5 秘密箱(5/5)
根付の失踪から一夜明けた朝。その日は、家中に響き渡る異様な音で目が覚めた。
ちょうど日が昇り始める時間。耳に不快なその音が夢ではないことを確かめると、私はすぐさまベッドから飛び起きた。
壁の中を、何かが這うような音がする。何か――大きな、得体の知れないもの。
その音は、白い腕が現れたときに聞いたものと同じだったが、そのときよりは大きくなっているような気がした。何にせよ、あの皿を本来あるべき場所に返してからも聞こえたということは、やはりこれは、皿とは無関係の音だったということだろう。
音は続いていて、遠ざかる気配はない。這うような音と共に、家の壁が、柱が、絶えずみしみしと悲鳴を上げている。それにしても――這うものがまだこの家にいたのだとして、それはなぜ突然、こんなにも暴れ出したりしたのだろうか。
私はそろそろとベッドを離れると、携帯端末を手に取った。そして、真っ先に梓への番号を探し出す。
この音も、皿のときと同じようにやがては止むのかもしれない。そう思いつつも、私は梓に電話をかけた。
応答を待つ間、周囲の音に耳を澄ませておく。すると、どうも――その這うような音や、家鳴りとはまた別の音が聞こえるような気もした。
どこか遠くの方から――これは鳥が翼をはばたかせる音だろうか。それだけでなく、鳴き声のような音も。
そんなことを考えているうちにも、梓が電話に応答した。私が状況を説明すると、彼女は即座にこう告げる。
「すぐにそちらへ伊吹を向かわせる」
電話を切ると、さっきまで聞こえていた異様な音がいつの間にか鳴り止んでいることに気づいた。おかしな音は――ただの家鳴りを含めて――何もしない。
私は身支度を整えてから、家の外で伊吹を待った。心許ない時間を長く過ごした気がするが、実際にはそれほどではなかっただろう。日が頂に昇りきる前に、彼は私の家を訪れた。
「こんにちは」
昨日と変わらぬ様子で、伊吹は私にそう声をかけた。突然のことだというのに、にこにこと愛想よく笑っている辺り、彼は思った以上に人がいいらしい。
私は何だか急に心苦しくなる。
「その。呼び出したりして、申し訳ないんだけど……昨日の今日で会ったばかりだっていうのに」
「かまいませんよ。慣れてますから」
突然の呼び出しに、か。それとも梓の無茶な要求に、だろうか。私は怪異のことよりむしろ、彼のことが心配になった。
ひとまず状況を伝えたところ、伊吹はさっそく家の周辺を見回り始める。古い一軒家だ。しかし、何か恐ろしいものが潜んでいそうだとか、嫌な気配があるとか、そんなことは一切ない。平凡で取るに足らない、ごく普通の民家。
しかし、伊吹はその家を見ると、少しもしないうちに顔をしかめた。
「ここ、何かいました?」
私は答えを迷う。その何かの姿を、私は目にしたわけではない。ただ音を聞いただけ。しかし――
「いたんでしょうね。あんな音がしたからには」
私がそう答えると、伊吹は頷いた。
「あまり、よくないものの気配がします。ご無事で何よりでした」
よくないもの。
音に対する恐怖心がなかったわけではないが、私はこのことに身の危険までは感じていなかった。梓が平然としているから、こういったことにずいぶんと麻痺してしまっている気がする。
しかし、彼女の場合は、おそらくその体質で怪異を避けられているにすぎない。私と梓では条件が違う。これは考えをあらためなければならないかもしれない。
思えば――梓のことを知る柚子や伊吹と話してみて、あらためて感じたことだが――私は彼女のことをまだ何も知らないようだ。私自身は、梓に自分の身の上話までしてしまったというのに。
「一宮さん。とにかく――この家、少し探ってみますね」
物思いに沈んでいた私は、伊吹に声をかけられて、はっとした。
そうして振り向いた先。伊吹は私の返事を待つことなく、突然真上を向いたかと思うと――長く声を発し始めた。まるで犬の遠吠えのように。私は突然のことに呆然とする。
平静に戻った伊吹は、私が戸惑っていることに気づくと、ごまかすように笑みを浮かべた。照れているようだ。何なのだろう。
それからいくらもしないうちに、どこからか犬の足音が近づいてくる。それと犬の呼吸音、だろうか。しかし、周囲のどこにも犬の姿は見当たらない。
伊吹は何もない地面に向かって、こう呼んだ。
「疾風」
その呼びかけに応えるように、彼の視線の先にある空間が少し歪んで見えた。伊吹が家の方を指差すと、その犬の影のようなものは揺らぎながら家の方へと走って行く。
「今の、犬?」
だとすれば、疾風というのは犬の名前か。私がそう思って呟くと、伊吹は軽く目を見開いた。
「ご覧になられました?」
朧気だったので、はっきり見たわけではなかったが――見てはいけなかったのだろうか。私は不安に思ったのだが、伊吹はむしろ、ぱっとその目を輝かせた。
「かわいいでしょう? 僕の犬なんです」
「え」
