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厄災流し  作者: 速水涙子


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9 日本人形(1/5)

 ひとり兵庫まで戻って来た私は、母の住まいに帰る前に、実家があった場所へ寄ることにした。


 特に用があったわけではないが、やはりあの家は私にとっての原点で――だからこそ、今一度立ち返ってみたいと思ったからだ。


 全てが終わった今となっては、ここでひとり、怪異が起こるかもしれない、と不安を覚えながら日記帳を読んでいた日々が、何だか感慨深く思えてくる。もちろん、かごめさんの家で新たに回収した日記帳についても、今度はゆっくりと読み進める気でいた。それは今も鞄の中にあるが、ノートも十冊以上となると、やはりそれなりにずしりと重い。


 しばしの間、かつて家があった土地をぼうっと眺めていたのだが、そのうち何となく人心地がついた気になって、私はそこから背を向けた。かごめさんの家では本当にいろいろなことがあったから、やはり自分でも気づかぬうちに気を張っていたのだろう。


 そんなことを考えながら、その場から去ろうとした、そのとき。ふと見知った――しかし、思いがけない人物の姿を目にして、私は思わず目をしばたたかせた。


「岩槻くん? どうして――」


 かつて勤めていた会社の後輩、岩槻文がそこにいた。


 延坂に指摘されたこともあって、私は東京にいたとき、彼に簡単なメッセージだけを送っている。用があって今は東京にいて――また、あらためて連絡する、と。


 どうして今、彼がここにいるのだろう。


 岩槻はどこか険しい表情で、行く手の少し先、道の辻辺りに立っている。先に口を開いたのは岩槻の方だった。


「やっぱりあなたは、僕のことを頼ってはくれないんですね」


 彼のただならぬ様子に、私は思わず顔をしかめてしまう。


 どういうことだろう。私が東京を去るときにも、彼は引っ越しの手伝いを自ら買って出てくれた。後は、延坂の連絡先を聞いたのも彼からだったはず。しかし、それは頼るという感じではなかったかもしれないが――


 戸惑いの中、頭の片隅ではそんな考えを巡らせていると、目の前の彼は、嘲笑うかのように、こう言った。


「あんなに、呪いの人形のことを怖がっていたのに」


 呪いの人形。本当に呪われていたわけではないが、盗聴器の仕掛けられた、あの西洋人形のことか。しかし、どうして彼がそのことを知っているのだろう。


 千鳥の死体の側にあの西洋人形があったことを知っているのは、私が知る限り警察と――あとは梓くらいだ。だから、たとえ人形のことを知っていたとしても、その事実を知らない人からすれば、それはただの人形にすぎないだろう。それなのに、彼は――


 岩槻はゆっくりとこちらへ近づいて来る。私はどうすればいいかわからずに、その場で立ち尽くした。


 そうして手を伸ばせば届くほどのところに、彼が足を踏み入れるようとした、その直前。物陰から突然、何者かが飛び出した――


 梓だ。


 彼女は岩槻の右手を振り払うと、肘の辺りを押さえて、その勢いのまま彼の背後へと回った。不意をつかれて驚いたからか、岩槻はされるがままに地面へと組み伏せられる。


「人と言葉を交わすのに、こんな物騒なものを散らつかせるものではない」


 梓はそう言って、岩槻が手にしていた物を道路の端へと投げた。きん、と高い金属音が鳴る。


 そこにあったのは――小型のナイフ。


 私は大きく目を見開いた。


「駅まで鹿子を迎えに行ったんだがな。君がつけていたようだから、こちらも様子を見させてもらった」


 抵抗する岩槻に向かって、梓はこう問いかけた。


「君は鹿子とは親しい間柄だったのか?」


 岩槻は答えない。ただ、梓の手から逃れようともがいている――が、梓はさして力を入れているようでもないのに、それを振り払うことは難しいらしい。梓は私の方にちらりと視線を向けると――悲しそうな顔で俯いた。


 梓は、こう続ける。


「では、ドールを彼女の元に届けたのは、君か」


 それを聞いて、岩槻はようやく動きを止めた。振りほどくことは不可能だと諦めたのか。しかし、押さえつける力に抗いながら、鋭い視線で梓のいる方を睨みつけている。


 梓は淡々とこう話した。


「ドールとその他の物と、被害者の遺族の他にそれらを合わせて回収できる者がいるとすれば、鹿子と近しい者――その可能性はあるとは思っていた。しかし、鹿子自身がそれを言及しなかったということは、その人物を信頼しているだろう、とも。だから、そうでなければいいと思っていたよ。でなければ、鹿子が傷つくからな」


 私は、はっとする。


 あれらをまとめて持ち出せた可能性。考えられるとすれば、私があの部屋を引き払うとき、か。確かに、何かと手がいるだろうと言って、彼には引っ越しを手伝ってもらっていた。そのときに――?


