6 紫縮緬(2/5)
「とにかく、あの秘密箱は鷹の根付を封じていたのだとして、根付の方は伊吹が調べるだろう。後は、壷、か。それは今、どこに?」
「もちろん、ここに」
私はそう言って、足元に置いていた紙袋を持ち上げた。中には梱包材で何重にも包まれた壷が入っている。
「持って来ていたのか。ご苦労なことだな。日記帳だけでも荷物だったろうに」
梓が呆れたようにそう言うので、私は苦笑した。
「現物がないと、話が始まらないでしょう?」
私はそう言って、紙袋の中からそれを取り出すと、カウンターの上に置く。
広げた梱包材の中から出てきたのは、片手で持つには少しためらうくらいの大きさの壷。胴はふくれていて口は広く、薄い青色の表面には濃い青で絵か――あるいは、模様のようなものが描かれている。
その中には、何かごわごわした白い布のような物が詰められていた。そのことがどうしても気になって、私はそれに手を伸ばす。
「中に何か入ってるみたいだけど……」
「おい。むやみに触るな」
梓にはそう止められたが、そのときにはすでに中身を取り出してしまっていた。私は気まずく思いつつも、手にしたその白い布に目を向ける。そこには模様のような文字のような、読めない何かが刺繍されていた。
「もしかして、不味かった?」
私はその布をおずおずと梓の方へと差し出した。受け取った梓は、それを見て大きく顔をしかめている。
「これは――」
「待って。まだ何か入ってる」
白い布を取り出したことで壷の底が見えるかと思ったのだが、そこにはまた別の何かが入っていた。
紫色の――これもまた布だろうか。しかし、白い布とは明らかに質感が違うようだ。よく見ると、焦げた跡のようなものまである。
「何これ」
今度ばかりはうかつに手を伸ばすこともなく、私は壷を覗き込みながら、そう言った。
同じようにそれを確かめた梓は何やら考え込んでしまったが、しばらくしてからこう問いかけた。
「日記帳に、火の怪異は記されていなかったか?」
読み終えた日記の内容を思い出しつつも、私は目の前に積み上げられたノートの山から、そのうちの一冊を抜き出した。
「火……ね。あったと思う。待って。確か、こっちのノートに――」
ぱらぱらとページをめくって、該当の部分を探し出す。ほどなくして見つけたそれを、私は梓に差し出して見せた。
――家が火事だと騒ぎになった。
窓から黒煙が上がっていると。
確かめてみたが火の手はない。
煙もいつのまにか消えていた。
かごめさんの身に起こった、不審な火にまつわる一連のできごと。それは、この文章から始まっていた。このときは黒煙が見えただけだったが、それはやがて、彼女の家があわや火事に見舞われるか、というところまで発展していく。
それを引き起こした物は、確か――
「着物がひとりでに燃えたって話だったと思う」
「だとすれば、これはやはり振袖火事の……」
梓の呟きに対して、私はおそらく無意識に怪訝な顔をしていたのだろう。しかし、このときの梓はその反応に呆れることなく、わざわざこう言い直してくれた。
「名称としては、明暦の大火が正しいな。振袖火事は俗説による別名だ」
明暦の大火――何となく、聞いたことはあるような。
いまいち反応の鈍い私の様子を察して、梓はさらにこう尋ねた。
「……日本史は得意ではないか」
「人並みの知識はあると思うけど。専門はどちらかというと現代社会で」
とはいえ、歴史の勉強など、せいぜい高校生のときくらいまでしかしていない。ほとんど忘れてしまっているような気もする。
私の言い訳に呆れたのか、梓はいつもの冷ややかな表情に戻ってこう言った。
「いや。いい――わかった。明暦の大火というのは、一六五七年に江戸で発生した大火災で、江戸城を含む街の大半が焼失した。死者の数は定かではないが、数万人――多くて十万人以上とも言われている」
それを聞いて、私は思わず、ああ、と声を上げた。
「もしかして、それを機に江戸の都市が整理されたっていう? 犠牲者を弔うために、回向院が建てられた……」
火事の名称は忘れていたが、そのこと自体は覚えていた。梓はどこかほっとしたように頷いている。
「そのことだ。江戸は火事が多かったことで有名だが、その中でもこの大火の被害は甚大だった。原因については、定かではない。放火説なども唱えられているが――中でも有名なのは、本妙寺の失火とする説だ。それが振袖火事の名の由来でもある」
「どんな話なの?」
梓はこう話し出す。
「まず、裕福な家の娘がすれ違った男に一目惚れするが、恋患いで命を落とす――と、この時点ですでによくある話なのだが」
そんなことが現実によくあるだろうか。私は訝しく思ったが、ここではまだ口を挟まないでおく。
「その娘は亡くなる前に、想い人が着ていたものに似せて振り袖を誂えていた。死後にその振り袖は売られ、別の娘の物となるが、その娘も病で亡くなり――といったことがくり返される。不吉だとして、その振り袖は寺で焼いて供養することになるが、火のついたその振り袖は突然の風に舞い上がってしまう。それが原因で街に炎が燃え広がって――と、それが顛末らしい」
「何と言うか……ずいぶんと詳しいけど」
詳しいというか、出来すぎているというか。その事情を誰かが語ったのだとして、いったい誰が知っていたというのだろう。
私がうろんな目をしていることに気づいて、さすがに梓も苦笑する。
「そもそも、この話は明暦の大火を正式に記録した史料には残っていない。いつ頃から広まったかもわからない。ただ、かなり広くに知られていたらしく――そうなると、真実かどうかはともかくとして、その火事の代名詞ともなってしまうわけだ。あるいは、この後には現実にお七火事が起こっているからな。あれこそ物語の題材にもなっているし、その影響はあるかもしれない。ともかく――」
梓はそこで壷の方に――いや、その中にある紫の布の方に目を向けながら、こう言った。
「その燃えた振袖が――紫縮緬の生地に荒磯に菊の柄、だったとされている」
梓の視線を追って、私もあらためて壷の中を覗き込んだ。ここに振袖が収まっていることはあり得ないが、それでも、そこにある布は確かに紫色の縮緬生地で――菊らしき柄が見えた、気がした。
私は日記帳のページをめくって、それに関する記述を探し出す。
――ボヤの原因がわかった。
紫ちりめんの振り袖だ。
いつの間にかくすぶり燃えている。
仕方がないので浴槽の水に沈めておいた。
しかし知らぬ間にふわりと飛んでいく。
読んだときには意識していなかったが、確かに、紫ちりめんの振り袖とある。しかし、柄までは書かれていない。この後にも、そんなことは書かれていなかったように思う。
それを見た梓は、さらにこう続けた。
「それから、桔梗の紋――だったか、伝えられている話だと、もっと細かな描写があった気もするが……とにかく、この日記にはそこまで書かれていなくとも、紫縮緬に、おまけに火とくれば、どうしたって振袖火事に結びつく」
「でも、それは作り話で……というか、作り話なのに、その振り袖については、そこまで詳細がわかってるのね。いや――作り話だからこそ、か」
私はあらためてかごめさんの日記帳にある文章に目を通した。
――人からこんな話を聞いた。
大昔に着物を燃やして大火事になったことがあったらしい。
それが燃えずに残っていたのだろうか。
悲しい恋の妄念と一緒に。
あらためて読むと、かごめさんは振袖火事の俗説を知っていて、それを信じていたらしいことがわかる。しかし、梓はそうではないだろう。話を聞いたばかりの私ですら、それは事実ではないだろうと思っているくらいなのだから。
とはいえ、だとしたらこの怪異は――いったい何だというのだろうか。




