4 椿皿(1/5)
「さて――」
梓は新聞を丁寧に折りたたむと、あらためて私に向き直り、こう言った。
「君がここを訪れたということは、また何か奇妙なことでもあったか」
そう言って、梓はあっさりと指輪を巡るできごとを流してしまう。私はそのことに若干の戸惑いを覚えた――が、それはもはや、私にとっても苦い過去でしかなく、今さら蒸し返したいようなことでもない。だからこそ、それ自体はありがたいことではあった。
そうでなくとも、たとえあのとき、これから起こるだろうことを確信できていたとして、私にはあのできごとを回避することなどできはしなかっただろう。あの状況で自分がどうするべきだったのか、思い返してみても、未だにその答えはわからなかった。
もちろん、悔いや負い目が全くないわけではない。しかし、それでもそれを引きずってばかりもいられなくなったのは、彼女の言うとおり、私の周囲で別の異変が起こったからだ。
私は鞄を下ろすと、その中から一枚の皿を取り出した。梓は身を乗り出すこともなく、視線だけをそれに向けている。
「今度は何だ」
取り出したのは赤い漆器の皿。大きさは手のひらに乗る程度で、底にはお椀のような――しかしそれよりは低めの台がついている。
皿の内側の部分には蒔絵で――おそらくは――鹿の絵が描かれていた。
おそらく、としたのは、その鹿が幾重にも枝分かれした大きな角を持ち、体が葉に覆われた独特の姿をしていたからだ。
「銘々皿……椿皿か? その皿は初めて見るな。まさか、また何者かによって君の元へ届けられた、とでも言うんじゃないだろうな」
私は首を横に振る。
「違う。これは家の前に誰かが置き去った物でもなければ、例の家から持ち出された物でもない」
私はそう言って、その皿を梓の目の前に、カウンターの上に、ことりと置いた。
「私の父の遺品なの」
梓は皿から目を離すと、私のことをじっと見返した。
それが起こったのは、例の事故が報じられた翌日のこと。
あるときふと、机の上にある漆器の皿にわずかばかり水がたまっていることに気づいた。この現象に遭遇したのはこれで二度目。一度目は京都から戻った後のことだ。
そのときは雨もりだと思ったので、そこにあった水は何の気なしに捨てている。しかし、実際に水滴が落ちているところを見たわけではなく、天井にその跡を見つけたわけでもない。
再び同じ状況を前にした私は、あらためて違和感を抱き始めていた。
皿にたまった水。透明で濁りもない、至って普通の水だ。しかし、これは本当に雨水なのだろうか。
よくよく考えてみれば、どこかおかしい。水は周囲に飛び散ることもなく、その皿だけにうっすらとたまっている。そうでなくとも、ここしばらく雨は降っていないはず――そう思った途端、私は妙な既視感を覚えた。
これと同じ状況を、どこかで読んだ気がする。そのことを思い出して、私は例の日記帳を手に取った。
――二階にある漆器の皿に水がたまっている。
雨もりかもしれない。
――あれは雨もりではなかったようだ。
ここしばらく雨は降っていない。
これだ。
私は合点がいくと同時に戸惑った。目の前で起きていることは、まさしくこの日記帳に書かれた内容と同じ。だが、違う。この皿は千鳥が持ち出した物でも、私の元に届けられた物でもない。
だとすれば――どういうことだろう。同じような状況が日記にあるということは、これはむしろ、ありふれた現象だということだろうか。この皿のことが、日記帳に書かれているはずなどないのだから。
この家も古い。何かしらの不具合があってもおかしくはないだろう。それについては、あらためて母に確認してみなくてはならなかった。日記の内容と結びつけるのは、それからでも遅くはない――
そう思って、日記帳を机の上に戻そうとした。そのとき。
視界にある漆器の皿の近く。何か白いものが動いていることに気づいて、私は全ての動きを止めた。
白いもの。細くて、すらりとした一本の腕。それが皿に向かって伸びている。あたかも、不要になったその皿を下げようとでもするかのように。
腕のつけ根の方は机の向こうの死角になったところにあって、それが何者なのか――そもそも、その先はあるのか――うかがい知ることはできなかった。いずれにせよ、そこに誰かが隠れられるとも思えない。