「もうひとつ。君は鹿子があれを怖がっていたことを知っているようだ。しかし、彼女はそういったことを吹聴する人間ではないだろう。それを知ったのは、被害者と繋がりがあったからではないか。だとすれば」


「ああ。そうだよ。あの女は俺が殺したんだ。今さら、そんなこと取り繕うつもりはないさ」


 岩槻は梓の追及に対して、あっさりとそう告白した。私はその言葉に愕然する。


 押さえつけられたままの岩槻は、どうにか私の方へ視線を向けると、こう話し始めた。


「あなたは知らないでしょうけどね。あの女は勤め先で盗みはする、同居人から金を持ち逃げする、そんなことをずっとくり返していたんですよ。そのうち、あなたからも盗むつもりだったんだ。他人なんて、利用できる金蔓くらいにしか思ってない。うまいこと言って、人を騙して――」


 忌々しげに歪んだ彼の表情から、彼もまた、千鳥に憎しみを抱いていることが察せられた。千鳥はいったい、彼に何をしたのだろうか。それにしても――


 私の知らなかった、千鳥の本性。私は、千鳥の家族が彼女の死に対して妙に冷淡だったことを、ふと思い出す。


 他人の家に侵入し、金目の物を持ち出したことで、それはちらりと顔を出していたかもしれない――それにしたって、裏でそんなことをしていただなんて、思ってもみなかった。


 それに、岩槻と千鳥には元から接点があったわけではないだろう。もしかして、ふたりが知り合うきっかけは、私が関連しているのではないだろうか。


 私はどうにか、こう問いかける。


「何があったかは知らないけど、その恨みで千鳥を殺したの? 私はそのきっかけを作ってしまったから――だから、嫌がらせを?」


「違いますよ。あなたにわかってもらうためです。あの女は、多くの人に恨まれるような、そんな人間なんだってことを」


 訳がわからずに、私は思わず首を傾げてしまう。


 彼はいったい、何を言っているのか―――


「だって、あなたは死人にしか興味がないから」


 岩槻は私にそう言った。


「あなたはずっと死んだ人間のことばかり追ってましたからね。だから、死ねば興味を持つかと思ったんですよ。同居人が――死んだ女が、どんな人間だったのか」


 私が絶句していると、岩槻はなおもこう言った。


「どうして、そんな驚いた顔をしているんです。ずっとそうだったでしょう? 見ていたから、わかりますよ。あなたは死んだ人にしか興味がなかった。生きている者とは、どこか距離を置いていた。孤独死なんてものを取り上げて、悦に入って。まあ、死人が相手なら、何のしがらみもなしに同情できますからね」


 勝ち誇ったような表情の彼に向かって、私はようやく口を開く。


「私は――私はそんなつもりは……」


 知らず父の面影を追っていたことを思い出す。そして、日記帳を手に入れてからも、それを書いた人物のことをずっと考えていた。そのことを言っているのだろうか。


 死人が相手であれば――確かに楽なのだろう。例えば、同居人がどんな人物だとか、後輩に気をつかったりだとか、気にする必要もない。だから私は、亡くなってしまった者の思いばかりを追っていただろうか――


 私が何も答えられずにいると、岩槻を押さえたままの梓が、その腕に力を込めてこう言った。


「やめろ。鹿子のため、鹿子のせいであるかのように言うのは。君が罪を犯したのは君の問題だ」


 梓のその言葉に、岩槻は苦々しげな表情を浮かべている。それに対して、梓は少しだけ同情したような顔でこう言った。


「ただ――君がわざわざドールを持って彼女を追って来たのは……鹿子に振り向いて欲しかったからじゃないのか? だったらもう、こんなことはやめるんだ」


 そのとき、組み伏せられていた岩槻が、唐突に梓を押し退けた。よろける梓の姿を見て、私は悲鳴に近い声で叫ぶ。


「梓!」


 突然のことに梓も驚いた顔をしている。それでも彼女は、岩槻の次の行動を警戒していたようだが――岩槻は反撃することもなく、その場から走り去ってしまった。


 梓は彼を追うつもりはないらしい。彼の背中が見えなくなると、大きく息を吐いている。


「私は問題ない。だが、逃がしてしまった。警察が来るまで拘束しておきたかったんだがな……すでに通報してある。すぐに捕まるだろう」


 梓はそう言って、平然とした顔で私の元まで歩いて来る。しかし、私はそれでも、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。


「大丈夫か? 鹿子」


 心配そうな梓の声。しかし、このときの私は、その声に応えることができないほど――何か自分でもよくわからないものに、打ちのめされていた。

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