7 根付(1/5)
物であふれた家の前に、私はひとり佇んでいた。
初めてこの場所を訪れたのは、千鳥の事件が起こる前のこと。季節は晩秋の頃だった。
今はそろそろ気候も春めいていて、あのときのような冷たい風は吹いていない。まだ暖かいとまでは言えないけれども、どこか寒さのゆるんだ空気が、これからの陽気を予感させた。
見たところ、かごめさんの家はあの頃と何も変わっていない。
身寄りのない人が亡くなった場合、その財産は最終的に国庫に入ることになる。今はおそらく相続人や、残された財産と債務の調査が行われているのだろう。きちんと手続きが進められていれば、の話だが。
その辺り、全く身寄りがない場合はいろいろと問題もあって、そう簡単にはいかないことも多かった。この家に残る遺品が整理されるのも、まだ少し先のことになるかもしれない。
とはいえ、私はそれらをどうにかしようなどとは思っていなかった。家に侵入するつもりもない。今のところは、まだ。
訪れた理由は、単にこの場所をもう一度見ておきたいと思ったからだ。せっかく、こうして近くまで来たのだから、足を伸ばしてみよう、とそう考えただけだった。
かごめさんの家を眺めていると、無意識のうちに日記帳の内容が――かごめさんの波乱の毎日が思い起こされてくる。
しかし、彼女はもう、ここにはいない。日記の中で生き生きと書かれていた日常も、今となっては過去のものだ。しんと静まり返った家の空気が、何よりそれを物語っていた。
物が無くなってしまうのも悲しいが、持ち主を亡くした物というのも、やはり物悲しいものではある。
少し離れて、かごめさんの家を遠目に見られるところまで来たとき、私はふと、自分と同じように家の方をじっと見ている人影に気づいた。
男性だ。近所の人だろうか。とも思ったのだが、見た感じ軽く散歩という出で立ちでもない。とはいえ、あれだけあからさまに見ているのだから、まさか無関係ということはないだろう。亡くなったかごめさんの縁者――ではなくとも、知り合いくらいならあり得るかもしれない。
しかし、それにしては若いと思った。私と同年代くらいだ。別にかごめさんに若い知り合いがいてもおかしくはないのだが、交流があったなら日記帳に書かれていてもいい気はする。
そう考えたとき、不意にやえさんという人物のことを思い出した。目の前の彼がまさか――ということはないだろうが、やえさんと呼ばれていた人物は確かに近くにいたはずで――そちらの縁者とも考えられなくはない。
何にせよ、誰もいないあの家を見つめ続けているからには、あの場所に――あるいは、亡くなった家主に――何か思うところがあるのだろう。と、同じような立場である私は、そう考える。
彼がここにいるのは、彼女のことを懐かしむためか。あるいは――
あるいは?
そのとき思い出したのは、西洋人形のことだ。
他の遺品もそうだが、そもそもなぜ、あれらが私のところにもたらされたのか。誰の仕業で、どんな目的があったのか、それもまだわかっていなかった。その謎を解く鍵のひとつは、人形に仕掛けられていた盗聴器ではないか、と私は思っている。
梓は以前、人形がふたつあったという可能性を示唆していたが、それについてはどうも納得できないでいた。人形が私への脅しだとしても、わざわざそれに盗聴器を仕込む必要はない。秘密箱ではないが、それこそ適当な箱に入れて意味深に封でもしておけば、少なくとも私はそれをすぐに開けようとはしなかっただろう。
そう考えると、あの人形にはやはり、それを仕掛けられるような細工が、もともとあったのではないだろうか。
かごめさんの家から持ち出された時点では、あの人形にはまだ、古い盗聴器が残されていたのかもしれない。だからこそ、人形を手に入れた者はそれに気づき、同じようにそれを仕込むことを思いついた。わざわざ同じ人形を手に入れて、細工を施して、という手間と必然性を考えれば、そちらの方があり得そうな気がする。
しかし、だとすればやはり、かごめさんの周囲にも、彼女を監視しようとしていた者がいたわけで――
私がそんなことを考えているうちに、男は唐突にこちらの方を振り向いた。明らかに私のことを見ている。しかし、私のことを不審に思っているようでもない。
