4 椿皿(4/5)
家に帰り、ひとり自室で考え事をしていた。この日、梓と話したことについて。そして、話さなかったことについて。
私はあのとき、日記にあったある記述を、あえて梓に見せていなかった。見せなかった理由は、気持ちの整理がまだついていなかったからだ。
日記によると、父はその頃、ひとり暮らしの老人を支援するような会社か何かで働いていたらしい。父が骨董屋敷に赴くことになったのは、それが縁だったようだ。
私は日記帳を手に取り、該当のページを読み始める。
――フクチさんという人が来た。
ご用聞きのようなことをしているらしい。
やえさんはサギか何かじゃないかと言っている。
決めつけるのはよくないと思う。
福智は父の姓だ。これが日記に初めて出てくる父の名だった。これ以降、日記には何度か父の名が出てくる。
ご用聞きの言葉どおり、父はいろいろと彼女の頼みごとを受けていたらしい。年寄りでは難しい高所の照明器具の入れ替えやら、重い荷物の運搬やら。ちゃんとした業務なので、もちろん詐欺ではない。
――フクチさんの娘さんは鹿子ちゃんと言うらしい。
二階にある漆器の皿が気になったようだ。
鹿の絵が描かれているから、と。
日記には、そんな風に私の名も書いてある。
まさか、こんなところで自分の名を見ることになるとは思わなかったが――これがあったからこそ、私は父との関わりを確信したのだった。
ただ、父が鹿の絵を私に結びつけたことに関しては、短絡的だと思わないではないけれども。
――漆器の皿はフクチさんに譲ることにした。
危険がないことはやえさんに確認している。
水がたまることもそうそうあることではない。
ひとこと伝えておけば問題ないだろう。
ただあのことだけは黙っていようとやえさんと話した。
これが、父に皿が譲られた経緯だ。私はくり返しその部分を読み返す。
あのこと、とはいったい何だろう。なぜ、あえて黙っていることにしたのか。
私は考える。怪異が人を殺したとしても、それはおそらく人知を越えた現象なのだろう。そんなものを相手に、恨みを晴らそうなどとは私も考えてはいない。しかし――
もしも、その物が怪異を起こすとわかっていて、あえて相手にそれを渡すことがあったとしたら。
父が亡くなった時期の日記帳は手元になかった。ちょうど抜けている部分だ。存在するならば、あの家のどこかに残されているのだろう。そこには何かしら、父の死に関することが書かれているのかもしれない。
彼女は何を考えて、父に皿を譲ったのだろうか。彼女の言葉は信用できるのか。今まで私は、この日記帳を頼りにしていたが、それは本当に正しいことだったのだろうか。
死んだ者の思いなど、私にはわからない。過失にせよ故意にせよ、もしも彼女が何かを伝えずに、父にそれを渡したことで――そのせいで父が死んだのだとすれば。
しんとした室内に家鳴りの音が響く。あるいは、この音は白い腕が現れたときにこの場にいた別の何かが――壁の中を這っていた何かが動くことで鳴っているのかもしれない。
父の死についての不審な点。そこに生まれてしまった疑念をどうすることもできずに、私はただ目の前の文字を何度も読み返していた。
後日、梓から連絡があった。
皿を借りた場所が特定できたと言う。それが容易なことなのか、それともそうでないのか、私にはわからない。しかし、彼女からの電話では、簡単にその事実と住所が告げられただけだった。
お互いに都合のいい日を待って、私たちはその場所へ向かうことになる。当然、梓はあの漆器の皿を持って。
駅で待ち合わせ、三十分ほど電車に揺られる。目的地へは、そこからバスで二時間程度。そうして訪れたのは、山間にある長閑な集落だ。
バス亭からは、さらに歩くとのこと。穏やかな流れの川に沿って、私たちは道を進んで行く。
周囲の景色を見ているうちに、ふと気になって、私は梓にこう問いかけた。
「ところで、どうやってこの場所を特定したの? 霊能者にでも頼んだとか?」
「霊能者にどうしてそんなことがわかるんだ。どちらにせよ、私はその手の専門家には嫌われている」
梓は淡々とそう答えた。
嫌われている。なぜだろうか。どちらかというと、そういうことに通じている方かと思っていたのだが。それとも、同業者だから、だろうか。
梓は軽く肩を竦めながら、こう続ける。
「とはいえ、私では知識不足だろうし、調べたところで特定するには至らない。流石に全ての椀貸伝説を見て回るわけにもいかないからな。結局は情報屋に頼ることにした」
情報屋。また、あやしげな単語が出てきた。梓は私の訝しげな表情に気づくことなく、何でもないことのように話し続けている。
「私もたまに利用している。情報の確かさという点では申し分ない。ただ、どんなことでもわかる代わり、法外な金額を要求されるが」
何かのフィクションにでもありそうな話だ。私は軽い気持ちでこう尋ねた。
「まあ……そういうのは金持ちからはふんだくって、情によっては無料にしてくれるとか、そういうのでしょう?」
「何だそれは」
梓には怪訝な顔をされる。伝わらなかった。
「そうでないなら、その法外な金額をあなたはどうやって支払ったの」
「うちには幸い、相手が気に入るような、いわくつきの品がいろいろあるからな」
彼女の言葉に、私は軽く目を見開いた。ならば、梓はこの情報を得るために、店の商品を手放したということか。どうして、そこまでして……
しかし、梓は私の視線など意に介さず、平然としている。そして、ぽつりとこう口にした。
「どうせ、私の手元にあっても何も起こらない」
そう呟いた彼女の声音が、少しだけ寂しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。
しばらくの間は、お互いに無言で歩いた。先行く梓に従って、川の支流を辿り山の中へと入って行く。杉林の中にある小さな祠を横目に、その脇道を通り過ぎて行った。
事前の話が確かなら、そろそろ着く頃合いだろう。そう思って、私は梓に問いかける。
「それで、その――椀貸伝説だっけ。私も調べたけど、それってあくまでも物語よね?」
「そうだな。借りる物、貸してくれる場所、貸してくれる者の正体。場所によって形を変えながらも、くり返し語られているということは、それがそれだけ、すぐれた物語だということだろう」
彼女はそう言った。しかし、それが物語ならば、私はいったい、ここに何をしに来たのだろう。
梓はこう続ける。
「昔は宴などで人が集まるとき、人々は大抵、他所から食器などを借りていた。余分にそれらを持っている家など、あまりなかっただろうからな。そういう場合に、どんな問題が起こると思う?」
「借りた物を返さない者が出てくる」
私がそう答えると、梓は頷いた。
「実際、そう考えると、この話は教訓としてよくできている。昔々はどこそこで食器なり何なりを簡単に借りることができた。しかし、不心得者がいて、それができなくなった。聞いている者にとっても、それは不利益だ。だから、そんなことをしてはいけない。わかりやすいだろう?」
確かに、そうかもしれないが――
私は戸惑う。彼女は椀貸伝説のことを物語としてではなく、事実として捉えているのだと思っていた。でなければ、返しに行こうという話にはならないはずだ。
しかし、話を聞いていると、どうもそれ自体が物語であることは否定しないらしい。これはどう考えればいいのだろうか。
「それで、その――私は何にその皿を返しに行くの? 物語なんでしょ?」
その問いかけに、梓は怪訝な顔で私のことを見返した。
「物語は物語だよ。しかし、それはそれとして、ここには皿があり、情報屋が持ち主はここにいると言っている。物語として語られていることと、そういった存在が在るということは、相反しはしない。つまりは、そういうことだ」
梓はあっさりとそう言った。