私は少しも動けなくなる。机の上の皿から、それに手を伸ばす腕から、目を離すことができない。その動向を一瞬たりとも見逃すことが恐ろしくて、身じろぎすらできなかった。
不意に、ぴちゃん、と音がする。水音か。でも、どこから――
雨もりではないだろう。今日は晴天の予報だ。当然、雨音もしない。そう思って、皿の方へ、そこにたまった水へと、わずかばかり意識を向ける。そこで初めて、水面にかすかな波紋が広がっていることに気づいた。
音はその波紋の動きと一致している。しかし、天井から水滴が落ちているわけではないようだ。
水音は耳を澄ませなければ聞こえないほど、かすかな音だった。自分の呼吸音だけが妙にうるさく感じられる。
不自然に長く奇妙に折れ曲がった白い腕は皿までたどり着くと、手探りするように、その指を皿の縁に這わせ始めた。
ぴちゃん、と音がする。腕はその音を目指しているのか、皿の内側へそろそろと手を伸ばしていく。たまった水に指先が触れようとした、その瞬間。
まるで、私に見られていることに気づいたかのように、その腕は一切の動きを止めた。
私は沈黙したその腕と睨み合う。
いや、それは錯覚だ。腕のどこにも目などついてはいない。それは傷ひとつない、白く美しい腕だった。
不意に、何かが這うような音が聞こえてくる。ずるずると、何かがこすれるような音がゆっくりと近づいていた。その音が聞こえる度に、家のどこからか、わずかにみしみしと軋むような音がする。
この音は――家鳴りなどではない。
白い腕は、ゆっくりと漆器の皿から離れようとしていた。皿のことは諦めたのか。あるいは、別の何かに気を取られているのか――そう思った刹那。
腕は何かに引きずり込まれたかのように、机の向こうにある死角へと消えていった。最後に見せた、もがくように宙を掻いたその仕草が、妙になまめかしく目に焼きつく。
そして、次に聞こえてきたのは、ひどく耳障りな音だった。
「な、何」
水分のある何かをぶちまけるような音と、硬いものが折れるような音。その音が絶えずどこからか聞こえてくる。
私は音の出所を探して周囲を見回した。動くものは何もない。腕の消えたところ――机の影をのぞき込んだが、そこには当然のように何の姿も見当たらなかった。
正体のわからない音は続いている。何かが這うような音と共に、水っぽい破裂音と乾いた破砕音が響く。その音は、おそらく壁の中か、その先か――見えないところから聞こえてくるようだった。
「何の音!?」
思わず、そう叫んだ。自分でも驚くほどの金切り声で。
――何が起こっているの。
漆器の皿は父の遺品だ。これが怪異と関わりがあるはずがない。しかし、だとしたら、今起こっているこれは、何だ。
家から出るべきだろうか。よくわからないが、ここから逃げるべきでは。そう思ったとき、全ての音が不意に止んだ。いや、かすかだが、這うような音は相変わらず聞こえている。しかし、それも徐々に遠ざかって行く。
私は荒く息をしながらその場で立ち尽くした。どうしよう。どうすればいい。
室内も、机の上のぬいぐるみも日記帳も、もちろん漆器の皿も。あの腕が現れ消えていく前と、何も変わりはない。しかし――
私はしばし呆然としてから、そのうち落ち着きを取り戻すと、机の上の日記帳へと飛びついた。
ページをめくり、皿に関する別の記述を探す。だが、なかなか見つからない。
では、白い腕についてはどうだろう。
――押し入れの中から誰かが手招いている。
子どもの手のようだ。
爪が全て剥がれている。
血まみれで見るからに痛々しい。
違う。
ならば、壁の中を這うような音は。
――かりかりと何かをひっかく音が聞こえている。
窓の辺りからだろうか。
外ではなく中からのような気もする。
室内に動くものはない。
違う。
日記帳を何度も行ったり来たりしながら、私はこの現象に関連する何かを探した。
私は焦る。今にもまた、あの腕が姿を現すのではないか、壁の中を這う何かが戻って来るのではないかと――そのことを強く恐れていた。
しかし、今のところは何の音もしない。水音も、這うような音も、破裂音も破砕音も、何も。
そうして、しばらく日記帳を読んでいくうちに、私はそこに――亡き父の名を見つけた。