何だろう。私は思わず立ち去ろうかとも考えたが、こちらは何もやましいことなどしていない。むしろ、逃げたりする方がおかしいだろう。そう思って平然としていると、男はおもむろにこちらの方へと歩き始めた。
時間はまだ昼前だ。住宅街だから、思いのほか人通りも多い。こんな状況で何が起こるとも思えないが――
そう思い、私は覚悟を決めて彼のことを待ち構える。男は目の前で立ち止まると、私にこう問いかけた。
「あの家に住んでいた方の、ご親戚の方ですか?」
表情のない顔。感情が読めない。何を考えているのかわからない。
何にせよ、この男はやはり、かごめさんの家を見ていたらしい。そして、私が見ていたことにも気づいていたようだ。
私は首を横に振る。
「いいえ。そういうわけではないのだけれど。少し……縁があって。ただ、葬式にも出られなかったから、気になっていて」
私はそう答えた。嘘はない。しかし、相手は無表情のまま、何の反応も返さなかった。
だから私は、さらにこう話す。
「突然のことだったでしょう? だから、詳しく知らなくて。でも、身寄りがなかったようだから、お葬式もなかったのかもしれないけど――」
「では、ご存知ないのですか」
男はやはり表情を変えないまま、そう口を挟んだ。
何をご存知ないと言うのだろう。私が戸惑って口を噤むと、男はさらにこう続けた。
「ここの住人。不審な亡くなり方をされたそうですよ」
男が口にしたのは、そんな言葉だった。私は思わず顔をしかめてしまう。
不審な亡くなり方。そんな話は聞いていない。いや――今でこそ、日記帳を読んだことで、私もいろいろと彼女のことを知っているが、当時はあくまでも取材をしようと考えていただけの相手だ。さすがにその死の状況を、事細かに聞いたわけではない。
確かに、新聞に掲載されていた時点では、詳しいことを捜査中であるような内容だった。しかし、続報もなかったので、特に事件性はなかったのだと、私はそう判断したのだが――違ったのだろうか。
私の困惑などものともせず、男はただ話し続ける。
「この辺り、お年寄りのひとり暮らしが多くて。地域でよく見回りをしているそうです。気づいたのはその方らしくて、何でも、ある日を境にしばらく行方不明だったとか」
行方不明。かごめさんが。それは死の直前に、ということだろうか。いったい何が――
淡々とした彼の語りに、私は知らず引き込まれていく。
「見つかったのは、臭いに気づいたからです。だから、警察の立ち会いで、捜索する、ということになって。家の中を。それで、その人、壁に埋まってたそうですよ」
「え?」
私は思わず、そう声を上げた。男の表情は変わらない。
「いや――厳密には、壁と壁の隙間だかで亡くなっていたそうですが。何にせよ、普通じゃありません。警察は事件として捜査もしたようですが」
家の中。壁と壁の間。壁の向こうを――這うもの。
「無理なんですよ。狭すぎて。そこに死体を運ぶことも、押し込むことも。現実的じゃない。だから、本人が何らかの理由で入り込んで出られなくなったのだろう、ということになりました」
私は何も言うことができずに、ただ彼のことを見返した。男は相変わらずの無表情で肩を竦めている。
私の心中を察したかのように、彼はさらにこう続けた。
「仕方がありません。それが一番、現実的だったのでしょう」
現実的。確かに現実的に考えれば、そうなるのだろう。しかし、それがもしも怪異だったとすれば――
それにしても。
「あ、あなたは何なんですか。この家に住んでいた方の――」
かごめさんの何なのか、と言いかけてから、私は慌てて口を噤んだ。この男が何者なのかわからない。下手なことは言わない方がいいだろう。そう思った私は、平静を装ってから、あらためてこう問いかけた。
「その方とは、どういったご関係で?」
男はしばらく、私のことをじっと見返していた。しばらくして、彼はようやく口を開く。無表情はそのままで、軽く首だけ傾げながら。
「さあ。あなたこそ、ここに住んでいた方の、いったい何なのですか?」
私は何も答えなかった。答えられなかった、と言うべきか。相手の素性が知れないことで警戒したこともあるが、そうでなくとも、私と彼女の関係性など、ひとことでは言い表せないことだったからだ。
私が曖昧な返答をしていると、男は私のことに興味を失ったのか、それでは、とだけ言い残して去って行った。




