4 椿皿(5/5)
辿り着いたのは支流の行き止まり。小さな滝が流れ落ちる、深く澄んだ淵の岸辺だった。
周辺に人影はなく、聞こえてくるのは、風によってざわめく木々の音と、時折響く鳥の鳴き声だけ。水面は不思議と波もなく、水底があざやかに見渡せた。それでいて、角度によっては鏡のように周囲を映しているようにも見える。
私はしばし呆然と、その光景に見とれていた。
そのうち不意に、梓から漆器の皿を差し出される。私はそれを無言で受け取った。
皿には蒔絵で鹿が描かれている。幾重にも枝分かれした大きな角を持ち、体が葉に覆われた独特の姿をしている、変わった鹿だ。
見ようによっては雄々しくも見えるその鹿は、私が今いる場所と同じ、山の中の水辺に佇んでいるようだった。
動けずにいる私に、梓はこう声をかける。
「物は物だよ。思いはその物にあるのではない。君が今、感じているものこそが、思いだろう? 物がなくなっても、その事実が消えて無くなるわけではない」
そう言って梓は一度口を閉ざしたが、一息置くと、気づかわしげにこう問いかけた。
「それでも、手元に置いておきたいか?」
私は首を横に振る。
「いいえ」
そう答えた私は、淵の冷たい水にその皿を浸すと、ためらうことなくそれを手放した。
「借りたものは返しましょう、でしょ?」
梓の言うとおり、私にとって大事なのはこの皿自体ではない。そして、何より、梓の助言と助力を無下にしたくはなかった。
皿は深い深い淵の底へ落ちていく。水が澄んでいるので、しばらくはゆっくりと沈んでいく様が見えていたが、それもやがて暗がりの中へと消えていった。
しばらくの間、ただ水面を眺めていた。特別なことは何も起こらない。とても静かで穏やかな光景だ。
不意に梓が口を開く。
「椿皿に描かれていた鹿のことだが――」
珍しく言いにくそうに、梓はそこで口を閉ざした。ちらりと私に視線をよこしてから、何かを決心したように、彼女は再び口を開く。
「珍しいモチーフだと言っただろう。あれは、伊佐々王だ。播磨国の地誌『峯相記』にある。あの皿は、その物語を描いた一枚だろう」
「……いざさおう?」
突然のことに、私は間抜けな調子で問い返した。
「高さ二丈もある大鹿で、角は七つに分かれ、体には苔が生えている。数千の鹿を従えて、人を食い殺していた」
何だか急に物騒な話になってしまった。人を食い殺すような、恐ろしい大鹿。それは――
「つまり――化け物鹿だ」
「化け物」
「最後には勅命により、退治される」
「退治」
何の考えもなしにそうくり返していると、不意にあることが思い出された。
――ただあのことだけは黙っていようとやえさんと話した。
日記帳に書かれていた言葉だ。
あの鹿の絵は父にとってはおそらく――私だった。化け物鹿ではなく。ならば黙っていた方がいいだろう。たとえ、そのことを知っていたとしても。
私は思わず吹き出した。それを発端に、自分でもよくわからない笑いが込み上げてくる。
「どうした。鹿子」
梓が珍しく、ぎょっとしている。
「親子そろって」
私の笑いは止まらない。その合間に、どうにかその言葉を絞り出した。
「そういうことには疎いから」
化け物鹿の物語。
父はきっと、そんなことを知りはしなかっただろう。だからこそ、それを知っていた彼女は、父のことを思って黙ってくれた。父のために。
――フクチさんは本当によくしてくれる。
娘さんとは会えなくなった理由はわからないけど。
いつかきっと和解できるのではないかと思う。
そうなって欲しい。
日記に書かれていたその言葉を、私は一言一句違わずに覚えていた。
彼女の日記を、信じてもいいだろうか。いや、私はきっともう、それを信じたいと思っている。そして、今なら信じられるような気がした。
もう、私の中に渦巻いていた疑念はない。
私が笑いを収めたことを確かめて、梓はこう言った。
「では、帰るか」
その言葉に、私は頷く。
淵を背にすると、梓は振り返ることなく歩き始めた。感傷的なところなどない、彼女らしい潔さで。
私の方は、ほんの少しの名残惜しさを感じながらも、それに続いていく。
「そういえば――」
私は若干の心残りから、前を行く梓にこう話した。
「あの皿は揃いの皿なんでしょう? 全てが揃っているなら、描かれているその――伊佐々王の物語が、どんなものか、少し見てみたかったかも」
「何なら、揃いで皿を借りてみるか?」
そのとき、背後でかしゃん、と小さく音がした。思わず振り向いた視線の先。淵の岸辺で、水面から伸びた白い腕が、漆器の皿を重ねていくのが見えた。
その光景に、私は――自分でそれを望んでいながら、理不尽にも――ぞっとしてしまう。あのときの白い腕は、やはり。
「もしも、それが借りられたら……梓はどうするの……」
私は白い腕の動きから目を離せずに、呆然としながらそう言った。
淵の様子に気づくこともなく、梓はさっさと遠ざかっていく。そして、立ち止まることもなく、こう答えた。
「私が求めるとなると、売り物としてだからな。残念ながら返せないし、借りはしないよ」
その言葉を聞いたからか、白い腕は岸辺に置かれた皿を、そっと回収していった。どこか残念そうに。




