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厄災流し  作者: 速水涙子


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8 刀(5/5)

 真っ暗だった。


 黒以外は何も見えない。


 動かせる左手をどうにか目の前にかざしてみたはずだが――


 視界にあるのは、墨で塗り潰したかのような真の闇。


 ただそれだけ。


 体は硬直したように動かない。


 後ろを振り向こうとしたが、それも難しい。


 どこか狭いところに押し込められているようで、身じろぎすらまともにできなかった。


 私は混乱する。


 ――その人、壁に埋まってたそうですよ。


 ――壁と壁の隙間だかで亡くなっていたそうです。


 私はちゃんと生きているだろうか。


 呼吸はしている。


 頭も体も手足も確かにここにあった。


 それに何か――匂う。


 しかし、恐怖からか声は出ない。


 すぐ側にいたはずの氷上はどうなったのだろう。


 伊吹は、どこにいるのだろうか。


 誰か。


 そう思った、そのとき――


 闇の中、何かが動く気配がした。


 何か、いる。


 それに気づいた瞬間、それは私の右腕にぺたりと触れた。


 知らず体が震え出す。


 いつの間に、こんな近くにいたのだろう。


 見えなかっただけで、ずっとそこにいたのだろうか。


 それとも、音もなく近寄って来たのか。


 いったい、何がいるというのだろう。


 その何かは、そろそろと私の腕を撫でたかと思うと、唐突に右手首に掴みかかった。


 ぎりぎりと、締め上げるように強く。


 恐ろしさのあまり反射的に腕を動かすが、肘をしたたかにぶつけただけで、それを振りほどくことはできなかった。


 打ちつけたところが、ひどく痛む。


 いったい、どうすれば――


 掴まれた手をぐいと引かれ、恐怖に息を飲んだ。


 悲嘆に暮れて、抗う気力も無くしかけた、そのとき。


 ふと、周囲の闇が揺らいだ気がした。


 かと思えば、耳許で突然――鳥が羽ばたく音がする。


 それに怯んだかのように、手首を掴む力が弱まった。


 この羽音は――鷹の根付!


 それに気づいた瞬間、一条の光が差す。


「一宮さん!」


 氷上の声だ。


 どうにか身をよじって視線を巡らせると、左手の方――闇の中にぽっかりと光の穴が空いていた。そこから氷上が手を伸ばしている。私は必死になって、そちらへと身を乗り出した。


 しかし、それを押し止めるように、掴まれた右手首に力がこもる。光の届かないところには、まだそれが潜んでいて、私をこの場に引き止め――あるいは、闇の中へと引きずり込もうとしていた。


 私は必死になって叫ぶ。


「奥に何か――何かいるの!」


 どこからか犬の遠吠えが、いや――伊吹の鳴き真似が聞こえてくる。


 そのうち、ひたひたと足音を立てながら、獣の気配が近づいて来るのがわかった。独特な匂いに、呼吸音。暗がりの方から、低い犬の唸り声が聞こえてくる。


 伊吹の犬が、闇の中の何かに食らいついた。


 争う気配と同時に手首を掴む力が緩まったので、私は逆の手で氷上の手を握った。そのまま手を引かれ、どうにか今いるところから抜け出す。


 しかし、私が闇から抜け出し切る直前、その何かは――今度は私の足首を掴んだらしい。思わずよろけて前屈みに倒れたが、必死の思いでどうにか暗がりの外へと這い出していく。


 と同時に、私の足首を捕らえたそれは、闇の中からずるりと姿を現した。


 私がいたのは、階段下の納戸だったようだ。そこの壁が一部破られていて、壁と壁の間に人ひとりがどうにか体を捩じ込める程度の空間があった。そして今、その隙間から――何か得体の知れないものが半身を現している。


 それは――枯れ枝のように痩せ細った老婆のような姿をしていた。


 ずるずると長い白髪、黄色の虹彩に黒く細長い瞳孔のある、蛇のような丸い目。開いた口の中はあざやかな赤で、よく見ると頭には角のようなものが生えている。腰から下は、闇に飲まれていて見えない。


 そして何より、その顔に、首に、腕に、体に――びっしりと鱗が生えていた。その一枚一枚が半透明の白に淡い紫をにじませて、まるで藤の花のような色合いをしている。


 トウビョウを連れて隼瀬家から逃げ出した者は、それに魅入られたのだ、と言う話だった。これが、その――


 私は思わず、その姿に目を奪われた。


 化けものは白日の下に晒されてもなお、私の方へとじりじりと近づいてくる。時折、背後を気にしているのは、伊吹の犬がいるからだろうか。闇の中にちらりと見えたのは――巨大な蛇の尾。その下半身に、犬が食らいついているようだ。


 疾風――と犬を呼ぶ伊吹の声。それをきっかけに、トウビョウは痛みにのたうち回ったが、怒りに任せて、トウビョウは鱗だらけの手を私の首へと伸ばした。そうして私の首を絞め上げたと思うと、さらにその身を寄せて、背後の棚へと押しつけてくる。