ただの犬好きのようなことを言い始めた。しかし、あれはどう見ても普通の犬ではなかったと思うのだが。
梓は彼のことを動物専門家だと称していたが、私が考えるに、これはむしろ――
「あなた、その。もしかして、霊能者ってやつ?」
その問いかけに、伊吹はきょとんとした顔で首を傾げている。
「え? ああ……一般の人からすると、そうなんでしょうね。僕自身には、あまり自覚がなくて。そういうことを、普通にしている家なので」
「……動物の専門家?」
「梓さんは、そんな風におっしゃってましたか」
伊吹は苦笑している。
私は急に、彼と梓の接点が気になり始めた。柚子は梓のことを昔なじみだと言っていたが――伊吹もまた、それなりに近しそうではある。
「梓とは、どういう関係か、聞いても?」
「そうですね……元は梓さんのおばあさんに、うちの両親がお世話になっていたので。それで」
梓の祖母とは会ったことはないが――おばけ屋敷と噂される店を営んでいたなら、おそらくその人物も怪異に詳しいのだろう。そして、伊吹もまた――その言い分を信じるなら――動物の専門家――いや、おそらくは動物の怪異の専門家――であるらしい。
伊吹は続けてこう話す。
「僕の故郷は群馬なんですが、今は大学に通うため、こっちに下宿しているんです。梓さんはそれを知ってたので、僕のことを呼んだのかと」
それを聞いて、私は思わず顔をしかめた。
「そう。大学生なの。じゃあ、その……学校の方は大丈夫? というか、梓にこき使われてない?」
彼がここにいるのは、間違いなく、梓から指示されたからだろう。私としてはありがたいことなのだが、彼にしてみれば、よく知りもしない相手のところへ突然呼び出されていることになる。迷惑でないはずがない。
昨日は昨日で、何の関係もないというのに、彼は店の片づけまで手伝わされていた。私はあらためて彼のことが心配になる。
「今日の予定は? 私のせいで呼び出しておいてあれだけど、梓が無茶言ったなら、私から言っておくけど」
老婆心だと思いつつそう言ってしまったのは、彼が親しくしていた後輩に少し似ていると思ったからだ。しかし、私のお節介に対して、伊吹は困ったような表情を浮かべている。
そんなことを話していると、不意に犬が近づく気配がした。戻ってきた、と言った方が正しいか。伊吹はすぐさまそれに反応し、そちらの方へ視線を向ける。しかし、その先にはやはり何の姿も見えなかった。
伊吹はその場にしゃがみ込むと、しばらくは真剣な表情で、何もない地面と睨み合う。いや――おそらくその視線の先には、姿は見えなくとも、彼がかわいがっている犬がいるのだろうけれども。
しばらくして顔を上げた伊吹は、私に向かってこう言った。
「よくないものは、この家にはもう、いないようです」
もう、いない。どこかへ去ったということだろうか。だとすれば、再びここへ来る可能性もあるかもしれない。あるいは――
「また、こんなことが起こると思う?」
「いいえ。そのよくないものは、争って負けたのではないかと」
その言葉に、私は思わず首を傾げた。
いったい何に負けたのか――と考えたとき、真っ先に思い出したのは白い腕のことだ。もしかしたら、あのときも、この家では争いがあったのではないだろうか。白い腕と這うもの。そして、あのとき勝ったのは、おそらく這うものだった。
だとすれば、今回は――
ふと見ると、伊吹は何かを視線で追っていた。そのうち、彼はそれに従うように歩き始める。
見守っていると、彼はやがて、家と外壁にわずかな隙間がある辺りで立ち止まった。屈み込んだかと思うと、彼はそこで、地面にある何かを拾い上げる。
「ああ。ありましたよ。これですよね? 鷹の根付」
そう言って、伊吹は手にしたものを掲げて見せた。それを確かめて、私は思わずはっとする。
それは間違いなく、あかとき堂で秘密箱から取り出した、その根付だった。店でなくなった根付が、なぜこんなところに――
聞こえた翼の音と鳴き声の正体は、この鷹の根付だったのだろうか。そして、伊吹の話を信じるなら、今回はその鷹が這うものに――勝ったのだろう。
理屈がわかったわけではないが、私はとりあえずそう納得した。しかし、這うものがよくないものだったとして、この鷹の根付はどうなのだろうか。
伊吹はこちらへと戻って来る途中、何か気がかりがあるかのように、じっと根付を見つめていた。その表情は思いのほか厳しい。これもまた、よくないものなのかもしれない。
私の側まで戻ると、伊吹は鷹の根付を示しながらこう問いかけた。
「あの、これ……僕に預からせてはもらえないでしょうか」
それが善いものであれ悪いものであれ、動き回る鷹の根付など私に管理できるはずがない。そう思って、私はそれを承諾した。
伊吹が帰った後、私は電話で梓に報告する。
「動物関連の怪異は、だいたいあの家に収束するんだ。それがいいだろう」
根付を伊吹に預けたことに対して、梓は私にそう言った。




