4 椿皿(2/5)
梓は漆器の皿を手に取ると、その内側に描かれた絵をじっと見つめた。
「これは花鹿か? いや、違うな……」
彼女はそう評したが、私にとっては、これがありふれた物なのか、そうでないのか、あるいは、どれほどの価値がある物なのか、そんなことは重要ではなかった。
私は淡々とこう答える。
「悪くないな。蒔絵の出来もいいし、珍しいモチーフだ」
彼女はそう評したが、私にとっては、これがありふれた物なのかそうでないのか、アンティークとしてどれほどの価値がある物なのか、そんなことはあまり重要ではなかった。私は淡々とこう答える。
「亡くなった父が持っていたの。私の名前と関連があるからってことでしょうけど。たぶん」
「………………君の名?」
珍しく戸惑ったような表情で、梓がそう聞き返したので、私は顔をしかめた。まさか、私の名を覚えていないのだろうか。しかし、確かに呼ばれたこともない気がするので、私は軽くため息をつく。
「鹿子だから。そのままでしょ。鹿の字」
「鹿……まあ、鹿、だが」
やはり歯切れが悪い。皿に描かれた鹿の絵と自分の名を結びつけることが、そんなにおかしいだろうか。
ともあれ、私がここを訪れたのはそのことについて議論するためではない。私は単刀直入にこう尋ねた。
「ねえ。物が起こす怪異が人を殺すことはあるの?」
「……どういうことだ」
梓はすぐに気色ばむ。私はこう続けた。
「父の死には不審な点があったの。だから、もしも、この皿が何かを起こしたのだとしたら――」
「待て。順を追って話してくれ」
梓はそう言って、私の言葉をさえぎった。
もしも、物が怪異を起こせるたのだとしたら、父を殺したのはこの皿なのではないだろうか――私はその問いかけを飲み込んだ。
順を追って話すとして、さて、どこから話せばいいのだろう。少しだけ考えてから、私は背景を含めて、その全てを話し始めた。
両親が離婚したのは、私が物心つく前のことだった。
私にとっての家族とは祖父母と母の三人を指し、そこに父は含まれていない。私が父と接していたのは赤ん坊だった頃の短い間だけで、言葉を交わした記憶もなければ、顔すらろくに覚えていなかった。それくらい、私にとって父は希薄な存在だ。
母はその場にいない人の悪口をあげつらうような人ではなかったので、別れたからといっても父のことを悪く言うことはなかった。しかし、逆に良いようにも言わなかった――というか、話すこと自体を避けていた節がある。
母にとって、父の存在はあまり口にしたくない、思い出したくないことだったらしい。別れた後、お互いに連絡を取ることもしていなかったのだから、そういうことなのだろう。
そのせいで、私は父のことを全くと言っていいほど何も知らなかった。そもそも、知りたいと思ったこともなかったかもしれない。
家族としては現状で何ひとつ不足はなく、私には父のことを気にする必要などなかったからだ。あの母が言葉を濁すくらいなのだから、父の人となりなど、知ったところで、失望するだけかもしれない――その頃の私は、そんな風に考えていたように思う。
そんな父の存在が急に大きくなったのは、私の元に、とある知らせが舞い込んでからだった。
父が死んだ。その知らせを受けたのは、私が大学生のとき。亡くなったのはアパートの一室で、発見されたのは死後しばらく経ってからのこと。
父の死は、孤独死だった。
身寄りのなかった父の遺体を引き取るため、私は母と共に警察へと赴いた。父の死因は溺死。風呂場で転倒したかして、不慮の事故により亡くなったのだろうと説明された。
そのとき私たちが対面したのは、焼かれて骨となった父だ。
それを見ても、そのときの私は特に悲しいとも思えなかった。それに対してどんな感情を抱けばいいのか、まだ気持ちの整理がついていなかったからだ。
それでも私は、その後、母と共に父が暮らしていた部屋の後始末を行った。質素な生活が偲ばれる他は、取り立てて問題となるようなもの――遺産とか借金とかそういったもの――もなく、変わった物があったとすれば、殺風景な部屋の中にあって、妙に目を引いた漆器の皿とぬいぐるみくらいだろうか。