 氷上は近くの箒を手に取り、果敢にトウビョウへ振り下ろしたが、たやすく振り払われてしまっていた。私が苦しみもがいていると、上着のポケットに押し込んでいた小さな鹿のぬいぐるみが――不意に転び出る。


 端切れで作られたらしい、小さな鹿のぬいぐるみ。父の元にあった、父には不似合いな、かわいらしいその遺品。


 私がそれに手を伸ばすと、トウビョウの視線はゆるゆるとそちらへと向かった。それを見て、私は、はっとする。声は出ない。しかし、心の中で祈るように叫ぶ。このぬいぐるみは。


 これは、私の父のために、あなたが作ってくれた物ではないの――


 そう思った途端、トウビョウの動きが止まった。


 誰かの姿を借りていたとしても、それはもう、そのものではない――伊吹はそう言っていた。しかし、このトウビョウはぬいぐるみに反応している。ならば、ここには彼女の心があるのではないだろうか。それとも、私がそう感じているだけか。


 そんな感傷を振り切って、私はこの隙にトウビョウから逃れようと、身をよじった。


 視線の先に仏間が見える。そう思った、そのとき。


 ふと、信じられない光景を前にして、私は目を見開いた。


 仏間にある刀が浮かび上がり、ひとりでにゆっくりと動いている――


 それはやがてすらりと鞘から抜け出すと、その刀身をあらわにした。かと思うと、その鋭い切っ先を私の方へと向ける。


 じりじりとこちらへと近づいてくる刀に、私の目は釘づけになった。何が起こっているのだろう。


 刀はやがて狙いを定めたように静止すると、ものすごい速さで飛んで来て――その刃をトウビョウの首へと突き立てた。


 トウビョウはもがき、声なき声を上げる。しかし、刀が容赦なくその首を切り落とすと、鱗の一枚一枚はぽろぽろと剥がれ落ち、全て小さな蛇へと変わっていった。美しい紫色だったそれらはすぐに茶色へと変わり、かと思うとぐずぐずと崩れていく。そうして、やがては土くれのように散らばった。


 体にかかるそれらを振り払いながら、鹿のぬいぐるみを拾い上げつつ、私はどうにか自力で起き上がる。私と氷上と、そして伊吹は、呆然としてその残骸を取り囲んだ。暗がりからは、犬の甘えるような鳴き声だけが聞こえている。


 飛んできた刀は床に突き刺さったまま、動く気配もない。伊吹はそれを見下ろして、こう呟いた。


「この刀――もしかして、怪異切りの刀だったんでしょうか。この家のトウビョウは、もう……いなくなったようです」


 信じられないことが立て続けに起こったせいで、伊吹の言葉もすぐには実感できなかった。しかし、どうやら危機は去ったらしい。お互いの無事を確かめ合ったところで、私たちはひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。




 私がいた隙間へと続く壁は、すでに一度取り払われた跡があったのだという。だとすれば、かごめさんもまた、この場所に閉じ込められて――亡くなってしまったのだろう。


 どうやって、こんな場所に入り込んだのかはわからない。私が直前にいた二階には、当然のように、その場所に続くような穴は何もなかった。隙間を覗いてみても出入りできるようなところはなく、そこで見つけたのは鷹の根付くらいだ。


 とにかく、これで全ての目的は達成された。ここに長居をしても仕方がない、と私たちは早々にこの場を去ることを話し合う。


 しかし、引き揚げようとする二人を前に、私はあることを言い出せずにいた。


 それに気づいたらしい氷上が、あっさりとこう言う。


「日記帳でしょう。持って行ってもいいんじゃないですか」


 確かに、私はここに残される日記帳のことを気にしていた。


 彼女の最期の思いをこの場所に残していくのは心苦しい。とはいえ、他人の家に忍び込み、あまつさえ、そこにある物を持ち出すことには、やはり抵抗があった。ここまで来て今さらという気もするが。それでも、自分なりの線引きはある。


 しかし、氷上は私の戸惑いにかまうことなく、さっさと日記帳を回収しに行ってしまった。そうして彼は、箪笥に隠されていた日記帳と、最後の一冊を、私にまとめて差し出してくれる。


「これは、あなたが持っていてこそ、意味のある物だと思いますから」


 私はその勢いに押されて、日記帳を受け取った。


 受け取ってしまえば、何となく手放し難くなる。だから私は、それらを持って、かごめさんの家を後にすることになった。


 私たちのことを出迎えたのは、うんざりしたような表情をした延坂だ。


「何をやってたんです? 電話しても出てくれないし。大変だったんですよ?」


 そう言えば、彼には見張りを頼んでいたことを、完全に忘れていた。


「もしかして、見回りの人が来てたの? 何かあった?」


 私が軽い調子でそう尋ねると、延坂は憤慨した様子で捲し立てた。


「何かあった? じゃないですよ。あやしまれるわ、いろいろと尋ねられるわで――言い繕うのに大変だったんですから。仕方ないので、延々と自分の身の上話をしてしまいましたよ。そのお陰で、相手は呆れて帰って行きましたけどね!」


 私と氷上と伊吹は、思わず顔を見合わせる。それから苦笑を浮かべながら、彼に労いの言葉をかけた。

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