6 紫縮緬(5/5)
冷静な判断ができていたわけではない。そうしたのは咄嗟に――燃えてしまう、と思ったからだ。父の遺品が。かごめさんの日記帳が。
外から見た限りでは、まだ一部が燃えているだけかと思ったのだが、家の中にはすでに煙が満ち始めていた。熱気を感じて足が竦みそうになるが、私は無理にでも前へと進んで行く。
急いで自分の部屋へと――二階への階段を上った。服の袖で口を抑え、息を止めながらそこまで辿り着くと、机の上にある日記帳と父の遺品だけを持って部屋を出る。
火の回りが早い。ちらちらと燃える炎が見えた。階段を下りて、そう長くはないはずの玄関までの距離を、身を屈めながら歩いて行く。熱い。痛い。煙で前が見えない。
燃えていく。私の家が。この家で生まれ、高校生のときまでをここで過ごした。家を出た後でも、たまにそこにあることを懐かしむことができる――そんな、私にとってかけがえのない故郷だった。それが今、全てを炎に焼かれていく。
火は怖い。梓が言っていた通りだ。この炎はきっと、全てを燃やし尽くしてしまうのだろう。
私はあまり物には執着しない方だと思っていた。そもそもこの家は、いずれ売りに出されるはずで――それでも、焼け落ちていく家を見ていると、胸が張り裂けそうな、力が抜けていくような、そんな感覚に囚われる。
それでも、どうにか玄関の扉に縋りついて、私はそこから外に飛び出した。ふらふらと家から離れて、そこで力尽きたように膝をつく。
「鹿子!」
門の方から私の名を呼ぶ声がする。この声は――
どうして、と思いつつ顔を上げると、苦々しい表情を浮かべている梓と目が合った。
「馬鹿者。こんな無茶をするやつがあるか」
私はただ肩で息をするばかりだ。そうして私が何も答えられないのを見ると、梓は私の背に手を当てつつ、声の調子を和らげてこう言った。
「すまなかった。私も、もっとちゃんと話しておくべきだった。明暦の大火は旧暦で一月――つまり今頃に起こっている。日記帳でボヤ騒ぎがあった日付とも一致していた。だから気にしていたんだ。もしも、また火を出すなら、近いうちだろうと」
どうにか落ち着いてきたので、私はそこでようやく、強張っていた腕の力をそっと緩めた。必死になって守った物――ボロボロの日記帳と薄汚れたぬいぐるみを目にした途端、私の内からは急に乾いた笑いが込み上げてくる。
「鹿子?」
心配そうな梓の声。
私の目には、知らず涙があふれていた。これだけのために、私はなんて無茶をしたのだろうか。それでも――
「馬鹿みたいって思う? 物は物なんでしょ? 私だってそう思う。でも私は……私は――」
嗚咽で声が震えている。梓は何も言わずに私の肩を抱き寄せると、炎に包まれていく家の方を悲しげに見やった。そして優しい声で、こう話す。
「長い歴史の中ではきっと、多くの価値ある物が失われてきただろう。だからこそ、時を経て今に残されている物は、間違いなく全て価値ある物だ。誰かがそれに心を寄せ、そして守った物なのだから」
私はあらためて、日記帳とぬいぐるみを抱き締めた。梓は私を立たせると、火事場から遠ざけるように歩き出す。
「しかし、物は物として価値があるように、君自身にも価値があるだろう。どちらか、じゃない。それぞれに、だ。だからこそ、君が君自身を尊ばないでどうする」
燃え続ける家から十分な距離を取ってから、梓は立ち止まり、そして振り返った。炎はとどまることなく、家中を包み込んでいく。無力な私では、もはやどうすることもできない。
私が救うことができたのは、日記帳とぬいぐるみ――このたった二つだけだ。後は全てが失われていく。
「物に向ける思い自体は、私も否定するつもりはないよ。どんな物にだって、回顧が、感傷が、逸話がある。それは、誰かの心の中に。しかし、私はそれに――値などつけられない。ただ、それだけだ」
そう言って、全てが終わるまで、彼女は私の傍らに立っていた。
火中に飛び込んだ私だが、梓から受け取ってお守りのおかげか大した怪我もなく、念のため病院で検査をしただけで特に問題もなく帰された。
とはいえ、私にはもう帰る場所はない。実家は全焼し、残っているのは黒く焼け焦げた燃えかす――ただ、それだけだ。
消火が確認された後、私は梓と共にその焼け跡を歩いた。
紫の布を探しに行ったのだが――まず見つけたのは一斗缶の中に入った青い壷だ。火の近くにあったというのに、それにはなぜか、燃えた跡はもちろん、煤けた汚れすら見当たらなかった。
壷からは白い布のような物が飛び出している。中を覗き込んでみたが――やはり、紫の布は入っていないようだ。あるいは、燃え尽きたてしまったのだろうか。
残された白い布を見て、梓が口にしたのはこんな話だ。
「これは火浣布だ。江戸時代に平賀源内が秩父山中で元となる鉱物を発見し、作成したことで知られている。要するに、燃えない布だ――いや。火鼠の皮衣、かな」
私が思わずそれを手に取ると、梓はさらにこう続けた。
「鹿子。その材料は石綿――アスベストだ。取り扱いには注意した方がいい」
アスベスト。というと、一時期建材の使用などで問題になった、あのアスベストだろうか。確か、あれは――
「有害物質じゃないの」
「線維状の角閃石あるいは蛇紋石。耐火性などの優れた性質でさまざまな用途に使用されていたが、空中に飛散した物を長期間吸い込むと肺癌などの原因となることがわかり、現在では使用を禁止されている――な。まあ、すぐにどうこうなるものじゃない」
梓は淡々とそう答える。
私はそのアスベストを、ひとまず遠くの地面に追いやった。そして何気なく、壷の中を覗き込む。
紫の布はないようだったので、今度こそ空になったのだろう――と思っていたのだが、よく見るとそこには、まだ何か別の物があった。
鍵だ。黒っぽい金属の、どこか古めかしい鍵。
取り出して、私はそれを梓に見せた。しかし、それは何の変哲もない、ただの鍵だ。当然、梓にもどこの鍵かまではわからないだろう。
しかし、この壷の中にあったということは――
災難に巻き込まれながらも、唯一、私の手に残された物。それはいったい何を開けるための鍵なのだろうか。
その鍵を見つめながら、私はただ、まだ見ぬ閉ざされた何かのことを思っていた。
そして、これは後日の話。お隣さんから不思議な話を聞いた。
家が火事だと騒ぎになる少し前。家の裏手で妙な物を見たそうだ。燃える紫色の小さな布がふわりと風に舞い上がったと思うと、火の粉を散らしながら、どこかへ飛んでいったのだと言う。
どこへ飛んでいったのかは、わからない。




