りながら、ネリーネは杖を握りしめた。その手にじわりと熱がこもる。自然と口角が上がり、体が興奮に震える。
「――そうですね。勝負がお預けのままでは、お互い気分が悪いですものね」