その遺品を見たとき、母はすぐさま、似合わない、というようなことを言っていた気がする。
端切れで作られたらしい――おそらく手作りの――小さな鹿のぬいぐるみと、変わった鹿の姿が描かれた漆器の皿。
それを見たとき、私は何だか、打ちのめされたような気がした。
父のことなど、私は何も知らない。しかし、父の方は、私に何かしらの思いがあったのかもしれなかった。どんな思いだったのか、何を考えていたのか。今となっては、私に知る術などないけれども。
私は母に、皿とぬいぐるみを引き取ってもいいか尋ねた。母はそれを承諾し、それ以来そのふたつは常に私の手元にある。
そうして身近に置いてからこちら、私の元でこの皿が奇妙なことを起こすことはなかった。おかしいと思ったのは、皿に水がたまっていたことに気づいたのが初めてだ。
そういうわけだから、当然、父の死に怪異がかかわっているかもしれない、などと考えたことはない。しかし、皿の元に現れた白い腕と妙な音をきっかけに、私は日記帳に父の名を見つけてしまった。
だから私は――
私からひと通りの事情を聞いた梓は、神妙な顔でふむと呟くと、続けてこう問いかけた。
「それで、君の父上の死について、不審な点とは?」
「父はうっかり転倒したかで、そのまま浴槽で気絶したらしいの。それで、死因が溺死なのは確からしいんだけど……なかったって。現場の浴槽に、それほどの水は」
それを聞いた梓は、淡々とこう返す。
「亡くなってから、何らかの理由で排水されたか、蒸発したという可能性は? 十センチに満たない深さでも、溺死することはあるというからな……」
梓はあくまでも、現実的な見解を示すことにしたようだ。
私は苦笑した。
「話してくれた警察の人も、似たようなことを言ってた気がする」
それを聞いた梓は、軽く顔をしかめる。
「警察の判断としては、事件性はなかったということだろう。しかし、君もずいぶんと詳しく聞いたものだな」
「しつこく食い下がったから。まあ、話してくれた人も、これが事故だって納得してなかったのかも。これは私の印象だけどね」
梓はしばらくの間、考え込むように私のことをじっと見つめていた。しかし、不意にため息をつくと、カウンターの上にある皿の方へと目を向ける。
「とにかく――そこから君は、気づくと水がたまっているという、この椿皿と父上の死との関連を、疑い始めたわけだな?」
父の溺死と皿の水。関連がある、と考えるには少し弱いと自分でも思う。しかし――
皿の元に現れた白い腕。そして、その後に起こった怪音。あれらが皿が引き起こしたことであるなら、父が生きていた頃にも同様のことが起きた可能性はあるのではないだろうか。
ただし、仮にそうだとしても、それが事実、父を殺したとするには、やはり無理があるかもしれないが。
私の身に起こった奇怪なできごとについては、今のところ梓も断定的なことは言っていない。あまりにもおかしなことだったから、彼女にもすぐにはその正体がわからないのだろう。
私自身も、今となっては夢でも見ていたのではないかと疑っているくらいだ。それくらい、あのとき見聞きしたものは、今まで経験したことのないようなできごとだった。
物思いに沈んでいた私に向かって、梓はさらにこう問いかける。
「もうひとつ。この椿皿が例のゴミ屋敷――いや、実態からすると、骨董屋敷とでも呼んだ方がいいのかもしれないが――そこから、君の父上に渡ったというのは、確かだろうか? 日記帳に父上の名があったというが、偶然にしては少々できすぎている気もするが」
私は日記の文面を思い出しながら、こう言った。
「父の名があったといっても、名字だけで、しかも漢字がわからなかったのか、カタカナ表記。だから、同姓ってこともなくはないでしょうね」
私はまず、そう前置きする。
日記帳に父の名があったことは確かだ。しかし、名前があったというだけでは、同一人物だと断定できるものではない。そう判断したのは、父の元に同一と思われる皿があったことがひとつ。それから――
そもそもの話。私がたまたま知っただけのゴミ屋敷――あらため、骨董屋敷に住んでいた人物と、私の父に接点があったということ自体、都合が良すぎると言われればそうだろう。しかし。




